第384話 カルネアデスの板

「走るの好きなんですか?」

 揺れるアドナの中を慎重に、しかし可能な限り急いで駆け抜けている最中、ワスティが場所もわきまえずに問いかけてきた。答える義務もないしこの大変な時に相手をしている余裕もないはずなのに、疲れのせいか口が勝手に答えてしまった。

「は? なんで?!」

「だって、アスカロンの皆さんにお会いすると、いつも走ってばっかですから。こういう、何かに追われながら命がけで走るの好きなのかなって」

「そんなわけないでしょう! 誰がこんな命がけのマラソン好き好んでするってのよ!」

「でも団長、その割には僕たちは走ってばっかりです!」

 横からムトが反論した。

「森に入れば追われ、砂漠に行けば追われ、山に登れば追われ、海に出れば追われ、ついに空でも追われています。否定したくても、過去の戦歴が証明してしまっています! 説得力は皆無かと!」

 思い返せばインフェルナム以来、ずっと追いかけ回されてる自覚はある。

 敵兵から逃げるのは言うに及ばず、化け物の種類だけでもかなりある。ペルグラヌス、スライム、サルトゥス・ドゥメイ、ラーミナ、スコルピウス、アラーネア、最近ならマキーナ、ゾンビ、そして今回のレギオーカとトスナーだ。流砂に火山など、自然にもひどい目に遭わされてきた。

「逃げるだけなら、最強の傭兵団を名乗れそうね」

「謙遜しなくていいですよ」

 私の自嘲に、ワスティは言った。

「私もこれまで色んな国を渡り歩いて、色んな傭兵団を見てきましたが、あなた方を超える戦歴の傭兵団はそうはいないんじゃないかな。だから、もっと誇った方が良いと思います。それに、今日で唯一、という言葉が頭につくでしょう。なんせ、空を飛ぶ古代兵器を破壊した傭兵団は、アスカロンだけになりますから」

「破壊したのは、あのマッドサイエンティストの欲望と狂気だけどね!」

「楽しそうなとこ悪いが、見えたぞ!」

 テーバが指差した方向に、天から差し込む光の柱が見えた。アドナの甲板を剥がして侵入した場所だ。

「ゲオーロ君、先に行ってラルスの準備を!」

「了解です!」

 先に彼を行かせ、立ち止まる。

「司祭! 大丈夫?!」

 後方でよたよたしているファナティに声をかける。

「打ち上げられた魚みたいな顔してるが生きてるよ!」

 ファナティを支えていたジュールが代わりに答えた。声を出す元気もないようだ。

「もう少しで生きて帰れるから、それまで踏ん張って!」

 ゲオーロに続き、テーバ、ムト、ワスティと甲板に上がる。私も上がり、アレーナをファナティに伸ばして引き上げる。最後にジュールが甲板に上がった。

「準備できました。皆さん早く!」

 ゲオーロがラルスの運転席で叫んでいる。

「あの、今更ですけど、これどこに乗ればいいんですか?」

 本当に今更の事を、ワスティが尋ねた。テーバ、ムト、ジュールが笑顔でラルスの翼を指差した。

「え、ええと、翼以外何も、ほら、ゲオーロさんの座ってるような椅子とか、無いように見えますけど」

「大丈夫、ちゃんと固定してやるから」

「怖いのは最初と途中と最後だけです」

「天国が見えるぜ」

「・・・答えになってません。やだ、やめて、近づかないで」

「何やってんの! 時間ないんだから早く取り付けて!」

 もたもたしている四人のケツを叩く。彼女の後にファナティも取り付けなければならないのだから、急いでもらわないと全員の命に係わる。

 泣き喚くワスティを三人が連れて行き、暴れる彼女の手足を押さえ、翼にとりつける。

「司祭、行くわよ!」

「お、おお。神よ、そこにおわしたか」

 酸欠で幻覚を見ているのだろうか。なんとなく、いつもより顔がすっきりしている。騒がれないだけましだ。同じように翼に取り付けていく。

「皆、準備はできた!?」

「出来てます!」

 ワスティを取り付けたムトは、自分自身も翼に固定しながら言った。他の二人も固定が完了している。

「団長も早く!」

「わかってる。その前に、アンカーを外すわ!」

 ラルスをアドナにつなぎとめているアンカーに駆け寄る。アンカーには返しがついていて、外すには『はじき』と呼んでいる、返し部分を固定している箇所を外さなければならない。傘をたたむときに指で押すボタンの様なものだ。そうすることで固定されていた返しが緩み、畳まれる。

