あんぱん

丁度夕方の店が一番忙しい時間帯に隆之お兄ちゃんが店に来たそうだが余りに忙しくて凪沙は接客出来なかった。

焼きあがったパンを店頭に出す時、帰っていく後ろ姿だけを見かけて「似た人だな」とは思った。しかしまさか本当に本人だとは思わなかった。隣にウサギの人形を抱いた小さな子供がいたのだが、その子供も見知らぬ女の子だったから。

後から母に「あの日、凪沙のお店に隆之君が行ったって。でも忙しそうで挨拶出来なかったってメールが来てた。あんぱん美味しいって」と教えられたのだ。

そしてそこであのウサギの女の子が恐らく幽霊である、という事に気付いたのだった。

 その日は忙しいだけでなくイートインコーナーも満席で店も騒がしかった。そのため耳鳴りやおかしな音を気にしている余裕も無かったのだ。

 ふと、もしかしたら隆之お兄ちゃんのところにこれから生まれて来る次の子供が女の子、なのかもしれないけれどそれはまだわからない。

 多分凪沙を心配して休みの日にわざわざ様子を見に寄ってくれたのだろうが、まさかそこで自分自身が子供の幽霊に付き纏われていたとは夢にも思わないだろう。

 優しいけれど間が抜けてるなあと思わず笑ってしまう。


 今日は閉店までの作業で、店長がバイクで家まで送ってくれると言ったので好意に甘える事にした。バックヤードの棚の上に置きっぱなしの予備ヘルメットを渡される。時々、閉店まで残業してくれた他のアルバイトさんを送ることもあるから置きっぱなしにされているのだ。凪沙もたまに遅くなる時は乗せて貰う事が度々あった。

 店長は三十代のバツイチだ。仕事が忙しすぎた結果奥さんに逃げられたという。そのため、いつか結婚する時は俺に相談しろよ、が口癖である。今はバイクが恋人で、休みの日はツーリングに行く事もあるそうでかなり運転慣れしている。


 地下に搬入口兼従業員用駐車場がある。

 しかしこの駅ビル勤務で車通勤の人は少なく、ほぼパートタイマーさん用の自転車で埋まっている。後は大体徒歩か電車通勤だ。

 新しく雇うパートさんのシフト作成の事などを相談しながら駐車場に降りると、ふと今夜は随分冷えるな、と思った。

 いや、もう十月に入り夜は冷えて来ていたのだが、駐車場は更に三度位気温が下がったように感じたのだ。

 そして我々二人しかいないはずの駐車場だと言うのに、明らかに足音がひとつ多い。

 薄暗い地下に不思議な反響音。

 でも店長は何も気にしていないようなので、多分これはいつもの凪沙にしか聞こえない音だ。

 もしかして今日も見えちゃいけないものがいるのかもしれない、ということに気付いて極力店長から離れないように早足で歩いた。

 如何せん店長は身長百八十センチ、歩幅が違いすぎる。ある程度こちらに合わせて歩いてくれるものの、それでも気を抜くと置いていかれてしまうのだ。

 視界の隅に子供の真っ白な足が見えたような気がしたけれど、敢えて視線を動かさずに通り過ぎる。


「中島、最寄り駅確かS駅だよな。駅前まででいいか?」


 店長にそう問い掛けられ「はい、よろしくお願いします」と軽く頭を下げてからバイクの後ろに跨がった。


 環状線を真っ直ぐ行けばバイクならせいぜい十分から十五分程度の距離だった。

 途中、とあるコンビニ横の脇道に折れればすぐにS駅。

 そのはずだった。


 その道を曲がった途端、二人を乗せたバイクは突然スリップし転倒した。

 天気も良く、夜とは言え視界良好、いつもの店長の運転なら滑るような事はそうそう無い、はずだった。


 体が軽い凪沙は一瞬体が浮いたように感じたがすぐに路肩にある植え込みの上に投げ出された。

 咄嗟の事の割にそれなりにうまく受け身が取れたなあ、とか呑気な事を考えつつも体がうまく動かず起き上がれない。

 コンビニの店員が店から飛び出して来る姿だけは何故かはっきりと見えた。そして何故かその足元に小さな動物がまとわりついているのがぼんやりと見えた。


 夜空の遠くから救急車の音が聞こえてくる。


 まさかの事故の結果、店長は肩を強く打っていた上に左足首の骨折。アスファルトに投げ飛ばされた凪沙は身体中擦り傷だらけではあったがやはり左手首の捻挫と腰の打ち身。

 しかし二人とも事故の割には長期入院が必要になるような大きな怪我はなかった。

 念のために凪沙も店長も頭の検査をしたのだが、異常無しだった。後からむち打ちが来る可能性は大きいが、と医者に言われたけれど。

 驚く程に運が良かったとしか言いようが無い。

 体が宙を浮く程の事故だったにも関わらず、命に別状なくこれ位で済んだのだから。それに他の誰かを巻き込むような酷い有様にならなかったのもラッキーとしか言いようが無い。

 とは言え店長のバイクだけは修理屋が困り果てる程に悲惨な状態だったようだが。


 ああ、本社には怒られるだろうしパートさん達にも迷惑掛けちゃうな。店長の肩の痛め方じゃしばらくはまともにパンは焼けないだろうし、私だっていつもと同じように動けるとは思えない。

 凪沙は看護婦さんに手首をテーピングで固定してくれるのを見ながらずっとそんなことばかり考えていた。憂鬱だ。

 どんな巡り合わせなのかはわからないが、店長と凪沙が運び込まれた病院は丁度凪沙の従姉妹が看護婦として勤務しているところだった。更に言えば彼女は今日夜勤で、今店長の手当てをしてくれている。身近な人が助けてくれている。少しだけ安心感がある。


 警官からの聴取も終わり、病院の廊下にある椅子に座らされ家族が来るのを待っている時。

 足元にふわりとした何かが触った。

 視線だけ動かして足元を見たが、そこには何もいなかった。

 しかし突然子供の声が耳元で囁いた。


「私が守ってやったんだよ、そろそろ気付け」と。


 凪沙は驚いて顔を上げ辺りを見回した。しかし何も見えなかったからそれをまた子供の幽霊の悪戯だろう、と思った。その時は。

 その時は自分も店長もあれだけの事故でこの程度で済んだのは、母に渡されたお守りのお陰に違いないと考えていた。


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