第五章「1936年 伯 林 ‐ベルリンに陽は暮れて‐」

 ザーザーと降り続く雨音を聞きながら、西はテーブルに置いたウィスキーの小瓶と睨めっこしていた。


 一日目の競技を終えた西は、国内外の馬術仲間からの誘いを「風邪がぶり返すと不味いから」と断り、選手村へと戻った。

 しかし、自室のベッドで横になっても思うように寝付けない。それで気晴らしに一杯やろうと、敷地の一角に建てられたヒンデンブルグハウス内のサロンへ足を運んでみたのだが、どうにも酒が進まないのだ。

 遠くの空では雷が鳴っている。夕刻から振り出した雨は、いよいよ本降りになっていた。それがますます憂鬱を誘う。


 酔うのを諦めた西は、懐から西洋横笛ハモニカを取り出した。

 明治の終わりに日本へ輸入されたハモニカの音色は、大正から昭和にかけて若者たちを魅了した。西もその一人で、少年時代から事あるたびにハモニカを演奏しては気を紛らす癖があった。

 幸いサロンには誰もいない。気兼ねなく西はハモニカを吹き始める。

 静かな室内に、優しくもどこか哀愁を帯びたリードの調べが響く。

 

「カルメンの『ハバネラ』ですね」


 すっかり演奏に入り込んでいた西は、急に声をかけられて驚いた。

 見ればサロンの入り口に、いつの間にやら軍服姿の青年が立っている。濡れたブーツから察するに、おおかた雨足の強さにこのハウスへ逃げ込んできたのだろう。


「失礼しました、大尉殿。自分のことは気にせず演奏を続けて下さい」


 雨露に打たれた彼の肩章は、ドイツの騎兵将校のものだ。するとこの若者も馬術選手の一員らしい。

 西はハモニカを置いて、こちらへ敬礼する青年を見つめた。その顔に見覚えがある気がしたのだ。


「君は確か……」昼間に順位表で見かけたドイツ選手らの名前を思い出そうするが、とっさに出てこない。それを察した青年が自ら名乗る。


「自分はドイツ国防軍騎兵連隊所属、コンラート・フォン・ヴァンゲンハイム中尉であります。貴方は日本のバロン・ニシ大尉殿ですね。お会いできて光栄です」

 

 畏まった調子で大尉殿キャプテン大尉殿キャプテンとやたら連呼するのに苦笑しながら、西はヴァンゲンハイム中尉に話しかける。


私はドイツ語が話せるイヒ・カン・ドイチュ・シュプレヒン。慣れない英語を使わなくてもいい。そんなところに立ってないで、君も椅子に座ったらどうだ」


了解でありますっヤヴォール大尉殿ハウプトマン」ヴェンゲンハイム中尉はどこか嬉しそうに向かいの椅子に腰掛ける。


 上手い具合に酒もある。気分転換に他国の選手と親睦を深めるのもいいだろうと、西はヴァンゲンハイム中尉に自前のウィスキーを勧める。

 恐縮しながらグラスを受け取る彼を見て、ふとあることが気になった。


 オリンピック開催も終盤になると、決まって各国の代表選手はホテルや迎賓館を貸し切った祝勝会や懇親会で引っ張りダコになる。ましてや地元ドイツの選手ともなれば、社交界を飛び回るのに忙しいはずだ。

 そんな彼が、こんなところにいてよいのだろうか?

 

「実はパーティを抜け出してきたんです。どうにも居づらくて……自分はドイツ代表として相応しくない気がして、申し訳ないんです」


 バツが悪そうに答えるヴァンゲンハイム中尉を見て、西は思い出す。

 彼は今日の調教審査で46位。三名の失格者が出ているから、残る四十七名のうち下から二番目の成績である。 

 ほか二人のドイツ選手が上位の好成績を収めるなかで、日本選手よりも点数が悪かったのは彼一人しかいない。

 顔に見覚えがあったのもそのためだ。

 緊張のあまり蒼い顔で手綱を握る姿に同情しつつ、「馬術大国ドイツにもこんな選手がいるのか」と印象に残っていたのだ。


 聞けばヴァンゲンハイム中尉はまだ二十六歳、西よりも八つも年下だった。ドイツの馬術選手のなかでは最年少だろう。さぞかし肩身が狭い思いをしているに違いない。

 

「なに、まだ競技は始まったばかりじゃないか。今日の失敗は、明日また取り返せばいいんだ」


 その言葉は、西にとって自分自身への励ましでもあった。


「大尉殿は強いですね……。自分はなかなか気持ちを切り替えられません。こうしてる今も、明日のことを考えるだけで気が重いです」


 ヴァンゲンハイム中尉が不安に思うのも仕方がない。

 明日の野外耐久審査は、これまでにない難関コースが用意されている。人馬の腕が未熟では、無事に完走することさえ難しいものだ。

 西の見立てでも、彼にはやや荷が重いように思われた。


 しかし、彼を止めようとは思わなかった。

 それどころか自分でも意外なことだが、ともに競い合う相手でありながら「この若者の背を押してやりたい」という気持ちが湧いていた。


「こんな言葉を知っているかい――〝人生において最も重要なことは、勝つことではなく、堂々と戦うことである〟」


「……クーベルタン男爵のお言葉ですね」


「そうだ。今大会の開会式で、彼はそのようにオリンピック精神オリンピズムを説いておられた」


 開会式の最中、西はここ選手村で熱にうなされていた訳だから、これは後から人づてに聞いた話である。だが、ここはあえてIOC(国際オリンピック委員会)会長の言葉を借りることにした。


「この言葉を私はこう解釈した――我々が真に戦うべき相手は、おのれの中にあるのだ、と。自らの弱さに打ちつことで、勝敗以上に得られるものがあるはずだ」


 熱く語りながら、西は久しく忘れていた感覚を思い出していた。

 四年前のロサンゼルス大会で西は、ただの挑戦者だった。

 日本人の馬術選手のなかでも最年少者だった西に、本気でメダルを期待している者など誰もいなかった。

 それでも西は自身と愛馬を信じて、壁のような障害に立ち向かったのだ。

 今の西は金メダリストではない。この青年と同じ一人の選手だ。ならば、やるべきことは一つだ。


「逃げずに挑戦することが大切なんだ――堂々と戦おうじゃないか」


 西の話を真剣に聞いていたヴァンゲンハイム中尉は、感動するように肩を震わせる。

 

「了解であります、大尉殿。明日は自分もドイツ騎兵の誇りに賭けて、正々堂々、競技に挑みますっ!」


 表情を輝かせる若き青年に、西は力強く頷き返す。

 それからほどなくして、ヴァンゲンハイム中尉は一足早くドイツ選手の宿舎へと帰っていった。

 去り際に感謝を述べる彼を見送りながら、西は礼を言うのはこちらの方だと思った。

 重要なのは、堂々と戦うことである――彼のお陰で、西はおのれに与えられた使命を思い出すことができた。


 いつの間にか雨は上がり、窓から穏やかな月明かりが差し込んでいる。

 西はグラスに残ったウィスキーを一気にあおる。熱い酒が胃に染み渡るのと同時に、気持ちが奮い立つのを感じていた。

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