ラスク

凪沙の勤めるパン屋でほぼ唯一日持ちする商品はラスクである。無論、他の商品に比べれば、という程度の話ではあるが。


お盆に撮られた謎の写真以降、凪沙は何度も「酷い害は与えて来ないがちょっと不愉快な幽霊」を目撃した。

大体どれも不意打ちで現れるので相変わらず心臓に良くない。職場なら周囲に人が多いので怖さがやや軽減されるが、ひとりの時は相当キツイ。

仕事の休憩中、迷子の子供かと思って声を掛けたら幽霊だった、というような事が三日続けてあった。大体腕を掴んで来たり蹴りをいれて来たり、躾のなっていない客の子供かと思って声を掛けようとすると煙のように消えてしまうのだ。

もう倒れる程体調を崩す事は無かったとは言え、夏バテもあり凪沙は結構参っていた。

最近、たまの休みはせいぜい母と共に近所のスーパーかレンタルビデオ店に行くのに精いっぱいで、ほぼ引きこもっているも同然だった。外に出て変なものを見るのもしんどい。

居間のテレビで適当に映画を流しながらパンと全く関係の無い料理を母と共に作る。それが希少な気分転換であった。

高校の友人達も大半が就職したのでなかなか休みを合わせて会う事はなかなか出来ない。こないだ浅木君と会えたのもミラクルだと思っている。飲食業はサービス業であり、休みの擦り合わせが難しい。たまに連絡は取り合うがなかなか会えないのが現実であった。無論、皆それぞれ苦労しながらも元気そうなのは幸いであるのだが。


「ねえ凪沙ちゃん、次のお休みはいつ?」

 八月最後の日、慣れた手つきで魚を三枚におろしている凪沙に母が問い掛けて来た。

「………多分来週の水曜日かな」


「もし予定が無ければ和枝さんのホームにお見舞いに行かない?」


和枝さん。

あの父方の祖父の一番下の妹さん。

父に取っての叔母であり、息子を山で亡くした元占い師だ。

「別にいいけど」

豚肉をフライパンで焼きながら了承すると、母は「忘れないでね」と何度も念を押してきた。

和枝さんの住む老人ホームは少し遠いのだが、母が車を出してくれると言う。


「そのついでにお母さんの友達のお家にも寄りたいの、ホームから近いから。それでお友達へのお土産に凪沙ちゃんのお店のラスク持っていきたいんだけど、前の日に買ってきてくれる?社員割引で買えるのよね?レシートくれたらお母さん後でお金払うから」


何故母が突然和枝さんのお見舞いに誘って来たのか。

母は和枝さんと血の繋がりはないが、父と結婚したばかりの頃和枝さんには何かとお世話になった。人の心が読めると言っても過言ではない仕事の和枝さんが上手に緩衝材になることで、嫁姑の関係もそれ程こじれずに済んだと聞いている。

父方の祖母は祖父より先に亡くなっている。祖母は悪い人ではなくむしろ普段は穏やかだったのだが、物事に寄っては頑固というか妙にこだわりが強い一面もあったので苦労もあったらしい。凪沙は子供だったので余り記憶がないが、父は勿論兄や姉も祖母の話は余りしたがらないのである程度の事情を察した。

車の中で母は言った。

「こないだの法要の時に久しぶりに和枝さんの上の息子さんに会って思い出したの。凪沙ちゃんが困った事になったら会いに来て欲しいって、凪沙ちゃんが生まれた頃に和枝さんが言ってた事」


和枝さんに会うのは何年振りだろう。

少し前に認知症を患いホームに入ってからは初めてかもしれない。正直、緊張する。


旦那さんを若い頃に亡くし、女手ひとつで二人の男の子を育てたが下の息子さえもやはり早くに亡くした。今は定期的に上の息子さん夫婦がホームに顔を出しているというが、時々こうやって親戚や古い友人も訪れる事もある。来訪者がある内はまだ幸福なのかもしれないが、今の和枝さんの本心を知る事は難しい。


「やだ、雨」

車がもう少しでホームの駐車場に入ろうと言う時、突然雲行きが怪しくなり小雨がポツポツと降り始めた。

今日は晴れるって、天気予報で言ってたはずなのに。


和枝さんは記憶の中の和枝さんより一回り小さくなっていた。


ヘルパーさんに案内されて和枝さんの個室に通して貰う。

小さい個室だが綺麗に整頓されていた。和枝さんはベッドに横になっていた。

「お久しぶりです和枝さん、私、冴子です」

母が柔らかい声で話し掛けると、和枝さんは顔だけこちらに向けた。無言だが、表情は穏やかだった。

「わかるかしら、この子は私の一番下の娘の凪沙です。実はこの子の事で和枝さんにお話があって」

母が少し大きな声でゆっくりと話し掛けている間に、突然外の雨が小降りから酷いゲリラ豪雨となった。

少し薄暗かった部屋がまた一段と暗くなる。

母に促され、凪沙は立ち上がって部屋の電気をつけた。

和枝さんは驚いたように数回瞬きをした。外の雷よりも、部屋の明かりが先程から目まぐるしく変わる事に戸惑っているように見える。母は和枝さんのタオルケットを綺麗に掛け直す。


