第2話 天照大御神(あまてらすおおみかみ)

「今日はこれだけか」


 天照大御神あまてらすおおみかみは袋の中身を取り出し、不機嫌そうに言い放った。

 美しい顔に曇りが差す。野菜が三種と枇杷、これだけでも、保食神うけもちのかみにはかなりの負担がかかっているのに。

「あの女、出し渋っているのではないか? 新たな食物を作れるのが自分だけだからといって」


保食神うけもちのかみは、そのような神ではありませぬ」

 思わず言い返す。

 姉の眉間に皺が寄った。彼女は、自分の意に反することを言われたりされたりするのが大嫌いなのだ。月読は慌ててつくろった。

「天から来た我らに、嫌な顔ひとつせず、快く食物をわけてくれております。作物を産みだすのは、かなり負担のかかる行為。そう無理強いしては……」


保食神うけもちのかみは、元はと言えば父・伊弉諾尊いざなぎのみことの伴侶が死の間際に産んだ農業神の子孫、つまり我らと同族。遠慮はいらぬ。それに、多くの民の腹を満たして国を豊かにするためには、一柱の神の犠牲くらい仕方ないではないか」

 輝くような肌と大きな瞳がこちらを見ている。有無を言わせぬ力に、ぞくりとした。なぜかくも美しい顔で、残酷なことをさらりと言えるのか。

 しかし世界は、この日輪を中心に回っている。逆らう者は、光と熱に焼かれてしまう。


「……もう少し多く食物を献上するよう、葦原中国あしはらのなかつくにに出向いて掛け合いますので」

 感情を押し殺した声で、平伏する。

「いや、それでは生ぬるい。保食神うけもちのかみを高天原に住まわせよ。そして、毎日一種、食物を献上させるのだ」


 月読は顔をあげて天照大御神あまてらすおおみかみを見据えた。

「それはあんまりでございます。せめて二日に一種」

「月読。……いまし保食神うけもちのかみに惚れたか」


 姉がこちらを凝視している。整いすぎた顔には表情がまったく浮かんでおらず、それがとてつもなく不気味で恐ろしい。言うことを聞かなければ、永遠にあの冷たい顔で責められるのだと思うと、骨の髄まで凍りつきそうだ。月読は再び額ずいた。

「いえ、そのようなことは。吾は、姉上の命に従い、作物を貰い受けに行っているだけです」

 衣擦れの音がした。袴の裾を翻しながら、姉がこちらへ歩いてくる。平伏した視界に、足の甲が見えた。


「月読。吾と保食神うけもちのかみと、どちらが美しいか」


 頭上から、凍てついた声が降ってくる。

 姉は、すべての神や人の心が自分に向いていないと気が済まないのだ。保食神うけもちのかみとのことを知られれば、彼女に危害を加えられかねない。

 ぽってりとした愛嬌のある顔が、脳裏に浮かぶ。性格と同じく控えめな目鼻立ち、すべてを包み込んでくれるふくよかな体。彼女を守らなくてはいけない。絶対に。


「もちろん、姉上でございます」


 月読は頭を下げ、天照大御神あまてらすおおみかみの足に額をつけた。

 無防備な後頭部に、細い指先が触れる。なでられているだけなのに、言い知れぬ圧力を感じる。

「かわいい弟よ。それならば、吾の言いつけを守ってくれるであろうな」

 背中を冷たい汗が流れる。

「……はい。保食神うけもちのかみのところへは、吾が毎夜出向きます。そして、新たな食物を……」


 月読のみずら髪をもてあそんでいた天照大御神あまてらすおおみかみが、耳元に顔を近づけて匂いを嗅ぎ、含みを込めた声で言った。

「いつもと違う結い方をしているのだな」

 耳が熱くなり、体の動かし方を忘れたように四肢が硬直する。それなのに、歯の付け根が合わず、カタカタと音を立てている。


 姉上は気づいている。


 天照大御神あまてらすおおみかみの足の甲に、月読はただただ額ずいた。

「毎日一種だ。できなければ、保食神うけもちのかみを高天原の吾のもとに置く」

 右側のみずらをほどき、はらはらと髪を落とすと、天照大御神あまてらすおおみかみは軽く足をあげて月読の額を離し、踵を返して去っていった。


 しばし床に膝を折ったまま、月読は頭を抱えた。

 一日一種では、保食神うけもちのかみの体がもたないだろう。既にある種をたくさん育て、実をならせることで、神々への御饌みけや民の食事をまかなう。自分にできることはそれくらいしかないし、以前からそうしてきた。


 毎晩夜空に出て、月の満ち欠けにより暦を教える。種を蒔いたり実を収穫したりする時期を、月読は欠かさず万民に知らせてきた。少しでも多くの農作物がとれるように。彼女の負担が減るように。


 姉上はそれでも不満だとおっしゃるのか。

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