塩パン

目覚ましの音が鳴り響く。

虚ろな意識の中、自分の顔の上をもふもふとした物体が通り過ぎていく感触があった。

例えば飼っているペットが朝起こしに来る、そんな感触だ。

暑苦しいなあ、と思いながら凪沙は目を覚まし体を起こす。そして今の感触が夢であった事にようやく気が付いた。そうだ、今この家にペットはいない。時計を見て慌てて部屋から飛び出す。今日は早番だ、急いで家を出なくては。


パン屋の厨房は暑い。

夏ともなれば尚更で、空調など形だけの置物だ。


丁度七月半ば、新人研修期間もとうに終わり凪沙は改めて地元近くのとある駅ビルにある店舗に配属になっていた。

イートインコーナーもあるような、そこそこ大きな店舗だ。

高校の頃、丁度乗り換えに使っていた駅だったので元々お客としてこの店舗を利用する事が多かった。この店舗は店員さんの対応が皆良かったから、最初の配属がここで良かったなと思う。

勿論パン作りは大変なのだが。

この店舗は駅ビルの一階に入っていて、同じフロアには幾つものスイーツ店が並んでいる。


仕事中、凪沙は軽い熱中症で倒れた。

病院に運ばれる程酷い物ではなかったが、昼休憩を早目に取らせて貰い店長の肩を借りてなんとか立ちあがりバックヤードで休むことにした。

非常に狭いが一応空調の効いたバックヤード。

パイプ椅子に座って水筒の水を飲む。吐き気は大したことはないが、頭痛がちょっと気になる。

視線だけ動かして壁に掛けられた時計を見上げる。

椅子に座ったまま二十分位目を閉じていよう。

そう思った時に店長がやってきた。

「熱中症の時は塩分取るといいからこれ昼飯に食べな」

そう言ってうちの店の塩パンをひとつ差し出してきた。百八円、人気商品。凪沙の大好物だ。

ありがとうございます、迷惑掛けてすいません、と言いながら受け取る。

「毎年夏はどこの店舗でも結構熱中症で倒れる奴いるんだよ、特に新人でさ。仕事慣れたら適当に水分取るタイミングもわかってくると思うから」

店長はそう答えて急いで仕事に戻って行った。

塩パンをかじると本当に体が少し楽になったように感じた。水で胃まで流し込む。

背もたれに体を預けて目を閉じる。

新人なのに申し訳ないなあ。

そう思いながらうつらうつらしているとすぐそばで物音がして目を開けた。

他の店員が入って来たのだろうか?

そう思って顔を上げて辺りを見回すが、誰もいない。

「………誰かいるんですか?」

少し顔を動かしただけで全体を見渡せる位狭いバックヤードで全く無意味な言葉ではある。

しかし一応そんな声を出さずにはいられなかった。バックヤードの様子にも気を配る、ある意味社員としての義務感のようなものを感じて。

不意に耳鳴りがして頭を軽く振った。

その時、奥に置いてある掃除用具入れになんとなく視線が行く。

それはとても古く、立付けが悪いのかいつも数センチだけ扉が開いたままになっているのだ。


その隙間から人の手がだらりと飛び出していた。


人間は本当に驚くと声が出ない、という経験は初めてだった。


頭の中が疑問符でいっぱいになる。


あれはなんだろう?


瞬きをしている間にその手はヒラヒラと揺れて中に引っ込んだ。

その手は女の子のような、小さく柔らかそうな手であった。


凪沙が動けずしばらく呆然としていると、主にレジ担当のパートさんがバタバタと入って来た。アラフォーの主婦、カジさんだ。

「中島さん、ごめんなさい。イートインコーナーでお客さんが二人続けてジュースこぼしちゃって」

カジさんは急いで奥の掃除用具入れに駆け寄る。


それはだめです


凪沙がそう口を開く前にカジさんは掃除用具入れを開けた。


中にはいつも通り、雑然と掃除用具が詰め込まれているだけだった。


今週の凪沙はずっと早朝からの勤務だった。

今日は少し残業をして遅番のバイトさんに引き継ぎをして夕方頃には店を退勤した。

体調が悪くなければいつもはもっと長く残業するのだが、店長の厚意で帰らせてもらうことにした。今日の遅番のバイトさんがベテランばかりだったのも幸いした。


駅のホームで電車を待っているとカジさんに声を掛けられる。

今日は凪沙より三十分早く退勤したカジさん。仕事の日はいつも駅ビルの隣にあるスーパーで夕飯の買い出しをしてから帰るとよく話していた。

目の前に滑り込んできた電車に乗り込みながら他愛ない話をする。

「………カジさんはあのお店のパート長いですよね」

思えば凪沙が客として店を利用していた時からレジに立っていた。

社員として店に配属され改めて挨拶をした時には凪沙の事を覚えてくれていたし、他のパートさんとも早く馴染めるようにと積極的に話し掛けてくれたありがたい存在だ。レジ担当のパートさんの中では相当なベテランのはずである。

「五年前に旦那の仕事で引っ越してきてからずっと週三でやってるからね」

 カジさんはそう言って笑う。

「………正直ちょっと言いづらいんですけど、うちの店のバックヤードってお化けとか出ませんか?電球もよく切れるし薄暗いから時々怖くて」

 凪沙が恐る恐るそう問い掛けると、カジさんはあっけらかんと答えた。


「いるわよー、ていうかあの駅ビルは実はそういう話多いんだよ。他の店舗とか上のフロアのバックヤードでも変な話多いって。人の集まる場所はしょうがない、ってうちの子が言ってたよ」


余りにあっさりとした返答に凪沙は驚いた。

あの駅ビルを客として利用していた頃には全くそんなものを見たことはなかったのに。余り大きな声では言えない話ではあるが、凪沙はかいつまんで今日の話をした。


「見えない人は全然見えないし、特に悪さするお化けはほとんどいないみたいよ?中島さん、今日は体調悪かったし波長が合っちゃったのかもね。私もね、少し前に息子の受験で疲れてた頃にエスカレーターで子供のお化けが頭から降ってきた事あるんだ、あはは」


カジさんはそこまで話して笑うと「あ、降りなきゃ。お疲れ様!」と言って慌ただしく電車を降りた。窓越しに軽く会釈をし合う。凪沙の家は隣の駅だ。


駅を出て、商店街を抜け、緩やかな坂道を上がっていくと住宅街。

夏の湿気を切り裂くように真っ白い猫が走り抜けていくのが見えた。


帰宅すると母が夕飯の支度をしていた。

「ねえお母さん」

背後から声を掛けると母は「あらお帰り、今日は暑かったでしょ」と言いながら振り返る。


「あのさ、私、今日仕事場でお化け見た」


母はその言葉を聞くとおたまを握り締めたまま目を見開いた。声を失ったまま。

「………お母さん、鍋、ふきこぼれてるよ」

凪沙がすたすたと近づいて火を止めるとやっと母は我に返った。

「お父さんが帰ってきたら言わなきゃね………」

母はぼんやりとそう呟いた。

「あと今日仕事中に熱中症で倒れた」

そうぶっきらぼうに言うと母は「そっちの方が大変じゃない!麦茶冷えてるから夕飯まで休んでなさいよ!今日は手伝わなくていいから!」とようやくいつもの母の顔に戻った。


その日、不思議な夢を見た。

真っ白い髪の子供が優しく凪沙の頭を撫でている。知らない子供のはずなのに、なぜかとても懐かしく感じるのだった。


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