第三章 燻りの森 その二

 小屋から赤ん坊の泣き声がか細く漏れてきている。

 こんな場所に小屋があるだけでも不思議だが、赤ん坊の泣き声に遭遇するとは、さすがに想像していなかった。

 とにかく小屋に入って様子を確かめようと、紬が足を踏み出した瞬間、


「紬」


 ヒスイの固い声音で止めてきた。


「これより先の仕事は、見ない方が良いかもしれんさね」


 今日の仕事の内容を紬は、詳しく聞いたわけではない。

 けれど、ヒスイの標的が赤ん坊の親であろう事は分かる。

 親を狩るのに簡単な方法が目の前に転がっているのだ。

 子供を盾にすれば親は、いかなる抵抗も出来はしないだろう。

 容易く仕事を終えるために、あらゆるものを利用する。

 人狩りとしては、もっとも効率的な仕事のやり方だ。

 しかし、そのやり口は、人としてもっとも浅ましく、悍ましい。故にヒスイは、自身の浅ましさや卑劣さを紬に見せたくはないのだろう。


「一緒に行ってはいけないと……私がどれほど望んでも?」


 だからこそ紬は、食い下がった。

 ヒスイは、紬の反応を予想していたのか、平静を崩さなかった。


「命じる事は出来ん。決めるのは、お前さね」


 口では、そう言っている。

 態度もこれといった変化があったわけではない。

 それでも紬は、ヒスイが付いて来て欲しくはないと、考えている事を悟った。


「ヒスイ様」


 名を呼ばれると、ヒスイの肩がほんのわずかに強張った。


「私は、ずっと気にはなっていたけど、聞かなかった事があるんです」

「なんだ?」

「あなたの瞳の色は、人のそれではありません」


 一目見た時からずっと考えていた。

 ヒスイの瞳は、名の通り、人が宿せる色ではない。


「尋常を外れた突き抜けるような翡翠色」


 きっと名前も本名ではないのだろう。

 彼の目を見て、誰かが呼び始めた名前をいつしか、自分でも名乗るようになったのだろう。


「どうしてあなたは、その瞳になったのか? どうしてあなたは、人狩りになったのか?」


 ヒスイと言う男が、何故翡翠色の瞳を手に入れたのかを知りたい。


「でも私は、あなたの口から簡単に答えを聞きたくはない。ねだって教えてもらっても意味がない気がするんです」


 ヒスイと言う男が、何故人狩りになったのか、理由を知りたい。

 ヒスイの言葉に頼らず、理由を知るには、ヒスイと言う男の全てを知る必要がある。

 知るためには、ヒスイの如何なる行いからも目を背けてはいけない気がした。


「なら半端は、出来ません」


 ヒスイと旅をする事が理ならば、ただついて歩くだけで終わりたくはない。


「私は、目的が欲しいんです。漫然とあなたの後ろをついて歩くだけなんて嫌なんです」


 精霊たちは、皆ヒスイの瞳に惹かれている。

 紬が惹かれるのも、きっと精霊となったからだろう。

 だからこそ、惹かれるだけで終わりたくはない。

 美しいと思うだけでは終われない。


「旅をする事が、傍に居る事が理ならば、私は片時も離れません」


 ヒスイをもっと知りたい。


「あなたがどれほど、悍ましい仕事のやり方をしようとも」


 そう願い固執する事が、単なる依存であると分かっていても、


「どれほどの残虐であろうとも、邪魔しません」


 空っぽの頭で、付いて歩くだけの存在にだけはなりたくない。


「だから隣に居ます。それが私にとっての譲れない理です」


 紬の宣言を受けてヒスイは、


「紬、すまない」


 いつものように笑んでいた。


「俺は甘い。浅はかで、思慮に欠けている」


 肩から下げた袋から小銃を取り出した。


「お前の覚悟を見くびっていた。小娘と侮っていた。何も言わん。お前の好きにするといいさね」


 ヒスイは、小屋に向かって歩き出し、紬も後に続いた。

 漫然と思考もせず、着いて歩いているのではない。

 ヒスイの仕事を見届けるために、自分の意志で小屋の中へと行くのだ。

 ヒスイが小屋の引き戸を開けると、敷居に積もった灰が舞い上がる。手で灰を払い除けながら中の様子を窺った。


 土間には小さな竃(かまど)があるだけで、畳六畳分の居間の中央には、小振りな囲炉裏で炭が燻っている。

 障子や窓はなく、ただでさえ灰で薄まった日光は、玄関の戸口からしか差し込んでいない。

 戸を閉めてしまうと部屋は、夜のように真っ暗になるだろう。

 囲炉裏の近くに竹で編まれた籠が一つ置かれており、赤ん坊の泣き声は、ここから響いている。


 ヒスイが土足のまま居間に上がり、籠の中を覗き込むと眉をひそめた。

 彼が感情をむき出しにするのは珍しい。

 ヒスイの反応が気がかりで紬も土足で居間に上がり、籠を覗き込んで、息を飲んだ。

 赤ん坊の肌も、髪も、瞳も、翡翠色である。

 爪も指先も、生え始めたばかりの歯に至るまで冴えるような翡翠色に染まっていた。

 まるで染料の溜まった池に落として、引き上げたばかりのようである。


「この色……ヒスイ様と」

「そうか」


 ヒスイの声音は、先程よりも険しかった。


「やはりこれは、そういう事さね」


 愕然とするヒスイの姿がこの赤ん坊とヒスイの共通点を示している。

 ヒスイも、この赤ん坊と同じような境遇にあったのだろう。

 だが、どうして赤ん坊の身体は、鮮やかな翡翠色に染まってしまったのだろうか。

 それを知るのは、ヒスイの生い立ちを知るのと同義だ。


「誰!?」


 紬の考察を断ち切るように、悲鳴が轟いた。

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