 いずれ操縦席から遠隔で出来るようにするのが課題だな、と考えていると、人の気配を感じた。既に全員が乗っているから、いるとするなら、敵だ。

 顔を上げ、武器を構える。

 そこにいたのはマルティヌスだった。

「私も、一緒に連れて行ってくれ!」

 耳を疑った。こいつは一体何を言っているのだ。

「正気?」

「ああ、正気だとも。私が悪かった。反省している。だからお願いだ。助けてくれ!」

「反省の意をしめされて、はいそうですかと受け入れると本気で思ってるの? あれだけのことをしでかしておいて」

「ま、まて。これは、貴様たちにとっても悪い話じゃない。私は神のしもべだ。その私を見捨てるのは、龍神教に反旗を翻すも同罪。リムスに住む百万の信徒が貴様らを許さんぞ。だが、私がいれば、口を利いてやれる。コンヒュム内での様々な特権を約束する。貴様にかかっている賞金も取り下げることができるぞ」

「そのコンヒュムのトップである教皇に喧嘩売ったのをお忘れ?」

「説明すれば、きっと教皇聖下もご理解いただけるはずだ。なぜなら私の行動は全て龍神教のために行っていたことだからな。敵対すると明言したわけではないし。それに、私ほど有能な人材をみすみす失うのはコンヒュムにとって大きな痛手となる」

 呆れて物も言えない、というのはまさにこのことだろう。

「そういえば、ここに来たのはお前だけ?」

 わかっていて、尋ねる。私の視線は、奴の服に付着した赤いしみを捉えている。

「ああ、私だけだ」

「指令室にいた、他の連中はどうしたの?」

「あいつらは、私を生かすために殉教者となった」

「なるほどね」

 私たちが少人数だったのは、ラルスで運び込める人数が決まっているからだと気づいたのだろう。だから、他の僧兵は殺したのだ。自分が乗れなくなるかもしれないから。自分だけが助かるために。

「おお、そこにおられるのは、マルティヌス司教か」

 掠れた声が風に乗って届いた。肩越しにちらと見れば、呼吸が整ったのか幾分顔色がましになったファナティが、横になった状態でちょっとよだれを垂らし、半分白目をむきながらこちらを向いていた。

「おお、ファナティ司祭! 君ならわかるだろう、私の有用さを! 君からも彼女に頼んでくれ! 同じ釜で炊いたパンを食った中ではないか! そのよしみで、どうか助命を!」

「マルティヌス司教。私は、神に出会いました」

「・・・は?」

 ファナティがマルティヌスの話を完全に無視して、語り始めた。白目むいてよだれ垂らしてちょっと危ない感じになっているのは、法悦という状態だからか?

「神はおっしゃいました。『私はマルティヌスを許そう』」

「おお、では」

「続けておっしゃいました。『だが、ファナティ。お前は許すのか?』」

「何だと?」

「私は神にお答えしました。『絶対許さん』」

「ふざけるな!」

 憤慨するマルティヌスを無視して、私はアンカーを外した。合図を出すと、ゲオーロがエンジンをかけた。ラルスは甲板の上を進み、上昇気流を受け、地上よりも短い距離と遅い速度で浮かんだ。ラルスにつられてするすると上っていく鎖を掴み、アンカーに足にかける。体が宙に浮く。

「ま、まて、待ってくれ。私も一緒に」

 必死でこっちに走ってくるマルティヌスに告げる。

「残念だけど、これ以上人を乗せるとこっちが危ないの。緊急避難ってやつね」

 まったく罪悪感を抱かないカルネアデスの板だ。

 マルティヌスが甲板上で転んだ。何かを叫んでいるが、風のせいで聞こえない。火の消えたアドナが、海に向かって落ちていく。

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