幻恋

前嶋エナ

第1話

「智久ー!みてー!めっちゃきれいー!」

堤防から海を見下ろし由美が叫んだ。

「んー」

智久は由美のもとへゆっくり歩きながら近づいて一緒に海を覗きこむ。確かに綺麗だ、さすが沖縄。

青すぎる海の中に小さな魚が見える、水族館に行かなくてもよさそうだ。

「もう最高だよね、ねぇ、お昼なに食べる?なんだっけあれ、ソーキそば?」

目を輝かせながら聞いてくる由美の頭を撫でながら智久はそうだなぁ、と考えた。

「ソーキそばってなんかうどんみたいなんじゃなかったけ?俺なんかがっつりしたものが食べたいかも」

「そばなのにうどんなの?でも確かに私もお肉とか食べたいかも、やっぱりさっき言ってた焼き肉ランチ探す?」

沖縄まできても俺らは結局いつもと同じようなものしか食べないのか、なんて思って笑うと由美も同じことを思ったのか笑っていた。

焼き肉ランチをやっているお店はすぐ近くにあった。メニューには思ったよりも沖縄ブランドのお肉の名前がある。これは沖縄を堪能できそうだ。

由美は、絶対シークァーサーハイを頼む!と言って笑っている。


ーーーー幸せだなぁ。


智久と由美は付き合いはじめてもう五年がすぎていた。共に仕事が忙しいのもあり、なかなか遠方への旅行はできずにいた。

昔から由美は短い休みがかぶるたびに沖縄に行きたい、なんて言っていたっけ…なかなか叶えてやれなかった由美の小さな願望を叶えてやれた喜びで智久はいっぱいだった。

そして、智久はこの旅行で由美にプロポーズをすることも決めていた。

付き合いたての頃、給料もまだ低く、そして自分自身もまだ若かった智久は、由美に大したデートプランをたててやることもできず、よく由美のアパートで休日を過ごしていた。昼にはDVDで映画をみて、だらだらすごし、夜は由美がつくる、美味しいとはなかなか言えないが愛情たっぷりのご飯を二人で他愛のない話をしながら食べた。

仕事が少しずつ落ち着いてからは二人暮らしを始めた。生活感の違いからよく喧嘩もした。智久が洗濯物をためるたびに由美は怒った。職場の友達と飲み歩いてばかりの智久に、しびれをきらせた由美が別れを切り出したことさえある。

だが、いつだって仲直りしてきた。智久は心から由美を愛していたし、由美も心から智久を愛していた。

「智久?」

智久がぼんやりと昔を思い出していると、由美が心配そうに智久の顔をのぞきこんだ。

「ん?ごめん、なんかやっと沖縄につれてこれたなぁと思って、色々考えてた」

「なにそれ!」

「いや、ずっと言ってたじゃん、沖縄いきたいよーって。」

「うん!だからね、めっちゃ嬉しい!もう全部楽しいもん。だから話聞いてよー」

「ごめんごめん、何?」

ふくれ面をした由美が可愛くて、聞き返すと、一緒に過ごしたはずの昨日の沖縄の話を由美はたのしそうに永遠と話すのだった。

沖縄への滞在はあと二日。最終日には鞄の奥底にある指輪を愛しの由美に渡すのだ。

その日は夕飯として入った居酒屋でもお肉を食べてしまい、明日はちゃんとソーキそば食べようね!なんて言いながら二人で笑った。


一日目二日目と沖縄の大自然を堪能した二人は、今日は町中に行こうと、朝から土産屋の並ぶ商店街にきていた。

「どうしよ、定番じゃないものがいいよね?どう思う?」由美が智久をつつきながら言う。

「会社?んー、なんでもいいんじゃないかなぁ、こういうのって気持ちだし。」

箱に 沖縄に行ってきました と、かかれたお菓子の箱を持ちながら智久はこたえる。

「じゃっ、自分たちようにちょっとかわったの買っちゃおうかな!?」

由美は楽しそうに笑うと、智久のもとを離れて店内に溶け込んだ。

とくに職場にお土産を買うつもりもない智久は店内を出て、商店街をのんびりまわることにした。

土産を見飽きたら由美から電話がくるだろう。


適当に歩いていると、喫煙所を見つけて智久は立ち止まってタバコに火をつけた。朝から一本も吸えずにいた煙が身体を満たしていく。

深く息をはきながら自分の手に収まるタバコをみた。


アメリカンスピリッツ ライトメンソール


19才のころから22才までセブンスターを吸っていた智久だったが、22才の頃に出会った女によってこの銘柄に変えた、変えた、というより変えられた、というべきだろうか。

あの頃、新入社員としてがむしゃらに働いていた智久にとって、その女、由利香はあまりに自由で羨ましいほどだった。

由利香は智久より四つ年上であり、その会社の受付を担当するアルバイトであった。智久が出社するたびに由利香はにこやかに手をふり、「あ、また会えましたね!今日は私頑張れそうです!」なんて恥ずかしいことをよく言った。

