第六章「1936年 伯 林 ‐総合馬術競技・二日目(前)‐」

 野外耐久審査クロスカントリーで使用されるコースは、選手村の南に広がる丘陵地帯に造られている。


 コースは五つの区間で構成され、全長36キロにも及ぶ。それを二時間以内に走破せねばならない。

 区間ごとに決められた規定時間より、通過タイムが遅ければ減点。またコース各所の障害飛越に失敗しても減点となる。

 速さだけでなく、騎手には冷静な判断力が、馬には障害物に怯まない精神力が求められる。その上で、長時間の野外騎乗を耐え抜く持久力が問われるのだ。

 総合馬術が、馬術のなかで最も過酷とされる所以であった。


 8月15日、早朝。 

 スタート地点となる草原には、すでに大勢の人馬が集まっている。前日の大雨が嘘のように空は晴れ渡り、絶好の競技日和といえた。

 

「今日は頼むぞ、アスコツト」


 アスコツト号の調子は上々だ。今朝の飼い食いも良く、前日の疲労は感じられない。

 首を撫でてやると、アスコツト号は〝任せろ〟と言うように「ブルッ」と鼻を鳴らす。いつもと変わらぬ愛馬の様子に安心しながら、西は辺りを見渡した。

 

 待機所の一角では、ドイツの人馬が上官と思わしき将校や大会役員、新聞記者たちに囲まれている。そのなかに昨夜、西と酒を交わしたヴァンゲンハイム中尉の姿を見止める。

 ヴァンゲンハイム中尉もこちらに気づいたようだ。小さく敬礼する彼に、西も頷きで応じる。


 草原に建てられた『Startシュタート』の旗が、大地を抜ける風にはためく。

 軍楽隊のトランペットが奏でる勇壮なファンファーレが鳴り渡り、第一走者の人馬がスタート位置についた。

 午前8時00分。

 四十七組の人馬による、長く険しい一日が始まった。


     ***


 各馬のスタートは前の馬に追いつかないよう、間隔を空けて行われる。 西とアスコツト号に順番が回ってくるのは、まだ先だ。

 スタートまでの時間を利用して、西は仲間たちとコースの難所や対策法について確認する。


 今回使用される野外コースには、過去の大会には存在しなかった奇抜な障害が多数用意されている。特に第四区間には三十五もの自然障害が配置され、ここをいかに切り抜けるかが勝負の別れ道となるだろう。


「ド・ムルタージュ中尉が落馬したそうだぞ」

「例の第四区間だ。失格になったらしい」


 作戦を練る西のもとへ報せが届いたのは、競技が開始されてから小一時間ほど過ぎた頃合いだった。


「……あのムルタージュ公が?」


 シャルル・ド・ムルタージュ中尉はオランダの誇る名騎手である。

 過去のオリンピック・総合馬術において二大会連続で金メダルを獲得し、今大会では三連覇が期待されていた選手だった。

 優勝候補が早くも脱落したという報告に、西をはじめとした参加選手たちに少なからず動揺が走る。

 

 百戦錬磨のベテラン騎手さえ完走を阻まれるとは……このコースには、一体どんな魔物が待ち受けているのか?


 ざわつく周囲に呑まれるように、アスコツト号が不安げに首を巡らせる。

 西はアスコツト号に顔を寄せると、静かに目を閉じた。

  

(――怖れるな。俺とお前は、どんな障害にも負けやしない)


 西が目を開くと、そこにはツルくびで闘志をみなぎらせる愛馬の姿があった。脚の踏み込みもしっかりしており、走る気に満ちている。

 今日の競技はこれまでにない長時間の騎乗になる。手綱や鞍、あぶみを含めた馬具に加え、数日前に装蹄師そうていしに打ち直してもらった蹄鉄の具合をしっかりと確かめる。


 準備万端となった両者のもとに、大会役員が近づいてきて「次は君たちのスタートだ」と告げる。

 西はするりと愛馬の背に跨った。それだけでアスコツト号は自らスタート地点へ足を向ける。

 大勢の競技関係者や記者たちに見守られるなか、ついに戦いの火蓋が切って落とされた。


「ナンバー・トゥエンティ……スタートッ!」


 号令と同時、西を乗せたアスコツト号は風のように野を駆けた。

 西は一気にアスコツト号を加速させる。最初から襲歩しゅうほで飛ばす。

 これが西の作戦だった。

 本来この手の遠乗りでは、序盤は馬を抑え体力を温存させるのが定石である。しかし西はあえてスタートから飛ばし、前半でタイムを縮めることを優先した。


(第一区間は草原から走りやすい街道へ出る。ここで時間を稼いでおけば、余裕を持って後半の難所を後略できるはずだ……!)


