02.十傑、神域の日常。
エルファバがその言葉を発した途端、トーネイの隠れ家は静寂に包まれた。
「あ、あれ……えっと……」
もしかしたら自分は、とんでもないことをしでかしたのかもしれない。せっかく自分の安心できる場所を見つけられたというのに、もう追い出されてしまうのか。
虐げられ続けて形成されたエルファバの価値観は、一つの静寂だけで過度な程の妄想を作り出す。
「黒騎士、教えてやんな」
困った顔で助け舟を出すアマネ。黒騎士はカシャカシャと甲冑を鳴らしながら羊皮紙に文字を書き、それを彼女に渡した。
『黒騎士と言います よろしくね ^‿ ^』
「……くろ、きし? あの、名前って……」
「黒騎士さんの名前は黒騎士。残念だけど、ここにいる全員が黒騎士さんの本当の名前を知らないんだよ」
明るい茶髪で爽やかな青年であるアルトリウス、彼の声色は呆れている様だった。無理もない、黒騎士は頑なに自分の事を語ろうとしないのだ。過去も、現在も、何一つ、語らない。例えば彼は絶対に甲冑を脱がない。噂では寝ている彼の兜を脱がせようとした不埒者がそのまま斬り殺されたという……本当にただの噂に過ぎないのだが。
「そーいえば黒騎士さぁん。アルトリウスくんと決闘の約束をしたと聞いたんですけど、ホントーですか?」
「なんだその目は。失礼極まりないな」
軽蔑とも、侮蔑とも、あらゆる悪い意味で取れる粘着質な目線。スズハのこういう性格は生来のものなのか、それとも育ってきた環境の賜物なのか、そんなどうでもいいことを考えながらエルファバはミルクを飲む。
『本当です』
「ふーん……懲りませんねぇ」
「知ってるよ……」
『いつでも挑戦どうぞ』
「いやぁ、師匠がボコボコにされたって自分で言ってたので私はちょっと……」
「バカ弟子、なんでそれを言う」
「苦い思い出ですねぇ?」
「んまぁ、祖国の技が悉く市販の剣でいなされたからね……流石の私も、さ」
『市販の剣などではありません。神によって作られた世界最強剣です』
「そこらの狩人の剣と見た目が変わらないのは?」
『相手を油断させるための策です!』
「そういう事にしとくよ……」
「くろきしの剣は世界サイキョーなのか!?」
『その通り、番付9位の秘密でございます!』
「おぉー! どこで作ってもらったんだ!?」
『お近くの鍛冶屋で銀貨5枚ほど』
「聞いたあたしがバカみたいだー」
楽しそうな光景に新鮮さを覚えながら、エルファバはミルクを飲み干す。
黒騎士はとても速筆で、紙を通した会話に慣れている。長年の鍛錬が生じる熟練の技、とでも言うべきか。声での会話の流れを止めてしまう様子もない。
「あ、飲んだ?」
「は、はい……おいしかったです」
「ん、おそまつさま。良かったねスズハ」
「あはは、ありがとーエルちゃん」
「んん……あ、あの……えっと……」
スズハの手がエルファバの頭を優しく撫でる。細く色白な手が、絹のような肌触りの銀髪の上から頭頂部を撫でていく。
初めての、体験だった。初めて人に頭を撫でられた。触れている手の体温がじんわりと体中に広がって、ぽかぽかして……。これが「優しさ」なのだ。さっき引っ込んだ涙がまた出てきそうになって彼女はうつむいた。人との会話の経験が極端に少ないから、こういう時どう返せばいいのか分からない。あぁ、もう、ぐっちゃぐちゃだ。
嬉しくて、泣きそうで、黙るべきなのか、何か言葉を返すべきなのか。
「……ふぇ」
ついに、エルファバは涙を浮かばせた。
「わぁあ!? エルちゃん!?」
「あーらら、泣かせちゃった。ばーかーでしっ、ばーかーでしっ」
「ちょ、師匠! あぁあえっとどうすればあぁ……」
「スズハー、あたしのエルを泣かせるとは良い度胸じゃないか」
「いつからあなたのモノになったんですか! えっと、えっとぉ……エルちゃん、撫でられるの、い、イヤだった?」
違う、違う、絶対に違う。エルファバはぶんぶんと首を横に振る。むしろもっと、もっと撫でて欲しい。優しさや温もりに縁が無かったエルファバが一度これを体験してしまえば、貪欲になるのにそう時間はかからなかった。
「良かったぁ……」
「スズハみたいな陰湿なヤツに撫でられるのが嫌だったんだよ、きっと」
「弟子ですけど今凄く斬りたいです、師匠」
「ニンジン?」
「師匠です」
「これは手厳しい」
「はぁ……えっと、エルちゃん。ごめんね、急に撫でて」
「い、いえ……ぐすっ、う、うれ、うれしかった、だけ、です……」
「……そっか、よしよし」
「ふぇあぁ……」
人の手は、こんなにも温かくて、気持ち良い。一度溢れてしまった涙はしばらく止まりそうにもない。
エルファバは、今まで与えられる事の無かった「優しさ」を噛み締めながら泣き続けた。
◇ ◇ ◇
「くぅ……くぅ……」
銀皇と同じようにテーブルに突っ伏して寝るエルファバ。その寝顔は、年相応の少女の顔だった。
「こんな可愛い子を連れて帰るなんて、黒騎士さんには感謝しかありませんねぇ」
『むふふ』
「わざわざ書かなくていいですよ」
