第三章 燻りの森 その三

 玄関を見やると、男のような短髪で、濃紺の小袖をふんわりと纏っている女が一人、荒い呼吸でヒスイと彼の手にある小銃を交互に見つめていた。

 かぶりつけば汁が零れるかのような、瑞々しい容姿は、誰も子を産んだ事があるとは思わないだろう。

 しかし赤子へ向ける瞳の光は、腹を痛めた女のみが醸せる特有の熱を孕んでいる。

 ヒスイは、これを意にも介さず、その場に胡坐あぐらをかいた。


「名は、なんという? あんたのだ」

「……エリ」

「あんたの子かい?」


 ヒスイの問いに頷き、エリは、にじり寄りながら手を伸ばしてくる。


「返して」


 ヒスイは、銃口をエリへと向け、居間に上がる寸前で歩みを止(とど)めた。


「その子は、関係ないの!」


 エリの懇願を受けても、ヒスイの信念がぶれる事はない。

 赤ん坊を盾にした圧倒的優位は、人道的に褒められはしないが、有効な手段である事に違いはない。

 エリの視線が、紬へ向けられた。

 ヒスイが譲らない事を見抜き、子供の紬がヒスイに頼んでくれればと。


 けれど紬は、最後の希望を無言で打ち砕いた。

 何も思わないわけではない。ヒスイの行為を酷く悍ましいと思いながらも、黙認する自分がそれ以上の罪人に感じられた。


 それでも紬は、動かない。

 ヒスイの邪魔しないと約束した。どれほど浅ましい行為でも、見つめ続けると誓った。

 紬の覚悟を思い知ったのか、エリは、その場に崩れ落ち、好機とばかりにヒスイが口を開いた。


「何故輪廻草の栽培を? 母一人で養い切れぬと?」


 ヒスイの問いに、エリは答えない。

 返答次第では、ヒスイに狩られるし、下手な言い訳も見抜かれる。


「旦那に先立たれたか? それとも、予期せず出来た子供か?」


 やはりエリの沈黙は続いた。

 エリの頭の中で、この場を切り抜ける策を練り上げては崩れ、練り上げては崩れを繰り返しているのが紬にも見て取れた。


「どれにせよ、お前は、輪廻草が何に使われるのかを分かっていたな」


 白状した所で狩られ、沈黙でも結果は同じ。

 エリに打てる手は、残されていない。

 ヒスイに出会った時点でエリの命運は詰んでいる。


「シュウは死んだよ。狩られた」

「そうかい。あの男が……ついでにあたしも狩りに来たと?」


 エリの眉間と頬の強張りが一層増していく。

 ヒスイから受ける恐怖心は、いつしかエリの中でヒスイへの敵意に塗り潰され、眼光から濃く匂い立っていた。


「あたしが好きで、こんな事をしていると思うのかい?」


 言い訳がましい語り口に、珍しくヒスイの眉が苛立ち任せに跳ねた。


「已むに已まれぬ事情があると言いたげだな」


 ヒスイの声は、ふつふつと煮立った憤怒の念が音の形をして、飛び出してきているようだった。


「ならば、多くの人と精霊の命を奪う手伝いをしてよいと? シュウが何をしていたのか、あの畑がありながら知らんとは、言わせん」

「あたしは……」


 エリの瞳からぼたぼたと涙が零れ、鼻をすすりながら土間に頭を擦り付けた。

