2話 それぞれの日常で

 あれから俺と美波は言葉を交わすことはなかった。

 と言っても中身はなのだが……。


 まあ、確かに。入れ替わり早々、自分のキスシーンを目撃したら誰だって怒る。致し方ないし、一生軽蔑されても構わない。だけど、今はそんなことしてる場合じゃねえんじゃねぇの?


 俺は色々とごちゃごちゃ考えながら、夕暮れ黄昏れた空を見上げながら、学校から帰宅した。

 余談だが、俺と千綾は同じクラスである。そして、今日千綾は学校に来なかった。千綾本人は、今日自分の体が学校に行かなかったことを知ってるのだろうか。


 家に着くと、玄関には見覚えのないサンダルがあった。


「だから、美波ちゃんは今、私なの。分かる? ちゃんと私を演じてよ」


 リビングから妹である美波の声。


「分かってるよ。そんなの」


 返事をしたのは千綾の声。

 アイツら不用心過ぎるだろ。リビングでそんな話しして親とかに聞かれたらどうするんだ。

 俺は靴を脱いで、家に上がる。


「だったら、ちゃんと学校に行って」


 アイツ、どこでその情報知ったんだ。


「ちゃんと、知名君も無視して」


 ピタッと、俺は足を止めた。


「……分かってるよ。……もう、話は終わり?」


 千綾の苦渋をなめるような声。


「ええ」


 千綾がリビングから出てくる。視線は下を見て、涙を堪えるように歩いてくる。すると、廊下に突っ立ってた俺に気が付き、千綾は顔上げ、目が合う。


「……あっ……ぅ…………あ……」


 泳いだ目。戸惑う表情。見た目は千綾なのに、仕草は千綾じゃない。


 千綾は俺に顔も向けずに、逃げるように玄関に向かい、あのサンダルを履いて出ていった。


「……はぁ……」


 ため息が漏れた。

 何だろう、この胸のざわつき。

 見た目が千綾だから? 妹が傷ついているから?


 振り返ると、リビングの扉のところに制服姿の美波が立っていた。

 酷く冷たい目を向けられる。その表情は千綾そのものだ。


 美波は何も言わず、リビングを出て、階段を登っていった。


 すっかり嫌われてしまった。いや、嫌われてたのは昔からか。

 でも、今はそんな場合じゃないだろ。


「おい!」


 階段を登っていく美波を呼び止める。

 美波は足を止める。だが、振り返りはしない。

 そして、美波は俺に冷たく言い放つ。


「知名君と話すことなんてないわ。ホント、死ねばいいのに」


 ☆☆☆


 俺は──死んだ。


 死んだ魚のように、ぷかぷかと水槽に浮かぶように、俺は自分のベッドの上に倒れていた。

 目の前にある天井を見上げて、俺は涙を流す。


 美波じゃないとは分かってはいるけど……、あんなに懐いていた妹にマジ顔で「死ねばいいのに」と言われた……。


 心臓を抉り取られるように、心が痛い。


 でも、千綾を憎めない自分がいる。

 アイツは俺のことが嫌いで、その体を使って嫌いな奴とキスしたんだ。


 ……殺意抱かれて当然だよな。


 だからって、ここで引き下がるわけにはいかない。……て、あれ? 俺は一人で何をしようとしてるんだ?


 人格の入れ替わりはアイツらが判断して認めたことだ。俺は一人で、何に抗っているのだろうか。


 別に、このままでいいんじゃないだろうか。


 そう思った時だ。


「いぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああっ!!」


 美波の、とんでもなくデカイ悲鳴が隣の部屋から聞こえてきた。


 俺は慌てて飛び起きる。


 俺は胸に淡い期待を抱いていた。今の悲鳴はどう考えても美波そのものだ。いや、美波の中に千綾が入っていたとしても美波なんだから当然……ちょっと自分でも何言ってのか分からなくなる。

