私の目を見ないで下さい

五月

短編 私の目を見ないで下さい 

 電車に揺られていた花宮綾香は、向かいに座っているスーツ姿の男性と、思わず目が合った。咄嗟に目を逸らしたが、遅かった。

「……っ」

 嫌なものが、綾香の脳裏を走馬燈のように掠めていく。

 綾香の視界を覆うようにして現れたのは、いくつもの場面写のようなもの――おそらく、今目が合った男性の過去だ。

 彼が今まで経験してきた辛い過去。名も知らない彼の全てが一瞬のうちに頭の中に流れ込んできて、パンクしそうになる。時間にすればおそらく10 秒程度。すぐに視界は元に戻る。

 ぱちくりと瞬きして、ようやく自分の思考が元に戻ったのだと理解する。

「はぁ……」

 首筋を冷汗が伝う。動悸は激しくて、身体は熱いのに手先は冷たい。頭も少しくらくらする。

 彼の過去は、『いつもの』よりも少しばかり重かった。しばらく頭がくらくらしそうだ。

『次は終点藤沢、藤沢です。お降りの方は――』

 おぼろげな感覚の中だったが、電車のアナウンスが耳に入る。

 ゆっくりと減速していった電車が、空気が抜けるような音と共に停車する。すぐにドアが開き、綾香は人の流れに沿って下りていく。下を向いたままなので、多少危ないな、と思いながらも、決して上を向かなかった。

 ――人と目を合わせてはいけないから。

 ひと月ほど前からだ。

 目が合ったら、その人の過去が頭に流れ込んでくるようになった。それもただの過去ではない。『辛い過去』が綾香を襲うのだ。

 最初は気の迷いかと思った。丁度その時、綾香にはストレスフルな出来事があって、疲れているのだろうと思っていた。

 しかしこの現象は全く治る気配が無かった。

 こんな不可思議な現象で病院に行くわけにもいかない。

 自分で調べても出てくるのは変なオカルト話だけ。

 正直、手詰まりだった。

 そんな事を考えながら、駅の構内を歩く。下を向きながらも人とぶつからないようにしてゆっくり歩いていた――はずだったが。

 どん、と後ろから誰かとぶつかってしまった。

「きゃ」

 自分の足元しか見ていなかった綾香は、バランスを崩して前へ倒れてしまう。

 咄嗟に腕で受け身を取ったが、かなりの衝撃だった。

 後ろを振り向く。どうやら男の人とぶつかってしまったようだが、急いでいたようで、人混みにすぐに消えていく。

「最悪……」

 なんで私がこんな変な現象に巻き込まれなきゃいけなんだろうか……。一人で座り込みながら、泣きそうになってしまうのをこらえ、立ち上がろうとした。

「あの……大丈夫ですか?」

 すると、後ろから声が掛けられる。座り込んだまま中々立たないので心配してくれたのだろうか、と思いながら、綾香は振り向く。

「あ」

 ぱっと見だが、たぶん、男子高校生。

 すこし気の抜けたような彼の目と私の目が合う。

 案の定、視界が暗転し彼の過去が頭を過る。そして綾香は衝撃を受けた。断片的ではあるが、これは――何だろう?

 携帯のメッセージを見ただけで体に傷がつく少女。世界から認識されなくなった人。他にも……。

 普通では考えられないようなシーンがいくつも脳裏を掠める。

 苦悩。苦渋。絶望。挫折。迷い。

 今までの比ではないくらいの『負』が綾香を襲った。

「うぇ」

 驚きと同時に胃が暴れだす。かあっと喉が熱くなって、今にも吐きそうだった。綾香は咄嗟に右手で口を押える。

「だ、大丈夫か? なんなら救急車――」

 綾香の様子を見て焦りだす男の子を、左手で止める。

 ゆっくり深呼吸してから、綾香は口を開く。

「だ、大丈夫です」

「ほんとうか」

「はい」

「大丈夫じゃないやつは、だいたいそう言うんだぞ」

「はは……大丈夫、なんですけど、一つ、お願いしていいですか」

 男の子は少し驚いた様子だったが、小さく頷く。

「僕にできることなら」

「じゃあ――」

 綾香は、一拍空けてから、

「少し、お話いいですか」と言った。

 これじゃあなんかナンパみたいだな――と綾香は少し思った。


 綾香のお願いに男の子は少し驚いた様子だったが、素直に頷いてくれた。近くにバイト先のファミレスがある、という事でそこへ向かっている。

 軽く自己紹介したところ、彼の名は、梓川咲太というらしい。

 名前がわかったところで、咲太にまだ自分の現状をどう伝えていいかわからない。急に「私、目があったら人の辛い過去が見えるんですけど」なんて言っても信じてもらえるだろうか。