 如何なる言い訳も通用しないと、逃れられぬと思い知らされたのだろう。


「あたしはいいから、子供は!! せめて里子に!!」


 ヒスイは、仄暗い呼気を吐き出しながら籠の中の赤ん坊の額を撫でた。


「冷たいようだが、こんな赤子を好き好んで育てる者は居らんさね」

「それでも! あたしの罪は、この子に関係ないだろう!?」

「そいつは正論さね。正直な所、俺もそうしてやりたかった」


 葛藤に震えるヒスイの声は、やがて躊躇の色を含んでいった。


「あんただけ狩って、子供はどうにか里親にと」


 狩るために子供は利用すれど、意味もなく人の命を奪わないのが人狩りだ。

 ましてヒスイは、人狩りの理の為なら、自我も私欲も殺せる男。

 そんな彼が感情を表に出している。

 きっと自分と同じ翡翠色であるから。


「だが、この子はな……」

「何なの? 何の話!」


 エリは、顔を上げ、獣が如く殺意を纏ったが、


「あんた、輪廻草を嗜んでいたな」

「そ……そいつは」


 ヒスイの指摘を受けて、急速に萎れていった。


「乾燥させて燃やした輪廻草の煙には、幻覚効果がある。そいつを常用していたな。小屋の中を絶えず輪廻草の煙が充満していたはず。その結果がこの子の翡翠色だ」


 一音一音発する毎に、込められる悲憤の量が増していく。

 エリは、何か言おうとするたび、飲み込んで、鯉みたいに口を開閉させるばかりだ。


「輪廻草や他にも一部の植物は、大樹から生じている。大人が正しい方法で使うならともかく、まだ生命として曖昧な赤子の頃から常態的に触れていると、人の理を外れていく」

「でも元気だよ!! お乳もよく飲むし、よく泣いて、笑って!」

「俺の瞳を見ろ」


 ヒスイに言われるままエリは、ヒスイの瞳を凝視した後、驚愕を飲み込むように口元を手で覆った。


「あんたも?」

「東方の人間に、この瞳の色はありえん」

「でもあんたは生きてるじゃないか!?」

「瞳だけだからな。だが、この瞳だけですら、昼も夜も変わらずモノを見られる。尋常のモノではない。故に俺は、この生き方しか出来なかった」


 夜を歩み、闇を渡り、同族を狩る。

 きっとヒスイには、生き方を選ぶ余地など、なかった。

 理の根幹を成す大樹に近付きすぎて、理を守る事しか許されなくなったのだろう。

 生き方を選べない事は辛い。

 好き勝手に選べる人間の方が少ないのは、確かだ。

 それでもたった一つしか許されないのは、自分と似ている存在を見捨てる事しか出来ないのは、この世で最も苦痛な事の一つであろう。


「あんたの我欲が、赤ん坊の生き方を選んじまったのさ」

「……ど、どうにも……なら、ないのかい?」

「選べる中で、楽に逝かせてやるのが俺に出来る唯一さね。この子は、もう元には戻れない。世界に溶けていくだけだ」


 銃声が木霊した。

 耳障りな残響が消え失せ、赤ん坊の悲鳴が室内を埋め尽くした頃、うつ伏せになったエリを抱くように、血だまりが広がっていく。

 ヒスイは、紬の手から袋をそっと取り、小銃をしまって、


「紬。行こう」


 言いながら小屋を後にした。

 赤ん坊は、どうするのか?

 母親を失い、泣き喚いている赤ん坊を見捨てる事は憚られる。

 戸惑い、小屋に留まっていた紬だったが、戸口から見えるヒスイの背中が小さくなっていき、観念するように紬は、赤ん坊を残して小屋を飛び出した。

 紬の足音にヒスイは振り返り、立ち止まると、紬が追いつくのを待ってから再び歩を進めた。


「赤ちゃんは?」


 紬が尋ねた途端、ヒスイは小さな嘆息を一つ零した。


「可哀そうに思えるだろうが、置いていく」

「でも!」


 紬は、それ以上の言葉を飲み込んだ。

 嫌われるとか、怒られそうとか、些細な理由からではない。

 追いつめると、ヒスイを傷付けてしまいそうで、それが怖かった。

 無言のままの、ヒスイの背中を紬は追い、二人が燻りの森を出た瞬間、背後から熱気の壁が押し寄せてくる。

 紬が振り返ると、燻りの森の木々が炎に姿を変え、天を目指すように火の手を伸ばしていた。


「あの子を連れて行くんだ」

「連れて行く?」

「あの子の焼け尽きた灰が、いずれ新たな実りの糧となる」


 炎に包まれた森を眺めるヒスイの姿は、背負っていた荷を下ろしたばかりみたいに、安らいでいる。


「ヒスイ様は――」

「ん?」

「ヒスイ様は……いえ。大樹の影響で翡翠色の瞳になったのですね」

「ああ。赤子の頃、大樹の下に捨てられていたのさ。衰弱した俺を生かすために、大樹が俺に蜜を飲ませた。育ての両親が見つけてくれるまで一ヶ月掛かった」

「育ての親は、もしかして人狩りだったのではないですか?」


 ヒスイは、呆然と紬を見下ろした。

 普段滅多に見せない動揺は、紬の指摘が的を射ている証明だった。


「夜ですら見通せる瞳は、人狩りにとって重宝されるのだと、この旅の最中に思い知らされました。人狩りとしてこの上もない才覚であるとも」


 昼も夜も見渡せる翡翠色の瞳は、人狩りと生業とするのは絶好の代物だ。

 そういう打算があったからこそ、ヒスイの育ての親は、幼少の彼を養ったのだろう。


「ヒスイ様は、こういう生き方しか選べなかったのですね」

「育ての親は、いい両親だったよ。人狩りになる事を無理強いされた事はなかったさね」

「いいご両親だったからこそ、人狩りになる以外を選べなかったのではないですか? 少なくとも私ならそんな気がします。良き人たちの希望だからこそ無下には出来ない」


 優しい人に乞われれば、どんな無茶でも引き受けたくなる。

 良き人々の懇願ほどずるい行いもない。


「ああ。そうかもしれんさね。そうかもしれん」

「……よかったと言ったら、おこがましいでしょうか?」


 ヒスイにとっては、苦痛ばかりの人生だったのかもしれない。

 けれど、彼の目が翡翠色に染まっていなかったら紬は、ヒスイと出会えていなかった。


「ヒスイ様に会えて……私はよかったです」

「お前も選ぶ事は出来ん道を歩まされてるんだったな。俺が愚痴がましい事を言って済まんかったね」

「いいえ。私は、選べなくても、例えそれしか生き方がなくても、その人にとっての最善の生き方っていう事もあるんじゃないかって思っています」

「お前さんは、難しい事を言うね」

「そうでしょうか?」

「まったく敵わないよ。恨み言ばかりの大人より、聡く世を見抜いている」

「私は、モノを知らないだけなんです。だからきっと綺麗事を言えてしまう」

「聡い人間が放つ綺麗事は、存外物事の芯を突いてるもんさね」


 ヒスイは、何故だか悔しそうに笑って、紬の頭を一撫でした。


「大樹の寿命が尽きる瞬間は、滅多に見れるものじゃない。しっかりと眼に焼き付けておくといいさね」


 言われるままに、炎を見つめていると、微かに鳴き声を聞き取れた。

 それは、エリの赤ん坊の泣き声であり、けれどすぐさま鳴き声は消え失せ、辺りには火の粉の爆ぜる音ばかり残る。


「ヒスイ様」

「ん?」

「私は、何時かここに戻ってきて、種を撒こうと思います」

「……そうさね。桜の苗木でも埋めようかね」

「さくら?」

「見た事はないかね。綺麗な花が沢山咲く木さね」

「そうなんですか! それならいっぱい、いっぱい植えましょう」

「二人で……また来れたらいいな」

「また来ましょう!」

「分からんぞ。喧嘩別れしてるやもしれん」

「大丈夫ですよ。私は聡いから、芯を突いてるんです。私たちはきっと長く一緒に居ますよ」

「……かもしれんなぁ」


 ヒスイと紬は、一層激しく命を焼く大樹の群れに背負向けて、歩き出した。

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