 いや、つまり、今の悲鳴は美波そのものであって、この昨日の夜から発生した入れ替わりが解決したのかと、そう思った。


 俺は走って美波の部屋に向い、勢いよく扉を開ける。


「美波か!?」


「し、死ねッ!」


 扉を開けた瞬間、俺は凄い勢いで頬に何かが激突し、宙を舞った。……首が、捥げるかと思った。


 うん。まあ、結論から言う。


 美波の部屋に入ると、白のブラジャーと白のショーツを纏った、美波が立っていた。が、中身は千綾だった。美波は俺に容赦なく正拳をくらわす。


 俺は真っ赤に腫れた頬を抑えて、不機嫌に顔を上げる。


「は?」


「あっ、いや、ごめん」


 下着姿の美波はすぐに俺の元へ駆け寄る。


「……は?」


 あんなに懐いていた妹に、死ねと言われ、殴られた。


 下着姿の美波は、白い腕で胸と下半身を隠しながら、恥ずかしさ半面、申し訳なさ半面で、顔を真っ赤に染めながらこちらを見ている。

 俺は頭を切り替えて、美波と会話をする。


「……いや、あの……どうかしたか?」


 俺はゆらゆらとグロッキー状態のボクサーのように起き上がる。


「ち、知名君には関係ないでしょ!」


「いや関係はあるだろ!」


「何よ?」


「お前は千綾だとしても、今は美波なんだよ。美波は俺の大事な妹だ。これだけは例えお前らが入れ替わってても、お前が俺のこと嫌いだろうとしても……譲れないからな!」


 千綾は俺に圧倒されたのか、唇を噛み締め、後ずさりする。


「話せよ。どうした?」


 千綾は肩を下ろす。


「いや……あの……」


 大変申し訳さそうに、千綾は自分の透き通るような白い、腹の肉を摘んだ。



「太った……」



 ────は?


 千綾はワンワンと泣き崩れる。


「……あ、いや、あの、ま、まあ、それは美波だからしょうがないだろ」


「私がどれだけ苦労してあの体型を手に入れたと思ってるのぉ!? 何この贅肉!? 胸は大きくなったかもしれないけど、これじゃプラマイゼロ……いやもうむしろマイナスだよ!」


 胸は大きくなった……だと……?


 確かに、美波の胸なんて想像すらしたことなかったけど、コレはスゴイな。白くてモチモチして柔らかそうなそれはEかFはある……いや、そんな目利きでカップ測れるほど知らねえけど、おっぱい。


「ちょっと何見てんの!?」


 俺が胸を凝視していたことが美波にバレた。俺は慌てて視線を逸らす。


「べ、別に、どこも見てないからな!?」


「不潔! 死ね! 妹の体で欲情野郎! 知名君なんてサイテーだ!」


 妹に苗字呼ばわりされる違和感はあったけど、久々に美波と話せた気がした。


 ☆☆☆


 夕食。一人浮かない表情の美波。


「どうした美波? お前の大好きな唐揚げだぞ?」


 親父がそんな最愛の愛娘を心配して声をかけてきた。


 食卓には山のように積まれた唐揚げの山。普段なら美波はドバドバとこれでもかと言うくらいにマヨネーズをかけてこの山を平らげる。

 まあ、そいつは美波であって美波ではない。ましてやあの細いモデル体型の千綾だ。こんな量は食べられるわけがない。


 千綾は苦笑いを浮かべる。


「はい。い、いただきます……」


「おいおい。他人行儀だな? 熱でもあるのか?」


 親父は美波のおでこに手を当てる。


「ひっ……!」


 美波は驚いて頭を離す。


「…………え……」


 愛娘に拒絶された親父は魂が抜け、灰になった。


「美波だって年頃よ? いつまでもお父さんが馴れ馴れしく接しちゃダメよ?」


 母親が美波の肩を持つ。


「あ、え、いや、違う! 違うよ! ちょ、ちょっとびっくりしただけ」


 父親が無理矢理笑顔を浮かべる。


「そ、そっかそっか。突然すまんな、美波。と、ところで唐揚げ……ほら、たくさん食べなさい。お父さんの分もあげるから」


 と、親父は美波の皿の上に唐揚げをのっける。


「……わ、わあーい……」


 スゴイ、なんて感情の篭ってない「わーい」なんだろうか。


 すると、美波が鬼のような形相で俺を睨んでいた。


 ……恐すぎだろ。


 夕食が終わり、俺は部屋に戻る。


「はぁ、食った食った……」


 そう呟いた時、階段を登る足音が聞こえてきた。その足音は迷うことなく俺の部屋へとやっくる。


「ちょっと!」


「……は?」


 美波だった。

 腕を組んで不機嫌な顔。


「なんで助けてくれなかったの?」


 俺は首を傾げる。


「だって。これから家族になる人間といつまでも他人行儀じゃよくないだろ」


「いや! 距離の詰め方にも色々あるでしょ!? よりにもよって唐揚げをあんなに食べさすなんて! 知名君のおじさんとおばさんどうかしてるわよ!?」


「ま、まあ、たった一人の娘なんだから、可愛がってんだよ」


「いやいや! だって! そのせいで美波ちゃんはデ…………」


 言いかけて、美波は言葉を止める。


「……うん。決めた。私、ダイエットする!」


 すげぇ。あの食欲大魔神の美波がダイエット宣言した。中身は千綾なんだけど。


「お、おう。まあ、無理はすんなよ」


「ええ。でも、おじさんとおばさんが厄介ね。知名君も協力してくれない?」


「それは構わないが、人の親を厄介者か?」


「ダイエットするのにはって意味よ」


「よく言うな。お前だって唐揚げバクバク食ってたじゃんか」


「だって、この体だといくら食べてもお腹いっぱいにならないんだもん」


 へぇ。体が入れ替わると、そんな変化があるんだ。


「そりゃ、人の体だし、多少は抑えようと思ったわよ。でも、人の体だからこそ、歯止めが効かなくなった」


「まあ、人の体だしな」


「誰かさん達と比べれば、可愛いもんでしょ」


 棘のある言葉だこと。甘んじて受け入れますけども。


「何よ? その顔は? キスしてたんだから当然でしょ?」


 別にそこに関しては何も思ってない。だって悪いの俺らだもん。兄妹の問題に巻き込んで申し訳ないと思ってるよ。でもさ。


「んじゃ、言わせてもらうけど、女子の間じゃ美波はデブかもしんないけど、男子からしたら美波なんて全然デブじゃねえから。それに、俺も少しぽっちゃりしてた方が好きなんだよ」


