第四章「1936年 伯 林 ‐総合馬術競技・一日目‐」

 総合馬術は、審査が三段階に分かれている。

 まずは一日目に行う『調教審査ドレッサージュ』。

 これは審査員の前で馬術の技を披露し、演技の正確さと美しさが評価される。

 次に二日目の『野外耐久審査クロスカントリー』。

 障害物や水濠が配置された野外コースを走破するもので、人馬の技量と持久力が求められる。

 最後に三日目の『障害飛越審査スタジアムジャンプ』。

 競技場内に用意された障害コースを走り、飛越の上手さを競うと共に、どこまで余力を残しているかが問われる。

 これら三種目の合計点によって勝者が決まるのだ。

 体力・技術力はもとより、人馬の体調管理や精神力も求められる過酷な競技とされた。


 快晴の空の下、ベルリン帝国競技場内に設けられた馬術場には、世界各国から集まった猛者たちが文字通りくつわを並べている。

 その数、実に十九ヶ国五十名。

 これだけ多くの人馬が集う光景は、まさに壮観の一言に尽きた。


 西に与えられたゼッケンは20番。馬場の状態や愛馬の具合をじっくり見極めてから競技に挑める番号だ。

 角馬場で準備運動である輪乗りを入念に行いながら、西はアスコツト号の背から空を仰いだ。


「あれがオリンピアの聖火か」

 

 観客席の向こうにそびえ立つオリンピック競技場オリンピア・シュタディオン――古代ギリシャの神殿を模したとされる荘厳な観客スタンドの一角に奉られた聖火台が、煌々と炎を燃やしている。

 

 オリンピック発祥の地・ギリシャのオリンピアで採火された松明の炎は、近代オリンピック史上初となる聖火リレーによって、ここベルリンへと運ばれた。

〝世紀の祭典〟と称された開会式を欠席した西は、空の彼方より現れたというツェッペリン飛行船も、飛び立つ八万羽の鳩も、総統アドルフ・ヒトラーの大演説も見ていない。

 しかし、そんな事など関係ないというように、聖火の炎は西とアスコツト号を祝福してくれているように感じられた。


 アスコツト号は最高といえる仕上がりだ。

 背中には馬の体調がいい証とされる銭形模様が浮び、栗毛の馬体はさながら聖火の炎から霊感を授かったかのように金色の輝きを放っている。

 それに跨る西も、心身ともに充実していた。

 今朝、選手村で目覚めた時に感じた体の怠さなどは、アスコツト号に騎乗した瞬間吹き飛んでいた。

 人馬ともに万全と胸を晴れる状態にある。あとはこれからの三日間、ただひたすら全力を尽くすのみ。


『――ネクスト、ナンバー・トゥエンティ。キャプテン・バロン・ニシ、ジャパン!』


 ついに西の順番が回ってくる。

 ゆっくりと息を吐いて愛馬と呼吸を合わせると、軽く手綱を引いて合図を送る。


「さあ、こう。アスコツト」


 西を乗せたアスコツト号は、落ち着きあるゆったりとした足取りで、長方形の柵で仕切られた馬術場へと入場した。整地の行き届いた芝生の上に、鮮やかな蹄音が響く。

 西たちが馬場の中央に立った瞬間、周囲から拍手がわき起こった。前大会優勝者の登場に、場内はこれまでになく盛り上がっている。観客の視線を一身に浴びながら、西は馬上で短い敬礼をする。

 西とアスコツト号、一人と一頭の舞台が幕を開けた。


 まずは常歩なみあし。やや歩幅は狭く感じたが歩調はなめらかで、出足は問題ない。背中を通して愛馬の調子を確認しながら、西も背筋をピンと伸ばす。

 調教審査では、乗り馬だけでなく騎手の騎乗姿勢も吟味される。それらを加味して、明日以降の競技に参加できるだけの力量を備えているか確認するのだ。

 ここで人馬ともに能力不足と判断されれば、初日で失格することもあり得る。障害飛越のような落馬の危険は少ないものの、油断は許されない競技であった。


 西は体幹の強さに自信がある。厳格な騎乗姿勢を維持したまま、太腿の力と繊細な重心移動でアスコツト号へ指示を出す。

 速歩はやあし駈歩かけあし襲歩しゅうほ――徐々に速度を上げつつ、馬場に弧を描く。

 再び速度を落として短縮速歩――歩幅を狭くした、弾力ある動きをする歩法。西洋ではパッサージュとも呼ばれる高等馬術――を披露する。

 まるで西洋円舞ワルツのごとき軽やかなアスコツト号の足運びに、観客から感嘆の息が零れた。


 順調に規定演技をこなすアスコツト号に異変を感じたのは、後半に差しかかる頃合いだった。

 右に後肢旋回こうしせんかい――人でいう『回れ右』の動き――をしたおりに、左後肢うしろあしの足捌きがやや遅れたのだ。わずかな重心のズレでそれに気がついた西は、愛馬の変化に焦りを抱いた。


(……どうした、アスコツト)


 先ほどまでピンとしていたアスコツト号の両耳が、今はせわしなく動いている。

 こうして競技やレース中に馬が集中力を失ってしまうことを〝物見ものみ〟という。今のアスコツト号には、その兆候が見られた。


(歓声が気になるのか……?)


