イカロスの眠り
「どうだい、世界の最後の夜は」
コウセイが訊いた。薄い、あまり血色のよくない唇に煙草をくわえ、火をつける。眼鏡にライターの炎が映り込んだ。
最後の一本だった。煙を深く肺に入れる。空になったケースをくしゃりと潰し、愛用のジッポをしげしげと眺めると、そのまま病院の屋上から投げ捨てた。
ナヅルはそんなコウセイの様子を見て、苦笑する。
「ああ、相変わらず空の宝石箱だよ」
整髪料をべったりと撫でつけ、いかにもできる公務員といった格好のコウセイと、茶髪でストリート系のナヅル。ナヅルは童顔だけに、二人で並んでいると年の離れた兄弟に間違われる。実際の歳は一つ違うだけだ。
ナヅルはコウセイの煙草をさっと奪い、自分の口にくわえた。
「おい、俺のだ」
「ケチケチすんなよ。――しかし、な~んも起こらねぇな」
ぺたんと座り込んで、眼下の街を見る。
「意外とそんなもんだろう」
コウセイは煙草を取り返すと、体を折り曲げて、不満げなナヅルの柔らかい唇にキスした。改めて煙草を吸い直す。
二人の首に、お揃いの黒いチョーカー。
「くそ。勝手にすんなよな」
「ケチケチすんな。いろいろ思い出すかい?」
ナヅルの瞳が
「まぁなぁ……」
街は静かだった。
普段なら、遅い時間でもヘッドランプの白、テールランプの赤の光がたくさん動いているはずだ。
今日はそれすらも見えない。自動車そのものが動いていないのだ。
この病院も、忙しいのは昨日までだった。今は――。
「あいつら、どうしたんだろう」
ぼそりとナヅルが呟く。
「みんなくたばっちまったんじゃねぇか」
「まぁそうだけど」
「そりゃどっかで俺たちみたいなやつもいるかもしれないけどな」
「だといい……よくないか」
――生き残りが多すぎても結局、また面倒なだけだ。
「俺はお前がいて良かったよ」
「話し相手って大事だよな」
「気が合う話し相手、な」
「静かだなぁ」
「一番うるさい生き物がいないもんな」
「賑やかな夜が懐かしいか?」
「いや、ロクな思い出がねぇ」
「俺もだ」
ナヅルはいわゆるドロップアウト組だった。普通の生活ができなかった。不眠症を抱え、この病院で治療を受けていた。
<普通>からはみだしたその見返りに――といっては何だけれど、恐ろしく頭が切れる。それでいて子供っぽい一面も見せることがある。
コウセイは厚生労働省の下っ端役人だ。行動力がずば抜けていて――押しが役人にしては強すぎた。そのせいで周りから孤立してしまった。コウセイもまた、不眠症でこの病院に来ていた。
偶然と必然。すれ違うように始まった恋。
「こういう理不尽な運命を辿る惑星も宇宙じゃ多いのかなぁ」
「宇宙は広いからなぁ」
「罪深い星ばっかだったりしてな」
――罪ってなんだ? 生きることか?
「そうかもしれねえな」
カタストロフィーは意外なところから始まった。
狂的――としかいえないような犯罪が突然、同時多発的に発生したのだ。
それも世界規模で。
前日まで普通に生活していた人たちが突然、狂乱して暴れ出す。
あまりに突発的かつ偶発的。個々の症例の、関連性をいくら探ってもわからなかった。
わかるはずがない――発症者の共通点はただ一つ。
直前まで眠っていたこと。
おそらく最初に気づいたのはナヅルだった。集合的無意識からの侵略。
――眠っちゃだめだ。
地理的に離れた民族の持つ神話に、同一と言っていいほど似たイメージがみられるのは何故か。個人の無意識が<集合的無意識>につながっているからだ。それを利用できることは人類どうしのコミュニケーションに絶大な効果を持つが、今回は逆に弱点となった。
発症者は信じられないことに、体細胞の組成が変わっていた。常人の数倍の力を出して暴れ、飽くことがなかった。
<
――これは自然現象なんかじゃない。おそらくは邪悪な意思が、夢を
ただナヅルの言うことは、誰も信じはしなかった。
ごく普通の一般人が、突然化け物に変わる。
国会で議員が暴れたり、警察や消防署内でも事件は起こり続けた。どう止めようがある?
社会は崩壊に向かった。こんなにも
こんな形で――人は滅ぶのか。
皮肉にも不眠症ゆえに二人はリスクから離れていられた、しかし。
生きている以上、眠らずにはいられない。
「なぁ……、星座ってこう言う時に生まれたのかな」
「最初は大昔の暇潰しとかだったんじゃねぇの?」
船乗りの夜番なんて、やる事がなさそうだ。
「例えばさ、あの星とあの星を繋げて……」
ナヅルは星空に向かって指差す。
「どの星とどの星だよ、分かんねぇよ」
「俺説明下手なんだよ」
「知ってる」
「昔はさ」
「どのくらい昔の話だ? まだ俺たちがまともだった頃か?」
「あの頃、夜ってのは酒を飲んで寝るだけだったよ」
「あの頃の大人はみんなそうだろ」
「星空なんか見る事もなくて……」
「星自体よく見えなかったからな」
――仕事仕事で見る気もなかったし。
コウセイは
――まあ、俺にはコイツがいる分、マシかな。
「お、流れ星」
ナヅルは宝物を見つけた子供のような顔をした。
「何か願ったか?」
「今更何も望まねーよ。隣にお前がいれば十分」
「そいつはどうも」
「この星空を見ているとさ、永遠に続きそうな気がするよな」
「宇宙全体で言えば明日も明後日も続いていくのさ」
「逆に言えば、毎日どこかで星が終わっているのかもな」
「破壊と創造か……神の声でも聞こえねぇかなぁ」
「聞こえてたらこんなところにはいないよ」
「もうカウントダウンは始まってんのかな」
ナヅルはポケットからガーバーの
「知りたいのか? 俺はやだね」
コウセイは差し出されたソーセージを手に取り、かじりつく。
「俺だってそうだよ。けど……」
「まぁその気持ちも分かる。だから見上げてんだろ?」
「今日世界が終わっても、世界は有り続けるんだ」
「不思議でも何でもないけどな。見方の違いだ。素朴実在論ってやつだな」
「馬鹿にしてるな。この世は全て仮想現実かもしれない――のが観念論だろ。俺が考えてるのはさ、今の騒ぎで変わってしまった人間にとって世界は連続しているのか、ってことなんだ」
「……ビールも持ってくるんだったな」
「眠れたらさ、知らないうちに終わってたのかな」
ナヅルがぼそっと言った。
「いや俺たち眠れないだろ」
「だからだよ。でも俺は、知らないうちになんて嫌だな。死ぬ時ぐらいはしっかり見据えていたい」
「そりゃだいぶMっ気のある発言だぞ」
「痛いのが好きなのはコウセイの方だろ」
「うるさい。お前がわがまま過ぎるんだ。主導権を取らせてやってる俺の優しさってやつを――」
「こんなのにつき合わせて、悪かったよ」
ナヅルは首のチョーカーをいじりながら言った。
あえて話題をそらす、コウセイ。
「お前はどう思うんだ? これは人類の罰、だろうか?」
「生きている罰か? それは捉え方次第じゃないか?」
「そうか?」
「ああ、少なくとも俺は不幸を感じちゃいない。今はな。これは奇跡なんじゃないかとすら思う」
ナヅルがコウセイのズボンの裾をぎゅっとつかんだ。
――俺にとってはお前が奇跡そのものだよ。
コウセイはそう思ったが、口には出さず、別のセリフを吐いた。
「確かに、ある意味な」
ある意味、二人は心の深いところで破滅を願っていたのかもしれない。いや、人類の多くがそう望んだからこそ、今のような事態になったのか――。
コウセイの身体が震えたのは、夜風の冷たさのせいだけではなかった。
「うわああああっ!」
静かな<
放置された車が連鎖的に燃え上がった。
<終わり>が始まる。廃炉予定も含め、日本に原発が54基。管理する人間が、一人もいなくなったら?