 普通の人なら、まず信じてくれないだろう。

 けれど、さっき見た咲太の過去。もしかしたら私が見たものの方が間違っているかもしれない。そう思いながらも、綾香は期待してしまっていた。

「ついた」

 そうこう考えているうちに、ついたらしい。視線を上げると、どこにでもありそうな普通のファミレスが建っていた。

 咲太についていくようにして綾香も店の中に入る。

「今日は、古賀も国見もシフトなかったか」

 そんな事を呟いていた咲太に促され、綾香は腰を席に下ろす。

 一瞬沈黙が訪れたが、先に綾香が口を開く。

「急にごめんなさい……変な話だけど相談、があって」

「変な話には慣れてるから、大丈夫」

「慣れてるんですか?」

「まぁね」

「い、一応、まじめな話なんですけど――」


***


 咲太は、綾香の話を一通り聞いた。

 思春期症候群、なのだろうか。根拠は無いが、そもそも思春期症候群に根拠なんて考えても無駄だ。

 どうやら綾香は、咲太の過去を見た時に、楓の事や麻衣さんの事を断片的に見たらしい。それで、もしかしたら僕が不思議な現象について知っているのではないかと思って声を掛けた。

 さて、どうするか――。

 悩んだが、答えは一つしか浮かばなかった。

「あの。ちょっとこういう話に詳しい友達がいるから、相談してみていい?」

「はい、もちろん。というか、そんな友人がいるんですね」

「まぁね。少し変わっているけど。それで……電話したいから、携帯、借りてもいいかな?」

「携帯、忘れたんですか?」

「そんなところです」

 ここであえて持っていないと言う必要もないだろう、と咲太は適当に返事をしながら、慣れない手つきでキーパッドを押していく。

 幸いにも、1コールで繋がった。

「もしもし、僕だ、梓川」

「切る」

 出て早々辛辣な答えを返してきたのは、咲太の数少ない友達の一人、双葉理央だ。

「まぁまぁ」

「……はぁ。それで、どんなトラブルに巻き込まれたの?」

「さすが、話がはやいね」

「梓川が私に電話をかけてくる時は、だいたいは面倒事の相談」

 咲太は苦笑いを浮かべる。

「相談、というか意見を聞きたい――」

 と、前置きして、咲太は理央に綾香の現状を簡単に説明した。


「なるほど。つまりは、人の辛い過去が見えてしまうと」

「そういう事らしい」

「梓川は本当にトラブルに巻き込まれるね」

 軽い溜息をつきながらも、理央は言葉を続ける。

「前に、思春期症候群はその人の不安定な精神状態が影響しているかもって言ったよね」

「ああ」

「だから、それを取り除けば良い」

「前にも聞いた気がする」

「そこから先は個人の問題だからね……ただ」

「ただ?」

「その子と桜島先輩を合わせてみれば? もちろん、梓川も一緒に」

「え……なんでだ?」

「まぁ、あくまで可能性の話なんだけど。とりあえずアドバイスはしたよ。じゃあ」

 言うだけ言って、理央は電話を切ってしまった。

「なんだよ……」

 と、咲太は相手のいない電話に軽く毒づく。

「どうだったんですか? 会話だけじゃあ、よくわからなかったんですけど」

「そうだなぁ。とりあえず、ヒントはもらった、かな?」

「なるほど……」

「とりあえず、もう一人、電話をかけてみる」

 綾香は疑問の表情を浮かべているが、「はぁ」としか答えなかった。


***


 数十分後。

「来た」

 そう言って、咲太は軽く立ち上がり入口の方に向かって手を挙げた。綾香もそちらに視線を向けて――思わず、目を剥いた。

「ってええ⁉ 桜島麻衣!」

 桜島麻衣。一時は活動を休止していたが、芸能界に復帰するやいなや大活躍を見せている女優さんだ。

 そんな人が、どうしてここに? と疑問に思っているうちに、麻衣はこちらに来ていた。

「あ……」

 綾香と麻衣の目が合う。麻衣の存在自体に気を取られ過ぎて、油断していた。

「……っ」

 また、いくつもの場面写が、綾香の頭を走馬燈のように駆け巡る。麻衣は麻衣で大変な思いをしているので、その内容もなかなか重かった。しかし綾香も先程の咲太で慣れてきたのか、多少呼吸が乱れる程度で済んだ。