 アスコツト号がしきりに耳を動かす方向を見て、西は事態を察する。

 馬は臆病であると同時に、好奇心の強い動物でもある。特に賢い馬ほどそれが顕著で、音や周りの景色、なかには空を流れる雲の動きにまで興味を惹かれてしまうことがある。


 アスコツト号は明らかに観客の声を気にしていた。

 聞き慣れない外国語での歓声が、賢いこの馬の好奇心を刺激しているのだ。競技馬としての経験の浅さが出てしまった。

 集中を欠いたアスコツト号の動きから、徐々に精彩が失われてゆく。

 一心同体となっていた人馬の演技に、狂いが生じ始めていた。


 正確な拍子を刻んでいたはずの歩様に、不協和音が雑ざる。美しい調和を保っていた騎座が、決壊寸前のつつみのように安定を欠く。

 このままでは、いずれ致命的な失敗を招く。

 西は意を決して、アスコツト号が首を上げるのに合わせ、手綱をぐいっと強く引き締めた。

 さらに太腿と足首を使って、馬体を強く挟み込む。全身の力でもって語りかけるように、相手の注意をこちらへ向けさせる。


(分かるか、アスコツト。俺に応えろ……!)


 そわそわと動いていた馬の耳が、ふいにピタリと止まった。

 アスコツト号は「ブルルッ」とひとつ鼻息を立てると、まるで頷き返すように首を大きく振った。ガチリと力強く馬銜ハミを取る気配から、その意思が手綱を通して伝わってくる。


(……そうだ、アスコツト。周りなんか気にするな。俺はお前のことだけを感じる。お前は俺のことだけを感じればいい)


 心を通わせた人馬は、本来の姿を取り戻した。威風堂々とした歩みを見せるアスコツト号に、もう不安はない。

 右後肢旋回――今度は狂いのない足運びで、華麗にターンが決まった。

 続く後退運動も、アスコツト号は一度躊躇する素振りを見せたものの、慎重にこれを乗り越えた。


 演技も大詰めに入り、立て続けに高難度の技が要求される。

 伸びなかな駈歩から短縮速歩、優雅で大胆な伸長常歩、また弾むような短縮速歩――さながらクラシック音楽が最高潮を迎えるように、異なる歩法が交互に繰り返される。

 斜めに足を動かす横足よこあしから、超高等馬術である足踏みへ――ここで少しでも歩様が乱れたり、所定の回数をこなせなければ減点となる。

 さしものアスコツト号も苦し気に唸った。ここが正念場だ。


(負けるな、アスコツト。あとひと踏ん張りだ)


 西の祈りが通じたように、アスコツト号はなんとか堪えきった。馬銜を噛み締め息を荒げながらも、見事に十五回の足踏み運動を完了させる。

 高等馬術の応酬を乗り切ったアスコツト号は、馬場の中央で四肢を揃え、ピタリと屹立する。

 堂々たる愛馬の姿を誇らしく思いながら、西は締めとなる敬礼をした。


 13分間に及ぶ演技を終えた人馬に、周囲から無償の拍手が送られる。

 労うようにアスコツト号の首を撫でつつ、西は馬術場を後にした。


     ***


 装鞍所に戻ると、周りからの称賛が西を待っていた。

 口々に人馬を褒める日本人関係者に笑顔で応じながら、西自身も確かな手応えを感じていた。

 アスコツト号は中盤こそ危ういところを見せたが、それ以外は満足のいく内容だった。これなら無難に調教審査を通過できるだろう。初日としては、まずまずの滑り出しだ。

 明日は最大の山場となる野外耐久審査が待ち受けている。

 だが、この馬とならどんな障害も怖れることはない。


「明日も頼むぞ、アスコツト」


 西が鞍を外した背を叩くと、アスコツト号は自慢げに「ブルンッ」と鼻を鳴らして応えた。


     ***


 しかし、数時間に掲示された総合馬術・一日目の順位を見て、西はおのれの考えが甘かったことを思い知る。


 西の順位は34位。

 少なくとも20位前後にはつけていると思っていたから、この結果にはしばらく呆然とした。

 それだけではない。ギャロッピングゴースト号の稲波いななみ中尉は35位。紫星しせい号の松井大尉はさらに下の45位――日本選手は揃って振るわぬ結果に終っている。


 上位につけているのは、ドイツ・スウェーデン・ルーマニア・オランダ・イタリア――競技前から強豪と囁かれていた欧州各国の選手たちだ。

 特に初日から首位に踊り出た地元ドイツのシュトゥッベンドルフ大尉は、抜きん出た高得点を上げている。この時点で西ら日本選手とは50点以上もの大差がついていた。

 

「これが馬術の本場・ヨーロッパの実力なのか……」


 先ほどまでの高揚が急速に冷えていくのを感じながら、西はふらふらと順位表に群がる人の輪から抜け出した。

 斜陽に照らされる競技場の上で、万国旗が冷たい風にあおられている。

 ベルリンの空には、いつの間にか厚い雨雲が立ち込めていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る