月読(つくよみ)

芦原瑞祥

第1話 保食神(うけもちのかみ)

月読つくよみさま、そろそろ夜が明けます」


 褥から出ようとする保食神うけもちのかみの腰に腕を巻き付けて制し、月読はそのふくよかな胸に顔をうずめた。

「そなたといると夜が短い。いま少し、共寝したいものを」

 ぬくもりと匂いをむさぼるように息をし、白い肌を唇で吸う。紅い筋が花びらのように散った。

天照大御神あまてらすおおみかみさまに見つかってしまいますよ」

 喘ぎ声をたてつつも、保食神うけもちのかみは起き上がり、寝乱れた髪を直しながら灯明をつけ、朝の支度を始めた。

 姉の名を出されると、弱い。月読もしぶしぶ褥を出て、青白い体に衣をまとった。


 天照大御神あまてらすおおみかみは、太陽を司る最高神だ。

 父である伊弉諾尊いざなきのみことからは、「月読尊は、日と並んで天のことを治めよ」と命ぜられたが、実質この世を支配しているのはもっぱら太陽神である。月読は、日が出ていない夜の世界を治めるのみだ。


 保食神うけもちのかみが、顔を洗う水を器に入れて持ってきてくれる。逢瀬のまどろみが、冷たい水に洗い流されていく。顔を拭いていると、彼女が後ろから髪を梳いてくれた。

「漆黒の夜のような、美しい髪ですこと」

 みずらに結ってくれる、その指の動きが心地いい。

「しかし、皆は吾のことを暗いと言う。暗くて、冷たい、と」


 ツクヨミの名には、黄泉よみが入っている。夜の世界は黄泉とつながり、死者との境界があいまいになる。そのため民は夜を、ひいては月読を恐れるようになった。

「それは、月読さまがあまりに美しいからですわ。美しすぎると、人は畏れるものです」

「吾は美しくない。青白く怜悧な顔つきで、ぎすぎす痩せて、誰もが崇める姉上の威厳に満ちた華やかさとは大違いだ」


 保食神うけもちのかみが後ろから手を回し、月読を抱きしめる。

「吾にとっては、月読さまがこの世でいちばんの美神です。この御体を、吾の産みだすでもっと太やかにして差し上げたい」


 保食神うけもちのかみは、食べ物を司る女神だ。新種の食物は、彼女の体からしかとれない。

 だから、天照大御神あまてらすおおみかみは弟に命じて、保食神うけもちのかみに食物を献上させている。もちろん、月読と彼女との関係は秘密だ。

 朝餉を用意しようとするのを「食欲がない」と断り、姉に献上する食物が入った袋を持って高天原たかまがはらへ帰ろうとする。


「また来る。日の出ていない夜の間に」


 保食神うけもちのかみを抱きしめる。やわらかな肉の感触に、骨ばった自分の体が包み込まれ、このまますべてを預けてしまいたくなる。赤く小さな唇に口づけしようとすると、「待って」と彼女が後ろを向いてえずいた。

 うっ、という呻きとともに、彼女が何かを吐き出し、手で受け止めた。それは、橙色をした手のひらほどの大きさの実だった。


「朝餉を召し上がらないのでしたら、これを。月読さまは果物がお好きだから」

 生温かさの残る果実を手渡される。

 保食神うけもちのかみが新たな食物を産むには、口や尻から出す方法が取られる。最初は面食らったが、今は穢いと感じない。抱き合っているときに醸される彼女の美酒を、あまさず飲み干したいとさえ思う。


「これは、新たな果実だな。……枇杷びわと名付けよう。中に種がある。姉上に献上しなくては」

 橙色の実を検分しながら言うと、保食神うけもちのかみが拗ねたように衣の裾を引っ張った。

「吾は、月読さまのために産みましたのに」


 力ない声でうつむいているのは、がっかりしたせいばかりではないだろう。

 新種の食物を産むのは、簡単なことではない。

 詳しくはわからないが、彼女の身を削っていることは確かだ。負担をかけたくないので、七日に三種までにしているが、天照大御神あまてらすおおみかみは、もっとたくさんの食物を出すよう命じてくる。その狭間で、月読は神経をすり減らしていた。


「さあ、日が昇ってしまいますよ」

 保食神うけもちのかみが送り出してくれる。名残惜しさをおして、天上にある高天原へと向かう。

 地上を見下ろすと、彼女がいる葦原中国あしはらのなかつくにが広がっている。父・伊弉諾尊いざなぎのみことが作った国だ。天と地は遠い。もっと頻繁に通えればいいのに、と袋に入った作物の重みを感じながら、月読は思った。

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