声の届かないところまで
前嶋エナ
第1話
ーーー三十年生きてきても、やはり、まだ知らない土地があるものだな。ーーーーー
東京から山口県に向かう高速バスが、途中のパーキングエリアでとまった。
広恵はバスを降りてぐっと、身体を伸ばす。五月の風は肌寒いが心地が良い。
今、どのあたりなのだろうか…。
自販機でジュースを買って近くのベンチに座る。
スマートフォンを開くとメールが何件もきていた。殆どが電化製品のお店や昔一度使った美容院だったりするので、ひとつひとつ選択して消していく。
一件のメールだけは除いて、消していく。
返信をしていないその開封済みメールは三ヶ月前にきたもので、送り主は浅野大輔。
内容はたった二文。
お誕生日おめでとう。
送らないでって言ったのに、ごめん。
そのメールは二月十日に届いていた。広恵の誕生日である。
広恵は大きく息を吸い込んでバスへ戻った。大きなバス、知らない町へ運んでくれる。アナウンスで消灯が知らされて暗くなる。それでも広恵はカーテンの隙間から外を眺めていた。
広恵は二十一才で家を飛び出して一人暮らしをはじめた。飛び出して、といっても、家出というような形ではないが。両親とは昔から折り合いが悪く、一緒に過ごす空間はなんとも表しようのない孤独感にいつも追われていた。
なんの計画もなく、家をでたものの、アパートの借り方などまったくわからなかった広恵は、自身の専門の講師である浅野に連絡をした。
「先生、実は三日間くらい漫画喫茶で生活してるんです。」
「家出?」
「違うんです、私、友達と同棲するって嘘ついて、出てきたんだけど、本当はそんなの嘘なの。」
「あらま。」
「ごめんなさい、どうして先生に電話したんだろう。」
「迎えにいくよ。」
「え…家に返すの?」
「帰りたいの?」
「帰りたくない。」
「じゃ、迎えにいくよ、どこにいる?」
浅野は専門の数学教師だった。数学が苦手な広恵はそれを口実によく浅野を訪ねた。広恵は浅野にべったりだったが二人の年齢差は九つもあり、周りも仲の良い教師と生徒という見解で、微笑ましく見守っていた。
だが実際、広恵はその電話がきっかけで二十一才から四年間、浅野と暮らすことになるのである。
広恵が浅野の家で暮らすことに浅野は三つ条件をだした。
「一、家では俺に敬語をつかったり俺を先生と呼ばないこと。二、友達、家族、とにかく周りに言わないこと。
三、俺とセックスすること。」
「私は先生…、えっと」「なんでもいいよ」
「じゃ、浅野さん」「浅野さんって…」
「なんでもいいんでしょ?」「まぁ、いいよ」
「私は浅野さんのこと、男として好きなんだけど、それでもいいの?」
浅野の答えは、別にいいんじゃないかな、それだけだった。
広恵も満更ではなかった。浅野の授業があった日は必ずオナニーをしていたし、四六時中浅野のことを考えていた。恋をしていた。
人は恋をすると、どんな形でもいいから、相手の心中に存在したいと願うものである。
女というものにとって肉体関係とは、その目に見えない心を表したものなのかもしれない。
男にとって、心そこにあらずとも。
「切ないよね。」広恵は煙草に火をつけた。
「ん?何が?あ、灰皿ごめん、そっちに」
「うん、ありがとう、ごめんねいつも、浅野さん吸わないのに」
「別にいいよ。」
「今日気持ちよかった。」
「いつもより?」
「うん、何でかな、多分学校で浅野さんが三木先生と仲良く話してたからかも。」
「嫉妬」「そ。」「あらま。」
浅野は呑気にこたえた。
「なんもないけどね。」
「ううん、彼女、浅野さんのこと好き。」
「やりたいだけじゃない?」
広恵が長く息をはくと煙が換気扇に吸い込まれていった。
「やりたいだけの女っていないの、知ってる?」
「でも三木先生は彼氏いるよ、英語学科の」
「知ってるよ、有名だもん。」
「じゃ、やりたいだけだ。」
「違うよ、気が多いの、彼女。」
ふーん、と納得のいかない返事をもらすと浅野はベッドに寝転んでスマートフォンをいじる。
「浅野さん。」「なに?」
「切ないよね。」
高速バスで寝てしまったようだった。首がいたい。
気がつけば朝方で、山口県の町が見えた。
駅でタクシーをつかまえる。
「俵山温泉街までお願いできますか?」
「大丈夫だけど、タクシーじゃ高くつきますよ、私が言うのも変なんですが。」
「いいんです、すみませんがお願いします。」
タクシーに乗り込むとバックミラー越しに運転手がこちらをみた。
「シートベルトお願いしますね。」
「はい。」
「いや、安全運転でいきますよ、あなたお子さんがいるようですし。いいですね、あそこの温泉はきっとゆっくりできますよ。」
「ありがとうございます…。」
広恵はもうみてわかるほどのお腹をさすった。
タクシーから見える景色は当たり前だが、すべてはじめて見るもので、久しぶりにわくわくした。
「昨日も泊まりだったんだね。」「そ。」
最近、浅野は朝方帰宅するか、仕事にいきそのまま二、三日帰ってこないことが多くなっていた。学校ではいつも通り出勤しており、先生と生徒としての会話もあった。
もちろん広恵は帰らない事情を知っていたし、浅野も露骨に隠しているわけではなかった。
ただ、聞かないから知らない、聞かれないから話さない。それだけのことだったし、そこにかすかにお互いへの小さな愛があった。
