第4話 日蝕

 よりにもよって神聖な忌服屋いみはたやで、姉と弟がまぐわっているとは。

 月読の頭の中で、光がはぜた。

 両手で力いっぱい扉を押す。しかし、中からかんぬきがかけられていて、開けることができない。月読は何度か体当たりした後、戸を蹴破った。蝶番の外れた扉が、閂ごと床になぎ倒されて、けたたましい音を立てる。


 慌てて衣をはおった姉が、部屋の奥へ逃げる。裸のままの素戔嗚すさのおが素早く剣を取り、こちらへ身構えたが、驚いたように声をあげた。

「兄上?」

 月読は腰に佩いていた剣を抜き、刀身を弟へ向けた。

素戔嗚すさのお、汝はそこまで痴れ者だったのか。天を統べる神、しかも実の姉に」

 弟が剣を下ろして首を振る。

「違う! これは姉上が」


素戔嗚すさのお!」

 奥から、天照大御神あまてらすおおみかみの鋭い声が飛ぶ。

「出ておいき! 早く!」

 素戔嗚すさのおは剣を右手に持ったまま衣をかき集め、扉がはずれた入り口へと後ずさり、何も言わず逃げていった。


 吐き出せない怒りをため込んだまま、月読は剣を手に、姉の方へ向かった。

「ああ、月読!」

 乱れた髪と衣のまま座り込んでいた天照大御神あまてらすおおみかみが、こちらを向く。

「汝が来てくれて助かった。素戔嗚すさのおが無理やり……吾は怖くてどうすることもできなかったのだ」


 しらじらしい。冷ややかに見下ろしたまま、姉に近づく。

素戔嗚すさのおは高天原から追放する。吾にこのような乱暴を働くなど」

 上目づかいに姉が見上げてくる。そういうことにしろ、という恣意に満ち溢れている。


 荒くれ者の素戔嗚すさのおをかわいがっておいて、自分の不利になればあっさりと切り捨てるのか。月読の心は、さらに凍りついた。

 いや、前から知っていたことではないか。姉の計算高さ、狡猾さは。他の者が逆らえないとわかって、自分の手は汚さず無理難題をけしかける。

 保食神うけもちのかみのこともそうだ。一日一種を献上させずとも十分やっていけるのに、あれはわざとなのだ。同じく天を治める月を牽制し、日輪の下に置くために。そしていずれは、保食神うけもちのかみから無理やり種を取るのだろう。自分で産みだせないとなれば、押さえつけて指を切り、肉を削いで。


 剣を持つ手が震えた。迷いを振り払うように、柄を握りなおす。

 そんなことはさせない。保食神うけもちのかみは、吾が守る。


「剣をしまっておくれ。本当に、汝には感謝している。吾が弟よ」

 立ちあがった天照大御神あまてらすおおみかみが、威厳の中に媚びを含んだ微笑みを投げかける。

 自らの恥を曝されてなお、平気でそのような顔ができる姉に、月読の嫌悪は膨れ上がった。

 ふくよかだった保食神うけもちのかみが、あばら骨が浮くほど無理をして作物を産みだしているというのに、実の弟と享楽に溺れ、それすらも誤魔化そうとしている。心が凍てつきすぎて、全身の肉がその冷たさで裂け、血を流しているような気がした。


 右手に持った剣を、わざとらしく天照大御神あまてらすおおみかみの前に向けてから、鞘に戻す。びくりとした姉が、安堵のため息をもらした。

「このことは内密に。あんな男でも弟、広く名を貶める必要はないであろう」

 立ちあがった天照大御神あまてらすおおみかみが、髪を撫でつけて衣を整える。

 よくもぬけぬけと。わかっていても自分には逆らわないと見くびっているのか。月読は拳を握りしめた。

「さあ、もう夜が明ける。日を昇らせなければ」


 ――天にあるのは日輪だけではない。父・伊弉諾尊いざなぎのみことは吾にも、天のことを治めよと命じてくれた。


 外へ向かおうとする姉が、こちらを一瞥もせず目の前を通り過ぎる。濃縮した体液のにおいがした。

「姉上」

 低い声で呼び止める。姉が歩みを止め、怪訝そうに振り向いた。凍りついているはずの胸の中に、激しい衝動が吹き荒れる。


 ゆっくりと近寄る。警戒すらしていない天照大御神あまてらすおおみかみの首に、月読はすばやく両手を回し、一気に締め上げた。


 驚いた姉が目を見開き、何か言おうとしている。が、それはうめき声になるばかりで言葉をなさない。喉がひくひくと動くのが、生々しく指に伝わる。顎の下のやわらかな部分に手が食い込む。もう少し力を入れれば、あっけなく折れてしまいそうだ。こんなにもろい女一人を、今まで畏れ従ってきたとは。


 手の甲に爪を立てられたが、くすぐったいばかりで痛くもない。

 足の力が抜けたのか、姉が崩れ落ちていく。月読は首を絞めたまま床に押し倒し、上から体重をかけた。赤く上気していた姉の顔が、黒く濁り始めた。この世の誰よりも美しく威厳に満ちた顔が、醜く光を失っていくのを見て、月読は息を荒くしてさらに力を込めた。


 姉の首から力が抜けた。

 白目を剥き、開いた口から泡のような唾液が流れている。


 内側から突き上げてくる衝動を抑えきれず、月読は叫んだ。一度では足りず、何度も声を張り上げる。

 保食神うけもちのかみの顔が浮かんだ。強く抱きしめたいと思った。

 月読は、横たわる天照大御神あまてらすおおみかみの脱け殻に背を向け、走って棟を出た。後ろの方で侍女たちの悲鳴が聞こえたが、そんなことはどうでもよかった。


 高天原から飛び降りるようにして、地上を、保食神うけもちのかみがいる葦原中国あしはらのなかつくにを目指した。むさぼるように抱きしめ、何もかも忘れて溶け合いたいと思った。

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