 あえて常識の逆をゆく。そこに活路を見出す作戦だ。

 調教審査で大きく出遅れている西とアスコツト号が逆転を狙うには、他の選手と同じことをしてもダメなのだ。

 無謀な賭けに出た訳ではない。西には勝算があった。

  

(アスコツト。お前の力があれば、勝機は十分にある)


 青々と茂る草原を疾走する人馬の行く手を遮るように、白い柵が現れた。

 放牧地であるこの草原には、このような囲いがいくつも存在している。だが、競技用の大障害に比べればこの程度の柵越えなど造作もない。

「ハッ!」西の発した鋭い掛け声と共に、アスコツト号はこれを危なげなく飛び越える。

 三つ目の柵を飛び越えた時、アスコツト号がわずかに体勢を崩した。


(……思ったより地面の状態が悪いな)


 昨夜の雨の影響か、芝が傷み滑りやすくなっている場所がある。

 ぬかるみに注意しながら草原を抜けると、その先には街道コースが待っている。

 宿場町をつなぐ馬車道は、速度を出すのに打ってつけだ。足場を気にすることなく加速するアスコツト号は、みるみるタイムを縮めてゆく。

 街道の先にある丘を登ると、前方に楕円形の芝コースが見えてくる。


 第二区間の障害競馬場だ。ここでは竹柵ちくさくや生け垣が設置された全周2キロの障害コースを二周する。

 元競走馬のアスコツト号にとって、競馬場は自分の庭だ。鮮やかな芝生の上に飛び出すなり、さらに走りが勢いを増す。

 西がアスコツト号に勝機を見出した理由が、ここにあった。

 

 馬術用に改良されたハンター種やアングロノルマンに比べ、サラブレッドは気性が荒く飛越能力に劣るため馬術向きではないとされる。

 しかし、野外耐久審査クロスカントリーに求められるのは高く跳ぶための脚力ではなく、長距離を駆ける走力だ。

 十八世紀にイギリスで発祥したとされるサラブレッドは、ただ純粋に速く走るために品種改良されてきた馬たちだ。走力においてこれに優る種類の馬は存在しない。

 さらにアスコツト号は競馬時代に『中山四千メートル競走』を圧勝しており、持久力も海外馬に引けを取らない。

 体力と敏捷性、器用さを兼ねそえたアスコツト号は、このような総合競技でこそ真価を発揮すると確信していた。


 アスコツト号は疲れをみせるどころか、俄然やる気に満ちている。西も競技を楽しむ余裕が生まれていた。

 最初の竹柵障害を一気に飛び越える。

 見事な飛越に周囲から歓声が起こった。競馬場には観戦者に交じって、大会役員が各馬の動向に目を光らせている。

 ここ第二区間では落馬や飛越失敗による減点の他にも、走破タイムによる加点が行なわれるのだ。


(点数の稼ぎどころだぞ、アスコツト。世界に俺たちの走りを見せるやろう)

 

 次々と華麗な飛越を披露し、集まる観客や審査員らに日本の騎手と馬の力を思う存分見せつける。

 西とアスコツト号は当然のように一つも仕損じることなく全ての障害を飛び越え、無事に第二区間を通過した。

 悠々と競馬場を後にし、再び街道へと戻る。


 元来た坂道を下りながら、ここまでの走りに西は確かな手応えを感じていた。

 すでにかなりの時間を稼げたはずだ。第二区間でも高得点を叩き出せている自信があった。このまま順調に行けば、かなりの好成績が期待できる。


(ここで上位に食い込めば、メダルの望みもあるはずだ)


 西はまだメダルの夢を諦めていなかった。

 難関である野外耐久審査で他国の選手を上回れば、昨日の後れを取り戻すのも不可能ではない。

 希望に胸を膨らませて、西は愛馬と共に勢いよく坂を下ってゆく。


 街道を進む途中、後から発走した他の馬と何度かすれ違った。

 そのなかにヴァンゲンハイム中尉と彼の愛馬クアフュルスト号の姿を見つけた西は、手を手綱においたまま目礼を送る。

 ヴァンゲンハイム中尉は微笑を浮かべ、律儀に片手で敬礼を返してきた。

 

健闘を祈るフィール・グリュック


 二人の口から、自然と同じ言葉が零れていた。

 メダルを奪い合う競争相手ではなく、共に過酷な競技へ挑む同志として――今は互いに心からの激励を送り合う。

 邂逅は一瞬だった。

 両者は後ろを振り返らずに、真っ直ぐ前に向かって進んでゆく。

「ハッ!」西は気合を入れ直すようにアスコツト号へ鞭を入れると、北へ進路を取る。

 これから向かう第三区間を通過すれば、その先にはいよいよコース最大の難関・第四区間が待っている。

 勝負はここからが本番だった。


     ***


 その頃、第四区間に設けられた広場は観客たちの悲鳴に包まれていた。

 

 飛越に失敗した馬が、乗り手ともども転落した――。

 

 救護班に助け出される人馬を見て、再び悲鳴が上がる。

 救出された馬の左脚は、無惨にも半ばから折れていた。皮一枚でつながった脚先が、ぶらぶらと痛ましげに揺れている。


 あれではもう助からない。

 馬にとって脚は命だ。助けようにも三本の脚では自身の体重を支えきれず、残った脚がやがて壊死を起こしてしまう。そうなれば想像を絶する苦しみを味わったのち、衰弱死が待っている。


 脚を折った馬に人間がしてやれることは、薬による安らかな死を与えることしかない。せめて早く苦しみから解放してやることが、彼らにできる最期のほどこしなのだ。


 おのれの運命を悟った馬が悲しげに啼いた。

 ある貴婦人は涙に顔を覆い、ある老夫婦は静かに胸の前で十字を切る。

 ある英国紳士はシルクハットを脱いで黙祷を捧げると、悲劇をもたらした障害を見つめて、こう呟いた。


「まるで悪魔の大口だ……」

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