「はぁ!?」


 なんか、エライもんでも見たような驚き方だ。


「だって知名君、前に言ってたじゃない!? スレンダーな方が好きって!」


「は? 言ったっけ?」


 確かに、女の子はスレンダーな方が好きだけど。俺がぽっちゃりの方がいいってのは美波のことだったんだけど。……なんか誤解されてるな。


 千綾は床に手をついた。


「…………わ、私は何のために……」


「何でそれを千綾お前が知ってんだよ?」


「昔言ってたじゃない!?」


 って言われてもな。千綾との思い出なんて、昨今の疎遠状態しか記憶にないし。


「てゆうか、美波がデブってねえとアレだ。俺のストレスが軽減できん」


「……ストレス?」


「そう、ストレス」


「なんで美波ちゃんがデ……太ってるのと知名君のストレスが関係あるの?」


「いや、こう、ほら、抱きしめるから」


 俺はエアハグをする。美波は目を丸くし、徐々に顔が赤くなってくる。


 なんか、いやらしい想像されると、こっちの方が恥ずかしくなってくる。あんなことしておいて信用ならんかもしれないけど、こちとら健全な兄妹ですから。


「し、知ってっか? 人を抱きしめると日々のストレスの三分の一が軽減されるんだぜ?」


「へ、へぇ。だっ、でっ、でも、私が美波ちゃんのうちはダメだからね!?」


「う、うるさいな。分かってるわ」


 なんか、相手は妹の美波のはずなのに、中身が千綾だとこうも恥ずかしくなるなんて。


「でも、さ。それって、私のせい……だったり、する?」


 恐る恐る、美波は聞いてきた。


「まあ、それもあるかな」


「はぁ!? ひどい!」


 なんか、久々に千綾に向かって冗談を言えた気がした。


「はは。お前、風呂入ってこいよ。ウチでは風呂入るのに順番があって、美波が一番風呂って決まってっから」


「あら、そうなの。なら、遠慮なく」


 美波は俺の部屋を出ていく。その背中を俺は呼び止めた。


「ちょっと待った」


「ん?」


 美波はきちんと振り返る。俺の目を見てくれた。


「美波には太っててほしいと思ってるけど、女の子はスレンダーの方が好きなのは変わってねぇからな」


 その言葉を聞いて、美波は少し頬を赤らめた。


「…………そ、そう」


 そう呟いて、部屋を出ていった。


 ☆☆☆


 翌朝。

 不穏な空気が立ち込めていた知名家に、いつも通りの平穏が戻ってくる。


 リビングにて。


「おはよ」


 俺は妹に挨拶をする。


「おはよう。知名く……」


 ピタッと妹の美波は硬直した。それは周りの人間もそうだ。親父も母親も、俺も、一斉に美波の顔を見た。


「なんだ? お父さんだけじゃなく、悠真にまで他人行儀か?」


 みるみるうちに真っ赤になる美波。


「ま、まあ、間違ってはないな!」


 親父は赤くなって固まる美波の予想外の反応に慌てて、フォローを入れた。


「今度からお父さんも知名君って呼んでくれてもいいんだぞ?」


 親父が慌ててフォローしたので、母親も続けてフォローを入れる。


「アレよね? 学校の先生をお母さんって呼んじゃうアレよね?」


「…………」


親父オヤジ達やめてあげて。美波が今にも恥ずか死にしそうだ」


 なんやかんやあったが、学校へ行く支度を済ませ、家を出る。

 家を出た瞬間、隣の家からとある人物が出てきた。制服姿の千綾だ。

 女優さんのように容姿端麗で、モデルのようにスタイルが良い。何度見ても見惚れてしまうほどに、可愛い。

 白のワイシャツに紺のチェックのスカート。俺達の通う高校の夏の制服だ。まあ、いたってシンプルなのだが、やはり千綾がそれを着るととても映えてつい目で追ってしまう。

 玄関の前でボサって突っ立って見てると、千綾は俺に少し視線を向けただけで、無視してスタスタと歩いていった。

 見た目は千綾だとしても、中身は美波なんだよな。そう考えると、悲しい。

 それに、俺を無視してるのはアイツの意思じゃない。

 そりゃ、俺とアイツは千綾本人に怒られるようなことをした。


 けど、俺は実感したんだ。


 千綾と仲良くなれたのも、多分見た目が美波だからだ。


 何度も言う。


 俺は実感したんだ。


 美波は、心も体も、どっちも俺の大事な、たった一人の妹だ。


 そう俺は心に固く誓った。


 背中の、玄関の扉が開く。家の中から美波が出てきた。

 さっき俺を無視した千綾と同じ制服。白いワイシャツに、紺のチェックのスカート。ただ違うのは胸のリボンが学年カラーの緑であるところだ。だが、なんだろう、昨日裸を見たせいか、美波のムチムチ感が気になった。


「よ、よし、行くか」


「うん」


 俺と美波は二人で登校した。


 中身は美波ではないが、美波と登校するのは久しぶりのことだった。中学生以来だろうか。


「美波として学校に行くのは慣れたか?」


 歩きながら、俺は会話を振った。


 外見は千綾ではないが、千綾とこうやって二人きりで世間話をするのは久しぶりのことだった。これは小学生以来のことだろう。


「まだ登校するのは二日目よ。あと、全然慣れる気はしないわ」


「そっか。そりゃ人の体だもんな」


「まあ、最低限の努力はするつもりよ。昨日のうちに美波ちゃんの交流関係を洗いざらい調べておいたもの」


「へぇ」


「美波ちゃんの交流関係の特徴として、広く浅く。取り分け仲が良いのは三組の石動さん。彼氏はもちろん居なかったわ。そりゃ、当然かぁ、美波ちゃんが好きなのは血の繋がった実の兄なんだから」