誰かを思いやるのは愛だし、誰かを思い出すのも愛、誰かを束縛するのも愛で、誰かを否定するのすら愛である。
愛に色々な形があるのではなくて、色々な状況に対して、これは愛だ。と、思えたらもうそれは愛なのである。
愛とは故にどこまでも柔軟で自由だ。
浅野と広恵の間には愛があった。
三木と英語学科の先生の間にも愛があった。
そして三木と浅野の間にも愛があった。
ただ、それぞれの形が違っただけで、そこには確かに愛があった。
浅野の部屋のベッドはあまり大きくはなく、二人で寝るにはなかなか厳しかった。だからベッドの下に布団をひいて、布団に二人で寝ていた。
「浅野さん、しよ。」
布団をひいて、横になりながら広恵が浅野に手を伸ばす。
「いいね、どうしたの。」
広恵に吸い込まれるように浅野は布団に倒れこんだ。
広恵の寝間着は浅野の古くなったTシャツだ。ワンピースのようになったその服から、身長の差が伺える。浅野が広恵のTシャツをたくしあげる。
「浅野さん、」「ん?」
「スマホ鳴ってる。」「あ、ほんとだ。」
盛り上がっていた気持ちがすっと冷める。
浅野はごめん、と謝るとその場であぐらをかいて電話にでる。
「どうしたの?…うん、……あー、そうだったんだ。…まぁね、相手も理由があるとなんとも言えないね、ていうか、誕生日だったの?俺そっちにびっくりだよ。とりあえずおめでとう。…うん、うん、え?あーーーー…」
何かを求めるようにチラリと広恵を見る。
ただ黙って広恵は頷いた。
「いいよ、わかった、今から行くよ。」
広恵は謝る浅野を笑顔で見送った。
そして、一人きりになった部屋で思い切り泣いた。このとてつもなく大きな悲しみを、どうか一人で消化できるように、一晩中泣いた。
広恵は、悲しみより大きな愛を自分自身が持っていれば、どんなことも乗り越えられることを、よく知っていた。
温泉街につくと、運転手にお礼をいって外にでた。目的地をスマートフォンで調べて歩き出す。
妊娠五ヶ月になろうとしているお腹はなかなかに張る。もう少しだからね、と、一人言をこぼしながら歩くこと十分ほどでそこについた。
ボロの家はインターホンがなく、扉には鍵がなかった。
戸惑いながらも扉をあけて、奥に声をかける。
「すみません。」
「はぁーい!」
返事とともにドタドタと足音が聞こえ、小柄なおばさんが顔をだした。
「あ、私この間ここを買い取った、」
「あ!広恵ちゃん!待ってたの!何せボロだから少しでも掃除してやろうと思って、あんた、あら、妊婦さんなの?」
忙しくしゃべるおばさんは感じが良い。広恵のお腹を撫でると、中を案内した。
「ま、こんな感じの家よ、広くて私たちには手に終えないの!ボロだけどあんたみたいにこんなとこ住みたいっていってくれる人がいるなんてね!良かったねーって父ちゃんと言ってたのよ!」
「そうなんですね、ありがとうございます。」
「でもまぁ、あんた…一人で大丈夫なのかい?そんな身体で…仕事もせにゃいかんだろうに。」
広恵のお腹をみて、心配そうに眉をさげる。
「大丈夫です、当分は仕事をしなくても関東のほうに土地があって、そこを駐車場にしたんです。なので月に少しですけどお金が入るので…なんとかなります。」
すみません、ありがとうございますと広恵は深々と頭をさげた。
気を付けなよ、とか、水分をとりなよ、とか色々言いながらおばさんは出ていった。ぽつんと一人になる。いや、二人か…お腹が重い。
「さて。」
スマートフォンの画面からメールを選び、浅野からのメールを開く。
すべての肩の力が抜けて涙がぽろぽろと落ちた。
悲しい、寂しい、会いたい、触れたい、けどそれのすべてをあなたに伝えたら優しいあなたはどうするだろう。
きっと私に謝って、謝って謝って、傷つけてしまう。
涙は止まらない。
四年間一緒に暮らした家をでたのは、広恵が仕事をはじめて収入が落ち着いたからだった。
もう会わないだろうと思うと寂しくて、まだ若かった広恵はつい、浅野の前で号泣した。
その涙が二人を切れない関係にした。浅野は三木と暮らしはじめたが、月に一度広恵と会った。
他愛のない話をして、セックスをした。何かを壊すようなセックスをした。
二人の間にはいつの間にかルールが出来ていた。あの電話の件以来、お互いの誕生日に声を掛け合うことをやめたのだ。
それが何故かはわからない。ただ、お互いなにも言わずとも、そのほうが良いと判断した。
「広恵。」「ん。」
「……いや…。」「…どうしたの。」
「…。」「…何を言われても受け入れるよ。」
「恵美がさ…」「三木先生?」「うん。」
「妊娠してた。」
広恵はそのあとに、自身も妊娠していることに気がついた。
孤独と悲しみを、あの優しい人に悟られないように、広恵は逃げた。
雪崩のように襲ってくる悲しみをふりきるかのように山口県の外れまで来たのだ。
浅野からのたった一件のメールを眺めていたが、一度目を閉じて、広恵はそのメールを削除した。
彼を継いだこの命と共に生きていくのだ。
愛を名一杯注ごう。
もう悲しくはなかった。
広恵の愛は悲しみを飲み込んだようだった。
声の届かないところまで 前嶋エナ @ooashi0720
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます