第二章 輪廻草と大樹の蜜 その三
若い男が一人、へたりこんだ紬を心配そうに見下ろしている。
黒髪に黒い瞳は、大和に元来住む東方の民である証だ。
ヒスイと似たような洋装姿であり、年の頃も同じであろうか。
温厚そうな顔立ちをしている。
もう少し歳を取らせたら、紬の父に似ているかもしれない。
「……大丈夫です」
「立てるかい?」
男が差し出してきた手を、紬は両手で掴んで支えにしながら立ち上がった。
「人……ですか?」
紬の奇妙な質問に、男の顔色が変わる事はなかった。
「もちろん」
初対面であるが、男が嘘をついていない事が分かった。
「よかった。私は、ここで迷ってしまって」
「初めて来たのかい?」
紬が頷くと、男は微笑を浮かべて、繋いだままになっていた紬の手を引いた。
「おいで。僕は、よくここへ来るから慣れているんだよ」
男にされるまま、紬は付いて行く事にした。
「君たちの目には、ここは夜の闇にしか映らないからね」
「私が精霊だと?」
「髪と目を見ればね」
「この闇の中でも、私の姿が見えるのですか?」
「人にとって、ここは日中の世界さ」
精霊にとっては闇でありながら、人にとっては光である。
どのような原理でそうなっているのか定かではないが、ヒスイが言うよう誠に厄介な場所である。
「お花がありました。あれも見えますか?」
「闇の中に、赤い花だけが見えたのかい?」
「はい。輪廻草と呼ぶとか」
「そうだが、この場に咲く輪廻草は、精霊には見えないはずだが……」
男は、しばし考え込んでから、ふと思い立ったように言った。
「君は、精霊成りか」
紬は、答えも頷きもしなかった。
あまり言いふらしていい事ではない気がしたから。
「珍しいな」
ぽつりと呟くと、男の足が止まった。
木造の簡素な造りの古い小屋が一つある。
家というよりは物置であり、人が住んでいるようには見えない。
男が引き戸を開けると、中には四畳の畳が敷かれ、その中央にボロの外観とは不釣り合いな分厚く真新しい布団が敷かれている。
それ以外には、これと言って目立つものはない。
「ここは?」
紬が尋ねると、男は、紬の手を引いて小屋に中に入った。
「初めてかい?」
男の問いの意味が、紬には理解出来なかった。
「初めてとは?」
「こういう事をするのは」
「こういう事?」
男が何について尋ねているのか、やはり紬には見当もつかなかった。
随分、変な事を聞くものだと戸惑いながらも頷いてみる。
「ええ。初めてです」
「そうか」
男は、紬の手を離して、ベルトを外してズボンを下した。
「君のような美しい精霊成りと、光栄だよ」
紬は、男が何をしようとしているのか、ようやく理解した。
「さぁ」
男のなめやかな声が紬の背筋を悪寒のように撫でてくる。
両の手を伸ばしてくる男を突き飛ばして、紬は小屋から駆け出した。
足音が追いかけてくる。きっとあの男だ。けれど振り返って確かめる勇気は、なかった。
とにかく遠くへ。あるいは、どこか隠れる場所を。
願いながら、走り続けると、足音が遠くなっていく。
ズボンを下したままでは、対して速く走れないだろうし、元々紬は足の速さに自信があった。
野山を走らせたら男の子にも負けなかったし、大人を含めても村では一番の健脚である。
追い縋る足音が完全に消えた所で紬が辺りを見回すと、先程の小屋と似たような小屋を一つ見つけた。
――ここで隠れて、やり過ごそう。
そう考えて引き戸を開け放つと、煮詰まった汗の臭いが噴き出してくる。
紬は思わず、顔を背け、口元を抑えてから中の様子を窺った。
小屋には、先客が二人居り、中年の男が一人、人とそっくりの身体つきとした猫のような獣に覆いかぶさっている。
獣は、きっと精霊だ。
人間と精霊が小屋で何をしているのか、想像するまでもなく答えは一つしかない。
紬は、戸を開け放ったまま、茫然とした二人を残して、逃げ出した。
ヒスイの言う厄介の意味を、紬はようやく理解する。
精霊には闇で、人には日中。
そして触れてはならないと忠告された輪廻草。
ここは、精霊を逃がさないための仕掛けが、幾重にも張り巡らされた場所である。
紬たちを運んだ蔦虫というのも、恐らくは精霊を捕まえるためか、客を送迎するための仕掛けの一つだ。
ヒスイが蔦虫を褒められない理由で使う人工物といった意味も理解出来る。
声の正体も分かった。
精霊とまぐわい、快楽に溺れる人の声が獣のように聞こえたのだ。
視線を左右に振ると、いくつもの小屋があり、そこから呻くような声が幾重にも重なり、響いてくる。
精霊は、この場から逃れる事は叶わない。
容易く抜け出せるようには作られていない。
けれど希望があるとするのなら――
「逃げる相手を追う趣向も嫌いではないが」
紬が振り返ると、あの男が闇の中でも見て取れるほど、頬を恍惚の桜色で染めて、手を伸ばしてきている。
「そろそろ――」
追いつかれた。
闇深い中でも、人の目には日中に映るというのなら、もはや自分だけの力では逃げ切れない――。
「紬」
鮮烈で鋭い音が大気を切り裂き、天へと昇った。
周囲の闇が突如細切れになり、小さな羽をはばたかせながら散り散りになっていく。
蒼い虹彩に白い光が濁流のように流れ込んできた。
紬は、思わず目を細めたが、数瞬の家に目が光に慣れて、周囲の景色が徐々に色づいていった。
見渡すと、森の中に、田んぼ三つ分程の広さが切り開かれており、小屋が十件程、密集している。
その周辺を囲むようにして輪廻草が咲いていた。
「大丈夫かね?」
銃口を空に向けたヒスイは、紬に微笑みかけてくる。
「ヒスイ様!」
紬は、今までの人生で一番の俊足を発揮し、ヒスイの胸に飛び込んだ。
ヒスイは、銃を手にしていない左手で紬の頭を撫でてから、頭上を舞っている小さな闇の破片を摘まんだ。
「ここは、
ヒスイが闇を摘まんだ指に力を込めると、ぴちゅっ、と湿った音を立てながら闇が押し潰された。
指を伝い流れ落ちる闇は、次第に琥珀色へと変じていく。
一体なんなのか、そう問おうとした紬であったが、言葉を飲み込んだ。
ヒスイの翡翠色の瞳が焼けた鉄の如き熱を孕んでいる。
紬を追いかけていた男は、ヒスイの発する濃厚な殺意で釘付けにされ、その場に立ち尽くしていた。
「今すぐ消えるなら狩らんでやるさね。次その顔を見かけたら、容赦せんがね」
ヒスイの冷たい声音に、男は無言で走り去った。
彼を追いかけるかのように、小屋の中から次々に人の男が飛び出し、どこへともなく去っていく。
残されたのは、精霊たちだ。
彼女等、そして彼等は、小屋から出ると日の明かりに目を細め、嬉々とした声を上げた。
皆、人に近しい形を持っているが、全身を獣の毛や蛇の鱗で覆われている者。面立ちが犬や猫など獣に似ている者。目や手足の数が人や獣と異なる者もいる。
「なんと、なんと。夜が明けた」
「おう。夜明けだ、夜明けだ」
「助けてくれたのは、人狩り殿か?」
「おう。礼を言わねば」
「黄金の粒かね」
「白金のかね」
「金剛石は、どうかね」
精霊たちは、次々に礼の言葉を述べながら、ヒスイを囲んでくる。
「いりませんよ。元の住処へお帰りください。ですが、聞きたい事が」
「なんだね?」
「なんでも答えよう」
「人狩り殿、何が聞きたい?」
群がる精霊たちにヒスイが言った。
「精霊の方々。ここの主の居場所に、見当は?」
ヒスイの問いに、精霊たちは口々に答える。
「紫電樹の里さね」
「あそこに居るよ」
「シュウという男さね」
「酷く憐れな顔をしている」
「人の皮の剥ぐのだね」
「ああ、浅ましい。悍ましい」
「住処へ帰り、酒を飲もう」
「それがいい。それがいい」
「疲れたのう」
精霊たちは呟きながら、溶けるように去っていく。
後は、紬とヒスイが居るばかりだ。
「ヒスイ様。土竜さんは?」
気掛かりを尋ねると、ヒスイは、皮肉っぽく笑んだ。
「お前さんが転んだ拍子に地中へ逃げたよ。女の子一人置いていくなんて、臆病な奴さね」
「あれは、私も混乱してしまったので」
「とにかく無事でよかった。では、行くとするかね」
「どちらへ行かれるのですか?」
「ここの一件について依頼を受けていてね。その依頼主さね」
ヒスイと紬が、件の依頼者の元に辿り着いたのは、翌日の昼過ぎになってからであった。
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