「…………いや、まあ、なんか、ごめん」


 俺は再び、千綾の体を持つ美波とキスをしたことを謝罪した。


「謝っただけで許されるとでも?」


 許してほしくて謝ってるわけじゃないからいいけど、でも、何か腑に落ちない。


 俺は足を止めた。


千綾お前は、俺のことが嫌いってことでいいんだよな?」


 美波は足を止める。


「は? 私?」


「ああ。本物の千綾お前の方」


「ええ。その認識で間違いないわよ。だからよろしくね? 学校ではちゃんと、千綾のことは無視してね?」


 なかなかに捻くれてやがる。

 少し仕返ししてやろうと思った。


「じゃあ、美波はどうなんだ?」


「は?」


「美波はちゃんと千綾として俺を嫌ってる。じゃあお前はどうなんだよ?」


「は?」


「いや、だから、お前はちゃんと美波を演じてんのか? アイツは超がつくほどのブラコンだからなぁ」


「何が言いたいわけ?」


 物分かりの悪い奴め。


「これからは俺のことは『お兄ちゃん』って呼ぶように」


「っはぁ!?」


 美波は飛び跳ねるように驚いて、俺から距離を取り身構える。


「な、な、なん、なんで……ち、知名君をお、おに……ぃ……ちゃ…………んって、よ、呼ばなきゃならないのよ!?」


 しどろもどろに言う。動揺しすぎだろ。


「そりゃ、兄妹だからだろ」


「それは……そう……だけど……。私は遠藤千綾なのよ?」


「美波だって今は千綾だけど、ちゃんと千綾を演じて俺を無視してる。なのにお前は美波を演じないってのはちょっと筋が通ってないんじゃないのか?」


「ばばば、バカじゃないの!?」


「バカなもんか」


「知名君以外にはちゃんと知名美波として接してるわよ! そもそも知名君は私達の事情を知ってるじゃない!? だから……」


「さっきみたいなミスされると、こっちが困るんだよね」


 まあ、一切助けようとしなかったやつの言う台詞じゃないけど。


「まあ、仕方ないか。ならお前が俺のことを『お兄ちゃん』と呼べないのなら美波にも……」


!!」


 美波はそう叫んで、ズカズカと俺を追い越して走っていった。


 コイツ、相当捻くれてやがる。そうまでして俺と美波の接触を避けるか。

 まあ、相当俺のことを嫌ってんだろうな。


 ☆☆☆


 教室に着く。

 それなりに賑わう教室内。その中にポツリと一人座る美少女の姿。

 中身が別人だから? 違う。最初からだ。


 ──遠藤千綾はぼっちである。


 昔は違った。でも、いつからかアイツは変わってしまった。いつからか他人を寄せ付けなくなった。

 中学時代には一時期、学校にも来なくなっていた。家が隣だからと、よくプリントを届けに行ってたっけ。


 言っても、俺も友達が多いわけじゃないし、人の人間関係にどうこう言う筋合いはない。まあ、それが千綾のままなら。


「よっ」


 俺はその美少女に声をかけた。


「あっ、えっ……」


 千綾は戸惑って、周囲を見回す。それを横目に俺は千綾の前の席に座った。


「調子どう?」


 千綾は俺の質問を無視して、小声で呟くように言った。


「……お兄ちゃん、ごめん話せない」


「知ってる。千綾に言われたんだろ?」


 千綾はハッと顔を上げる。


「あと、そんな怖い顔すんなよ。美波のチャームポイントは笑顔だろ? なんで外見が変わっただけで笑顔まで無くなっちまうんだよ」


 その瞬間、千綾の顔がくしゃくしゃに歪んだ。千綾は腕で目を擦る。


「……ごめん、お兄ちゃん……」


 千綾は席を立って教室を出ていった。


「手間のかかる妹だ」


 俺は千綾の後を追った。


 千綾は教室を出たすぐの廊下で、泣いていた。

 その姿はもう千綾ではない。


「まったく。外見は変わったのに、美波のまんまじゃねえか」


 俺は千綾に近づき、そんな千綾の頭を優しく撫でる。


「…………にぃの……バカぁ……」


 千綾は泣きながら、俺の胸に体を預けてきた。


「泣きながら言うな。バカ」


「だって……、だって」


「どうしたんだよ。美波らしくねぇ。外見ってそんなに大事か?」


 千綾は苦しそうな顔をした。


「……


 その目は悲しそうで、辛そうで。俺は思わず千綾の涙を拭ってしまう。


 千綾の顔は赤く、目には涙を溜めていた。こんな千綾の顔は見たことがなかった。


「近寄ってくる奴は全員睨みつけろって言われた……」


 そこまでするかよ!?


「あはは。アイツいつもそんなことしてたのかよ」


 すると、千綾は思い出しかのように、サッと俺から離れる。


「ダメだよ……、こんなところ千綾ちゃんに見られたら……またなんて言われるか……」


「少なくともこの教室には千綾はいないんだから、俺を無視することはないんじゃない? 俺は美波がいないと寂しいんだよ」


「バカにぃ……」


 数分、人目もはばからずに、俺は千綾の頭を撫でた。言ったように、俺も友達が多いわけじゃない。だから、俺と千綾を見る目はあれど、話しかけたり、冷やかしたりする人間はいなかった。


 もうすぐ、授業の始まる時間だ。


「落ち着いたか? 美波」


 千綾は無言のまま、コクッコクッと頷いた。


 俺は千綾から手を離す。


「戻ろっか」


 俺は千綾の手を引いた。が、逆に千綾に掴み返された。


「え、ん? どうした?」


 俺は千綾に優しく、問いかける。


「最後に……ギュってして……」


 千綾は恥ずかしそうに、上目遣いで、そう言ってきた。


 俺も、なんか、照れる。


「ど、どうして?」


「……ストレス軽減」


「お、おう」


「ありがと……」


 俺は優しく、力強く、千綾を抱きしめた。


 千綾は、普段美波が浮かべるような、自然な笑顔で、俺の腕に包まれる。


 しかし、その笑顔も一瞬だった。


 彼女は唇を噛み締め、心の奥底に留めておいた気持ちを溢した。


「……妹に、戻りたいよぉ……」




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