1945

田中ビリー

1945

 連絡が来ないことが安心だった。


 私の村に配達がくるのは日に一度、夕を告げる鐘が鳴らされるころだ。黄昏れ始めて真っ赤に落ちてゆく太陽を背に受けてその人はくる。


「手紙、届いてないから。安心して」

 いつもその一言に私は安堵する。聞こえないように小さなため息を漏らし、とくんとくんと波打つ胸に手をあてる。

「良かった。あの人は今日も生きてる」

 息子を呼び寄せて汗に濡れた髪を撫でて、大丈夫だったよって私は話す。

「また、明日だね」

「そうね。また、明日だね」

 私たちは毎日、そんなふうに過ごしている。


 日が暮れるまで、届けのなさを願い、祈り、日々を過ごす。

 あの平和で笑顔の毎日が戻ってきますように、と。



 太陽がいちばん高いところで私たちを溶かそうと狙っているころのこと。

 じりじりと首筋を焼かれながら私はトマトを採っていた。

 私以外にも数人が灼熱と格闘中で、その様子を蝉時雨が包み込む。真夏の熱から逃げる場所はなく、私たちはひたすらに耐える、そして萎むことなく生き延び真っ赤に熟れたトマトを探す。

 手にした赤いひとつを空にかざした。


 それはそれは暑い日だった。空気まで発熱してしまっているくらい、暑い日だった。

 見上げる青は遥か遠く、あの人がいるはずの敵国の島にも繋がっている。



「大丈夫。きっと帰ってくる」

 泣く私にあの人はそう言って笑顔を見せた。

 お国のために働いてくる、だけど僕は帰ってくる。

 お国なんてどうだっていい。ここにいて。 

 そう言いたかった。でも、私はただ俯いて泣いているしかなかった。



 赤とんぼを見かけ、ひぐらしが鳴き、少し落日が早くなってきてはいたけれど、それでもまだまだ暑い。

 昨日と同じように畑で汗をかき、農場主のヤケクソな怒声を背中に浴びていた。


 まだ青いトマトをもいで、ろくに咀嚼せずに飲み込む。空腹だった。

 周囲を見渡して、誰も見ていないことを確認する。

「おいで」

 私は息子の手を引き、隠しておいた真っ赤なトマトをかじらせた。

 じゅぷ、じゅぷと水の弾ける音がした。そのはるか上を黒い爆撃機が飛んで行った。

 だけど誰も逃げろとは言わなかった。毎日聞き飽きるほど聞いている。逃げることのできない人だっている。

 サイレンが鳴ったけれど私たちはそこから離れなかった。


 かかって来い。私は思う。

 あの人がいない場所なんだから、いくらだって焼き払ってくれていい。

 でも。私たちは生き残ってやる。隣の小さな手を握る。

 きっと大丈夫。お国のためじゃない。私たちは私たちのために、生きているんだ。いままでも、これからも。

 私はあの人のことを思う。そばにいる子の手を握る。

 大丈夫だよね。落ちてゆく太陽に照らされる小さな私たちはきっと真っ赤になっている。

 大丈夫だよ。真っ直ぐに私を見上げる黒目には不安げな私の焼けた顔が映っていた。

 彼の「大丈夫」はきっと、あの人の優しい口癖を受け継いだんだろう。



 夕立のあと。

 つややかに光沢し、瑞々しく光を跳ね返すひとつを見つけて。滑らかなその表面を撫でる。焼けて荒れた手がそれをもぎる。

 農道の先に郵便屋さんの姿が見えた。

 とくんとくん。胸が鳴る。毎日のことなのに、鼓動が早くなる。あの人は無事だろうか。また今日も「大丈夫」って言えるだろうか。

「……さん?」

 私の名前だった。

「はい」

 もしかして。小さく鳴っていた胸が瞬間、とまる。そして再び鳴る。今度は早く強く。

「まだ届いてないかな……。終わったんですよ」

「……終わった? なにが」

「戦争は終わったんです」

「終わった……?」

「日本は負けました。ですが。きっと、ご主人は無事で、帰ってこられるのではと」

 そう言って差し出されたのは一通の手紙だった。

 宛名は私、差し出し人はあの人。日本陸軍省の判が印字されていた。



『君へ。元気にしていますか。』


 その一文から始まった。語りかけられているようで、懐かしい声がよみがえる。辞書を引きながら一文字一文字を綴ったように丁寧な、神経質な字で便箋は埋まっていた。

 思わしくはない戦況のこと、戦地での生活のこと、それから私や私たちの子供への心配……。


『きっと帰る。生きて帰る。もう少しだけ待ってて欲しい』

 最後はそう書かれていた。

 日本は戦争に負けたらしい。戦地にいたあの人は日本が負けることを知っていただろうか。まだ諦めていないのだろうか。


 私は思う。

 無事に帰ってきて。それだけでいい。お国のために生きたことなんて、私にはない。大切な人とその人にとっての大切な人が健やかに穏やかに、笑ってくれればさえそれでいいのだ。正義も悪もない。


 あの人が帰ったら、最初になんて言おう。「おかえりなさい」かな、やっぱり。想像すると滴が頰を流れた。こんなに暑いのに乾いてなんてくれなかった。

 大丈夫だよ。彼の笑顔を思い浮かべる。細く高い声が重なって聞こえた。握り合わせた手のひらのぬくもりはあの人に似ていた。


 その手を握り返した私は隣の息子に笑顔を向ける。彼は私に笑顔を返す。

「早く帰ってきたらいいね」

 彼は笑っていた。真っ直ぐな笑顔だった。

「ねえ。最初になんて言おう?」

 私は問う。

 だけどそれは決まっている。

「おかえり。遅いよ。ずっと待ってたんだよ、君のことを」

 

 振り返ると影は細く長く伸びて、手を伸ばすと空の向こう、どこまでだって届いてくれそうな気がした。

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