「始まっちまったか! どうする? 逃げるか?」
「もう地上に安全な場所なんてないよ! いい、ここでいい!」
「分かっちゃいたけど……分かっていてもこれは……」
「これでいいんだよ。何もかもなくなるんだよ。俺たちもこれで……」
ナヅルはそう言いかけて、目を疑った。
街の火事より明るい何かが突然に現れたのだ。
「うおっ、まぶしっ!」
「な、なんだ……っ?」
笑ってしまうくらいオーソドックスな、<光る円盤>が空にいた。
「まだ生き物がいたのか、君達、話は通じる?」
「「う、宇宙人だーっ!」」
「良かった、通じるね。早く来て、今なら助かる」
「いや、いい。俺たちは星と運命を共にする」
「そうだよ、俺たちだけ逃げるだなんて……」
「うん、君たちの意志は分かった」
「じゃあとっとと帰ってくれ。俺たちはここで終わるんだ!」
「そうだ! これはきっと初めから決まっていたんだ!」
「そうはいっても、助けられるものは助けなきゃならないのが規則だからなあ。……強引に連れ去る!」
「うわあああ!」
「何をする、やめろぉ!」
宇宙船から投射された光線はものすごい力で病院の屋上から二人を引きはがし、宇宙船の内部に引っ張りこんだ。
「ああ……」
あり得ない速度で地球が遠ざかる。壁面に投影された映像がそれを示していた。
「間一髪だったね」
陽気に宇宙人が言う。
「君たちも奴らに襲われたんだね」
「俺たちをどうする気だ」
コウセイが語気を強めた。宇宙人はあくまでも善意のカタマリのような顔で、
「それは僕が決める事じゃないよ」
と言った。
「自分の生き方は自分で決めろ……か」
ナヅルが呟く。
「気楽に言ってくれるよ」
「な、何急にじいっと見つめるんですか」
「お前が悪いんだからな」
限界だ。
「えっ?」
「お前が、俺たちを助けたりなんかするから……」
バッテリーが切れる。いくら不眠症といっても眠らないわけにはいかない。
チョーカーにしこんだ機械で特殊な電波を出し、眠らないようにしていたのに。
コウセイとナヅルは床に倒れた。
「えええっ!」
二人の身体に変化が始まった。
「コウセイ!」
ナヅルの鋭い叫び声。宇宙船の内部を滅茶苦茶に破壊していたコウセイの瞳に、わずかな意思の光が宿った。
「もういい……もういいんだ」
「ナヅル」
コウセイの手が震える。
――俺は変わっちまったのか?
自力で戻って来た者はいなかった。病院であまりにも多くの例を見てきたから、わかる。
地球を離れたのが、物理的な距離が、症状を軽くしたのか。
宇宙人は……伏せたまま動かない。たぶん死んでいる。
壁面に大きく映し出されているのは――太陽。
「このままだと、太陽に突っ込む」
「お前は……どうして?」
「せめて死ぬ時くらいは、正気じゃないとな」
太ももをナイフで刺していた。血が流れている。
「――馬鹿だな、お前は。この意地っ張り」
「そうだよ。俺はわがままなんだ。お前に触れていたいよ。いいだろ?」
「ああ、もちろん」
コウセイはナヅルを自分の前に抱き寄せた。
照明が消える。
目がついていかない。辺りが闇に包まれた。
刹那か永遠か、感覚がわからない。
暗闇の中で、互いの体温だけが真実だった。
――俺たちは、変わっちゃいない。
唐突に、どういう仕組みなのかわからないが、あらゆる壁に周りの星々が投影された。
宇宙に二人だけで放り出されたような――。
「ナヅル、泣いてるのか」
「――美しい。相変わらずの宝石箱だ……」
ナヅルの涙に星の輝きが映りこむ。
その涙こそが世界で一番美しい。そうコウセイは感じる。
宇宙船は一直線に太陽へと突き進んでゆく。
終
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