「それで、もし凪沙に何かおかしなことがあったら来て欲しい、って昔、和枝さんに言われた事を思い出したんです。もう覚えてらっしゃらないかもしれないけれど」


凪沙が再び椅子に座ろうとした時、背後でパタパタと人の走るような音が聞こえた。しかも子供のような、そんな気がした。

今は九月だが、冷房をつけるには涼しい。しかし部屋を締め切るには少し暑い。だが雨が突然降ってきたので窓は開けられず、仕方なくドアを少しだけ開けていたのだ。だから廊下の音がよく聞こえる。

恐らくこれは職員でも利用者でもない、面会に来た家族でもない。


振り返ってはいけない奴だ。


そう悟った瞬間、凪沙は立ったまま硬直した。


………外の足音は何度も何度もこの部屋の外を、私の背後を行ったり来たりしている。


母はこの音に気付いているのだろうか。でも多分、これはいつもの耳鳴りと似たような物で恐らく「凪沙にしか聞こえない音」だ。そう思った。


数秒間だけ脳内で思案し意を決して何か声を出そうとすると、ずっと不思議そうな顔で母を見ていた和枝さんが凪沙の方を見た。その目には意志があった。


「………凪沙ちゃんには白い神様が憑いてるから大丈夫。でも、それを大事にしないと、龍二みたいになる」


その声はかくしゃくとした、よく聞こえる声だった。


龍二。山で亡くなった和枝さんの次男の事だ。

しかし、白い神様とはなんだろう。

法事の写真に映った白い羽のような物と関係があるのだろうか。

和枝さんのしわしわの手に母が自分の手を重ねる。

「………白い神様とはなんでしょうか」

母は大分焦りを抑えている。かすかな声の震えでそれがよくわかる。

「ごめんなさいね………視力が下がっちゃって………よく見えないの………」

和枝さんの声が少しか細くなる。

そして背後の足音は鳴り止まない。

もし本当に生きている子供がホームの廊下を走り回っているなら、そろそろヘルパーや家族に注意されて音が止まっても良い頃だ。

しかし止まらない。

和枝さんはしばしぼんやりと天井を見つめていたが、再び母と凪沙の顔を交互に見た。


「神様に美味しい物を作って上げて………」


母はその言葉を聞いて、もうこれ以上の会話は無理と判断したのかそっと手を放して「ありがとうございます」と頭を下げた。


「今日、帰る時は後ろを振り返らないで。車が国道に出るまで凪沙ちゃんはバックミラーを見てはいけない」


そこまで一息で喋った和枝さんは、数回小さな咳をすると目を閉じてしまった。

母は立ち上がるともう一度「ありがとうございます」と頭を下げた。つられて凪沙も頭を下げた。


母と二人、早足で施設の廊下を抜ける。

まだあの子供の跳ねるような足音は聞こえてくる。入口を出る寸前、何かに背中を強く叩かれたように感じたが、堪えて振り向かず車まで走った。


母が車を駐車場から出す時、凪沙は助手席で頭をうなだれるように下げていた。


 絶対に後ろは振り向かない。バックミラーも絶対に見てはいけない。震える自分の手と膝だけをじっと見つめて耐えた。


「国道出たから顔上げて大丈夫よ」

その母の声にやっと緊張の糸が切れる。辛気臭いのはごめんだったが、それでも小さくため息がこぼれる。

「お母さん、バックミラーになんか変なの映ってなかった?」

そう問い掛けると母は「何にも」と申し訳なさそうに答えた。


やっぱり、見えているのは私だけなんだ。


突然降りかかってきた霊感と神様。なんと胡散臭い取り合わせだ。

脳の病気か、宗教を疑われてもおかしくない。そんな取り合わせだ。

しかし幽霊に悪戯されているのは現実で、なんとかしなくてはいけない。


「やだ凪沙、背中汚れてる」

 母の友達の家の近くの駐車場で、母が凪沙の背中に触れた。

「砂みたいなのがついてる、ちょっと払ってあげるからじっとしてて」

 そう言って母はハンカチを取り出した。凪沙はされるがままじっとしていたが、頭の中で「文字通りの汚れを払うっていう意味なのか、それとも幽霊を祓うって意味なのかどっちなんだろう」と考えていた。でも口に出したら母は「あんたはすぐそういう下らない事言うんだから」と呆れるに違いない。

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