 そんな綾香を見て麻衣が心配そうな顔をする。

「この子、調子悪そうだけど、大丈夫?」

「たぶん、麻衣さんの辛い過去を見ているところだと思います」

「辛い過去……?」

 麻衣は考えるような素振りを見せたが、すぐに咲太の方を向いた。

「どうして咲太って、こんなにも巻き込まれ体質なのかしら」

「さっき、理央にも言われました」

「ふーん。私より先に双葉さんに連絡したんだ」

「いやそれは……」

 さりげなく隣に座った麻衣とテンポよく会話する咲太を見て綾香が口をぽかんと開けていると、咲太がそれに気づく。

「この人は知ってると思うけど、桜島麻衣さん。一応、僕の彼女です」

「桜島麻衣です。一応、この男の子の彼女です」

 彼女? 彼女って、恋人のことだろうか……。何かの間違いじゃないか――と考えて、思い出す。ついこの前、桜島麻衣に恋人が発覚したこと、そして相手がごく普通の男の子だという事がついこの前、ワイドショーで放送されていた。

「あ、噂の……桜島麻衣の彼氏さん」

「噂なのか、僕」

「まぁ、私の彼氏だしね」

「麻衣さんのそういう自分を過大評価も過小評価もしないところ、好きです」

「人の前で好きとか言わないの」

 ぎゅ、っと麻衣は自分の足で咲太の足を軽く踏んだ。

「痛い痛い」

「嫌いじゃないんでしょ」

「人の前ではどうかと思うけどなぁ」

 あぁ、本当に付き合っているんだ、この2人。

「あ……」

 と、2人を見て気づいた。

 もしかして私は、自分よりも辛い思いをしている人を、見たかった?

 先日。私は、一つ辛い出来事があった。人生で最大級の、とびきり辛い出来事だった。それは、ただのストレスにしかなっていないと思っていたけど、もしかしたら原因は……。

 自分の性格の悪さに思わず綾香は苦笑いを浮かべる。

 そして、そんな私よりも辛い思いをしているはずの2人は、とても幸せそうに笑っている。

 もしかしたら私は――。

「あ、あのっ」

 突然立ち上がった綾香に、咲太と麻衣は驚く。

「すいません、たぶんですけど、解決しました!」

「は……?」

「あ、あの。なんかもう。自分で自分が恥ずかしすぎるので、帰りますね!」

 綾香はそう言うと、机にお代だけを置いて小走りで店を出ていった。

「な、なんだったんだ?」

 咲太のつぶやきは、綾香にはもう届かなかった。


***


「どうして、麻衣さんに会わせたら解決するって思ったんだ?」

「人の辛い過去が見える――って、よく考えたらおかしいんだよ」

「おかしい? 何が?」

「梓川にだって、辛い過去があるよね?」

「そりゃあ、もちろん」

 昔だって今だって、辛い事だらけだ。

「けれど、今は?」

「まぁ幸せかな」

 そこまで言って、咲太は察する。

 咲太の過去が辛くなければ、麻衣にも、古賀にも、理央にも、国見にも会えていない事になる。

「そう、幸せさと辛さは共存してる。たぶん、あの子は辛い過去だけを見ていたんじゃない。人の過去から辛いところだけを摘まんで見ていた」

「なるほど」

「思春期症候群は、成長段階の小さな綻びの結晶。ほんの少し視点を変えてあげられれば、もしかしたらって思ったんだよ」

「なんか文系の少女みたいな分析だな」

「……理系なんだけど」

「知ってる。ありがと、理央」

 これ以上言うと怒られそうだったので、電話を切った。

「終わったみたいね」

 スマホを下した咲太を見て、麻衣が言う。

「はい。結局、あの子の問題が解決したかはわからないですけど」

「してたんじゃない?」

「どうしてそう思うんですか」

「勘」

「麻衣さんの勘は当たるからなぁ」

 麻衣の勘は本当に怖い位に当たるときがある。

「そんな事より。私を呼び出しておいて、これで終わりなの?」

「まさか。可愛い彼女とせっかくだからもう少し居たいなぁと」

「……買い物。ついでだから荷物持ちをしなさい」

「カレーが良いな」

「咲太に作ってあげるなんて言っていないけど」

「えー」

「楓ちゃんが、ハンバーグが良いって言ってたわね」

 結局咲太の家でご飯を作ってくれるらしい。

 麻衣さん今日機嫌良いな、と咲太は思ったが口には出さなかった。

「じゃあ、ハンバーグで」


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