顔と名前を覚えるようになったころ、喫煙所でばったり会い、一気に仲良くなった。

その頃、智久には専門学校からの彼女がいて、その事は由利香にも話し、知っていた。


智久と彼女は互いに仕事をはじめてからなかなか会えずにいた。何せ土日休みの智久と、平日休みの彼女、そしてメール不精で面倒くさがりの智久と、心配性でマメな彼女であった。

二人間に少しずつひび割れができつつあることを智久は気がついていたが、仕事を理由に、特に対処をするわけでもなく放っていた。

そんな話を由利香にするたび、由利香は寂しそうな顔をした。

「彼女さんはきっと智さんのこと、好きですよ、智さんも彼女さんのこと好きでしょ?もったいないです、私、智さんには幸せになってほしいな」

毎回、そんなことを言っていた。


だがそれはやはり、男と女であり、彼女よりも一緒に過ごし、何より自分をすべて受け入れてくれる由利香の優しさに甘えるように智久は由利香を抱くようになった。

仕事が終わり、夕飯を食べ、そのまま由利香の家に帰るのが日課になっていった。

そんな由利香のお陰様…というわけではないが、心の隙間が埋まっていく感覚と彼女への罪悪感が募った智久は、だらだらと続いていた彼女との関係にたいしてもピリオドをうつことができた。


だからといって、智久と由利香が付き合うことはなく、俗に言う、セックスフレンドというような関係であった。

理由は智久にあった。

よくわからなかったのだ。智久自身は由利香を愛していたし、由利香も心から愛してくれたが、何かがしっくりこなかった。由利香といる時間はいつも楽しく、我が儘も言わない由利香は智久にとって最高の相手であったが、なんというか言葉を悪く言えばつまらない女であった。彼女というような気持ちのいい関係というよりは、なんでも話せる親友のような感覚がぴったりだった。

由利香は時に智久に向かって「彼女にはしてくれないの?」と、おどけて聞いてきたが、なかなか首を立てにはふれずにいた。

そんなある日、由利香の部屋で二人で煙草を吸っていたとき、ふと由利香が智久の煙草を手にとって

「ねぇ、一個だけ、一個だけ我が儘を聞いてよ」そう、言ってきた条件が、由利香が吸う銘柄、アメリカンスピリッツライトメンソール、同じものを吸ってよというものであった。

はじめのうちはどこのコンビニでも手にはいるわけではないその銘柄を渋っていたが、普段智久に必死に尽くす由利香のたった一つの我が儘を、智久はいつの間にか受け入れ、日常になっていった。

一緒に時間をすごし、笑い、抱き合い、周りからみれば幸せなカップルのような関係は一年以上続いていた。


いつもと変わらないと日常。

智久が出社し、受付の由利香と他愛のない話をし、事務所に向かい、PCの電源をつける。

つまらない一日の始まりだなと、ため息を一つこぼした。

「おはようございます。」

上から突如ふってきた声に智久が顔をあげると、可愛らしい女性がにっこりと笑っていた。

「私、昨日からここの部署に配属された飯田由美です、よろしくお願いします。」

そういってペコリと頭をさげた由美は、あっ、と呟くと鞄から可愛らしい菓子を差し出した。

「これ、昨日藤井さんいなかったから…、いっぱい持ってきたんですけど、あとひとつになっちゃって。あ、私も一個だけ食べちゃったんですけどっ」そう、恥ずかしそうに笑う由美はかわいかった。

智久は菓子を受け取り、どーもと軽く笑うと

「飯田さん、移動ってことはいつ入社なんですか?」そんな興味のない質問をした。


もう少し彼女と話をしたいと思った。


すぐに仲良くなった智久と由美はよく二人でランチを過ごした。給料日あとになると、「給料日じゃん!焼き肉たべたいー」と言い出すのは由美のお決まりで、じゃんけんで負けた方がおごり、というのは二人のお決まりだった。