しかし、どうしたものか、と……エルファバの事を愛しく思う一方で、スズハは彼女のこれからが気がかりになった。
「紫の髪はなんかのショウチョー……だったっけー? おうさまー?」
「んが……すぅ……」
「役に立たない王様に代わってアマネさんが説明しよう。紫色の髪は魔女の証。かつてこの地に本来あってはならない生命体である『獣』を顕現させた最低最悪クソ女。こいつさえいなけりゃ私達狩人なんていうのも、獣に悩まされる日々も無かったワケ」
「お、おー……そういえばそうだったなー」
「──と、いうのが世間の見解。童話にも魔女の話があったりするけど、魔女の存在を決定付ける証拠なんて一切合切見つかってないし、そもそも紫髪の人は希少であっても一定数存在するワケで……教育が若者にそういうイメージを勝手に植え付けてるせいで、この子は今までずーっとひどい目に合ってきたはずだよ」
「あぁでも師匠、魔女が使ってたかもっていう魔術ならありますよね?」
「あー、『深淵』? アレって発見してから誰も使えて無いじゃん、効果も分かんないし、所詮その程度の証拠よ」
それもそうか、とスズハは納得した。
数千年前という遥か昔に現れ、災厄を振りまき、突然消えた。その姿は描く者によって様々な解釈がされるが、大方共通しているのは「紫色の長い髪」というものである。もしかしたら本当に存在していて、当時の人達から伝承が受け継がれてきた、という可能性も無くは無いが、そんなアヤフヤなものを信じてどうするのか。それがこの場にいる狩人全員の認識だった。
「くろきしー、この子どうするんだ?」
黒騎士は腕を組み、首を左右にこっくりこっくりと傾ける。
「なんならウチで匿ってやってもいいけど」アマネが言った。
「私達は別にどうとも思いませんが、民衆は融通が利きませんからねぇ……特にこの髪に対しては」
「もう切っちゃえばいいんじゃないかー?」
「それも良い案かもしれませんが、そんな簡単な解決策、出来るなら当の昔にしているはずですよ。何か特別な理由があって伸ばしてるんじゃないですか?」
「うむぅ、ありえる……」
振り子の如く首を遊ばせていた黒騎士が、諦めたように羊皮紙を取った。
『自由にさせとけばいいと思います』
「ですよねぇ」
『居合わせた所を助けただけですし、元よりこの子は独りで生きる術を身に付けているでしょう』
『私達があれこれ解決策を考えて頭を突っ込むような問題ではないのです。全てはこの子次第。この子が私達と居たいと言うのならば考えますし、自分一人で生きていくと言うのならばそれまで』
「ま、その通りだねぇ。今日はウチで寝かしとこっか」
この「トーネイの隠れ家」は、料理屋であると同時に従業員の宿屋でもある。店長のアマネにその弟子スズハが働いている事は周知の事実であり、故にこの店は一つの観光名所と化していた。売り上げが上がるのはとても喜ばしい事実なのだが、都の外部からも内部からも濁流の如く流れ込む大量の客を裁くために大量の店員が必要となる。
結果、狩人の傍ら日銭を稼ぐために働く者達を休ませるための増築が成されたのだ。
……客にも従業員にもアマネやスズハに決闘を申し込もうとする勇者がいくらかいるのだが、その全員がトラウマを刻まれて終わるらしい。
「スズハ、運んであげて」
「王様はどうしますかぁ?」
「あー……まぁ、男共で適当に」
「となると、今日はこれで終わりですね」
アルトリウスは立ち上がり不貞寝する都の支配者を起こそうとしたが、中々起きてくれない。いつも少し寝るのだが今日は特段酷い。彼の寝相は、その日の執務の量によって変わるのだ。
「黒騎士さん……お願いします」
『りょ!』
「いやぁ……しょるい、きらいぃ……たすけてぇ……」
「とてもおうさまとは思えないなー」
こうして、十傑狩人の一時が幕を閉じたのだった。
◇ ◇ ◇
「よい、しょっと……」
「すぅ……すぅ……」
二階の寝室にエルファバをお姫様抱っこしながら持ってきたスズハは、寝かせた彼女の顔を見つめる。
端正な顔つきだ、素直にそう感じた。
「よし、よし……」
「ん……」
ぴくりと肩を震わせ、直後にスズハの手に身を寄せる。
ちょっとした母性のようなものがスズハの心を刺激し続けていた。
「おやすみなさい、エルちゃん」
「……いか、ない、で」
「っと……あらら」
戻ろうとしていたスズハの服の裾を捕み、寝言を漏らす少女。睡眠中であるから、完全に無意識なようだ。
──これは、一緒に寝なきゃいけないヤツかなぁ。
試しで手を離そうとしてみたが、想像以上に強い力で引っ張られている。無理に離すというのはスズハの良心を多少なりとも傷付ける策だった。
「よ、っと……」
「んん……」
「わわっ……よしよし」
「……」
「ふふ、おやすみなさい」
胸に埋もれて気持ち良さそうな顔で寝るエルファバの頭を優しく撫でながら、またスズハも眠った。
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