第5話 常夜

 地上は闇に包まれていた。

 もう朝だというのに天に日輪はなく、わずかに白い輪郭だけが、暗い空に残像のように浮かんでいる。


 館の外に出て、保食神うけもちのかみが空を見上げている。月読はそのそばに乱暴に降り立った。土埃が舞い上がる。

「月読さま、これはどういう……。日が蝕まれてしまっては、作物が。里芋も瓜も、よく育っておりましたのに」

 泣きそうな声をあげる保食神うけもちのかみの唇を自分の口でふさぎ、月読は痩せてしまった彼女の体を両腕で包み込んだ。


「姉上はもういない。吾が、天を治める。そなたのことも、誰にも指図させない」

 肩と膝の後ろに手を回して抱き上げる。その重さや匂いや感触こそが、この世でただひとつの確かなものに思えた。

「もう無理をして新しい作物を産まずともよい。ゆっくり休んでいいのだ。これからは、暦を読み、ともに作物を育てていこう」


 抱き上げたまま館へ入り、褥に横たえると、月読は保食神うけもちのかみの胸に顔をうずめた。たかぶりをすべてぶつけるかのように、彼女の海に溺れる。吸いつく感触に我を忘れ、自分と相手の境目が溶け合ってひとつになる快楽に身をゆだねた。

 頭の中が真っ白になったまま目を閉じると、月読はそのまま深い眠りに落ちていった。


 女のえずく声で目が覚めた。

 苦しげなうめき声。いつも身を切られるような思いで聞いていた、保食神うけもちのかみが作物を産むときの声だ。


「もう、作物を産まずともよいのだぞ。ゆるりと……」

 隣で寝ているはずの女へと手を伸ばしたが、ぬくもりが褥に残っているだけで、彼女はいない。目を開けて頭をもたげると、床に座り込んでいる保食神うけもちのかみの背中が、灯明に浮かび上がった。

「どうした、気分でも」

 起きあがって肩を抱こうとして、月読は息を呑んだ。


 保食神うけもちのかみが、自らの腹に刀を突き立て、一文字に切っていた。裂けた傷口から、臓物がこぼれだしている。


「なぜだ!」

 月読は血塗れた手から剣を奪い、放り出した。自分が佩いていた剣だ。

 保食神うけもちのかみがよろめいて前のめりになると、緋色の臓腑がずるりと出た。彼女を床に横たえ、はみ出たものを腹に納めようと試みる。が、中にあったはずなのに、どうしても入ってくれない。


 いくら神とはいえ、こんな状態では死んでしまう。うろたえながら、保食神うけもちのかみの顔をのぞき込む。青ざめ、唇はわななき、浅い息をせわしなく繰り返している。

「なぜだ。もう、そなたを苛むものはいないのに」

 涙が、彼女の頬に落ちた。目を剥いていた保食神うけもちのかみの瞳に、焦点が戻る。まっすぐに月読を見据え、彼女は言った。


「吾を、切り刻んでくださいませ」


 床に投げ捨てた剣が目に入る。血を吸って、赤くてらてらと光っている。

「吾の体からは、新たな作物がとれます。細かく切り刻めば、たくさんの種となりましょう」

「そんなことをせずとも」

「太陽が隠れてしまっては、作物は育ちません。葦原中国あしはらのなかつくには死に絶えるでしょう。それは、食物を司る吾にとっても、死と同じこと」


 力の抜けていく彼女の手を、月読は握りしめた。

「……天照大御神あまてらすおおみかみさまをお隠しになるのはやめてください。お詫びして、天にお戻りいただいてくださいませ。吾の種を持って行けば、お咎めもましになりましょう」

 力が抜けて垂れ下がる天照大御神あまてらすおおみかみの首の感触が、両手の指先によみがえる。

 確かに息の根を止めたと思ったが、姉はまだ生きているのだろうか。空にある太陽は、月の陰に隠されてはいるが、消え入りそうに細い輪郭を残している。


 うめき声をあげ、また保食神うけもちのかみの息が荒くなった。

「苦しゅうございます。どのみち吾は助かりますまい。早く楽にしてくださいませ」

 裂けた腹から、ごぼりと音がして血が流れた。

「いやだ。そなたのいない世など、生きる価値も守る意味もない」


 眉根を寄せたまま、保食神うけもちのかみが笑顔を作ろうとする。

「あなたさまは、天を統べる貴神なのですよ。……作物が――吾の分身がよく育つよう、民に暦を教えてくださいませ。月神である、月読さまにしかできません」

 保食神うけもちのかみの声が、だんだん弱く、小さくなる。


葦原中国あしはらのなかつくにが豊かな国になりましたら、吾はまた御食みけの神として生まれ出るでしょう。そのときこそ……」

 冷たくなっていく手をかたく握る。少しでも彼女を留めておくために。

「ああ、そのときこそ」


 かすかに微笑むと、保食神うけもちのかみの頬から力が抜けた。握った手も、もう反応がない。

 ぬくもりの失われていく体を抱きしめて、月読は泣き続けた。暗い昼が終わって夜が来ても、月は空に昇らなかった。

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