由美は由利香と違い、だらしない智久をよくふくれ面で怒った。連絡をマメにかえさない智久のスマートフォンを「意地悪な子」と名付けて茶化した。

智久と由美の関係は周りから見ても付き合っているようで、上司にまでも「結婚するときはちゃんと式に呼んでくれよ」なんて言われるようになっていった。

智久はもう、由美を好きだった。

守りたい存在であり、可愛くて愛しくて仕方がなかった。だがその反面、由利香との関係は続いており、一歩を踏み出せずにいた。

そんなある日、由利香が智久にいった。

「智さん、私は智さんを、手放すよ。」

涙をこらえているのかキラキラと揺れる由利香の目は、しっかりと智久を見ていた。

由利香は智久の優しさをよく知っていた、だから、智久が自分の幸せのためだけに自分をふれるような男ではないことを、わかっていたのだ。


由利香は智久の知る限り、仕事を愛する女だった。実際「私、智さんと仕事があれば本当に幸せ」だなんてよく言っていた。

仕事中、誰よりも笑顔で楽しそうに仕事に尽くしていた。

由利香との関係が終わったあと、智久は由美と付き合った。由利香のことは時に頭を過ったが、今まで以上に仕事に打ち込む由利香を見て、会社に感謝していた。

どうか、由利香が会社に認められて正社員になってくれますように…そんな無責任な願望をひっそりと思うほどであった。

だがその願望はあまりにも予想しなかった形で叶わないものとなった。由利香が仕事を辞めたのだ。

あまりのことに心配になった智久は、最近開くことのなかった由利香の連絡先をひらき、電話をかけた。

「もしもし、智さん?」たった一ヶ月もたっていないのに、なんだか懐かしい由利香の声は覇気がなかった。

「由利香お前なんで仕事やめたのよ。あんなに…」

あんなに…、好きだったのに、と言おうとして智久は黙った。

俺のことをあんなに慕って、好きだったのに、それを辞めたのは、俺のためだった。そう気がついて、声がでなくなった。

「智さん、ごめんね、あのね…」由利香はゆっくりと話した。

私も少しつらくなっちゃってね、バカだよね、でもね、大丈夫だよ、新しい仕事、決まったの、いいところよ、楽しみにしてるの、絶対ちゃんと毎日楽しく生きることを約束するから、智さんも、幸せでいてね?「あのね、ごめん、こんなこと言っちゃダメだよね、でもさ、最後の電話ってことでさ、あのさ、私、智さんのこと、本当に大好き。」


スーっとするメンソールの香りを感じながら、智久は由利香を思い出していた。

あれから随分たったが、最近、由利香がどこかの離島で仕事をしてるという噂を聞いた。

もしかして沖縄だったりして…いやいや、そんなわけないな、そうだったとしても、会えるわけはない、それに、会いたいのか会いたくないのかわからなかった。


もう一本吸おうとライターを握ると火がつかない。なんど擦ってみても、むなしくカチカチと音がするだけで、まったくダメになってしまったようであった。智久は咥えていた煙草を一度箱に戻すと近くのコンビニを探そうと周りを見渡した。

すると少し遠くに タバコ という看板を見つけた。残念ながらコンビニはないようだったが、充分すぎるその小さな店へ智久は歩き始めた。

中に入るとそこは何でも屋のようで、タバコがずらりと並び、カウンターの前には駄菓子と沖縄名産の菓子が申し訳程度に並べられており、その後ろの棚にはフルーツ、そしてトイレットペーパーなどがおいてあった。

レジ隣にならぶライターをとるが、レジには人がいない。「すみません。」カーテンでしきられた中に声をかける。


「はい、申し訳ございませんでし、た…」


カーテンを右手であげながら智久をみた女性の目が大きく見開かれた。

同じく智久も大きく目を見開いた。女性の胸元にあるネームタグに目がとまる。


有水 由利香


「由利香。」

智久はもっていたライターをカウンターにおくと、もう一度名前を呼んだ。「由利香、だよね。」

口が閉じないままの由利香はこくりとうなずいた。

そしてカウンターにおかれたライターをみて、そそくさとカウンターに近づくと一度うつむき、口を閉じたあとまっすぐ智久をみた。


「申し訳ございません、お待たせしました、105円頂戴いたします。」


智久はたんたんと業務をすすめようとする由利香にあっけにとられつつも、無意識に財布を開き、ぴったりの金額をカウンターに静かにおいた。


「由利香、元気だった?」自分でもあまりよくない質問をしたなと思いつつも、口は勝手にそんなことを聞いていた。

「ううん」「え?」

「って言ったらびっくりするかな…うそ、元気だったよ。智さんは?」

「あぁ、やめてよ、まぁね、俺は相変わらずだよ。

「そっか…。」「うん。」

元気だったと言った由利香は昔のような花がないように見えた。化粧っけもなく、プリントのうすくなったティーシャツに安そうなジーパンを履いていた。


「由利香、俺は、結婚するよ。」


少し驚いたように顔をあげた由利香の顔がパッと笑顔になった。

「そ、…そうなんだね…!わたし、」ぽろぽろと我慢していたかのような涙が由利香の目から溢れていく「わたし、今の聞いてとっても幸せよ、ずっと」涙を拭いながら笑う由利香の顔は昔と変わらない。「智さんの幸せを願って生きていたんだもん。」

込み上げるものを感じながらも智久はライターをポケットにしまった。

「…ありがとう、ありがとね…いやほんとびっくりしてて、なんて言えばいいか何を話せばいいか」智久が言葉につまると由利香が口を開いた。



「…タバコは?」



「え?」顔をあげると由利香がセブンスターを持ちながらこちらを見ていた。


「ああ…うん、もらう、もらおうかな、セッタじゃなくて、アメリカンスピリッツのライトメンソールを。」


由利香がふわりと笑った。

これからも智久は、この銘柄を変えないだろう。



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