第356話 格闘は二先が基本

「無事か、ロガン」

 ムトが近づき、声をかける。ロガンは立ってはいるが、わき腹から血を流し、左腕はだらんと下げられたままだ。最初のアポスの一撃を受け止めた時、痛めたのだろうか。

「はっ、これくらいなんともねえ」

 右腕を掲げ、力こぶを作る。

 二人でエビぞりのまま倒れているアポスを見る。恐ろしい相手だった。一歩間違えれば倒されていたのはこちらだっただろうと、今更ながらにムトは身震いした。

「目的地はもうすぐだろ。さっさと行こうぜ」

「待て」

 地の底から這いあがる声が、階段に向かいかけた二人の足を縫い留めた。

「前言を、決めつけた評価を、撤回しよう」

 彼らが振り返った先で、エビぞりになっていたアポスが、倒されたときを逆再生するように立ち上がった。

「やるではないか若造。久しぶりに青天井を見上げたわ」

 肉食獣が牙をむくのに似た笑い方でアポスは親指を鼻の穴の片方に当て、フン、と荒くかんだ。塞いでいない方の鼻の穴からびちゃりと血の塊が飛び出す。

「嘘だろ。あれで立つのかよ」

 手応えがあった。アポスの額から流れる血が、ひび割れた地面が、その威力を物語っている。

「教皇の威を借る生意気な司教に顎で使われ、同盟相手の寝首を掻く気の進まない任務だったが、こういうところで楽しみが出来るものだ」

 ごりごりと首を回し、アポスはあろうことか鎧を外した。何キロあるのだろうか、鎧が重量感のある音を立てて落下し転がる。

「続きといこうか」

 徒手空拳で、左手を手刀の形に、右手を腰だめに、左半身を前に向けてアポスは構えた。

「槍無しでやろうってのか? 舐められたもんだぜ」

「舐めてはいない。この身が凶器と心得よ」

 ムトは思考を巡らせる。

 確実にダメージは残っているはずだ。重い鎧を脱ぎ捨てたのは体が万全ではない裏返しではないか。不死身の生き物など存在しない。

 しかし、それはこちらも同じ。自分は蹴り飛ばされた腹や内臓が痛むがまだ軽症、ロガンは左腕を痛め、わき腹から出血している。

 倒せるかもしれない。しかし、こちらの敗北が濃厚となる。ムトたちの勝利条件は団長たちを救出、合流後に島を脱出し、テオロクルムに現状を報告すること。対して、彼らは時間をかければ仲間が戻ってくる。同士討ちがいつ止むかもわからない状況でもある。仲違いが修復され、囲まれれば勝ち目はない。

「先に行け」

 構えたムトの前に手を伸ばし、ロガンが小声で告げた。

「これ以上時間かけられねえんだろ。ここは俺に任せてさっさと行けよ。俺は、このジジイをボコボコにして敗北を老体に叩き込んだらすぐに追いつく」

「ボコボコって」

 何故二人がかりで勝てるかどうかという相手を目の前にどうしてそんな楽観的なことが考えられるのか、と頭に過ぎり、いや、これは彼なりの時間稼ぎの意思表明なのだろうとその意をくみ取る。

「わかった。ここは任せる。後から必ず来い」

「おう。じゃあ」

 ロガンが大地を蹴った。アポスに向かって一直線に接近し、同時。アポスも一歩踏み込んだ。

「オラァ!」「ぬぅん!」

 ロガンの拳をアポスが前に突き出した左腕で受ける。受けた部分を支点に、腕をぐるりと、相手の腕をからめとるようにして回転させる。合わせて相手の足を回転と同じ方向へと払う。ロガンの体は宙に浮き、腕を中心として投げられ、地面に叩きつけられる。肺から空気が強制的に逃げ出した。

 過去に、彼らの団長アカリはリムスに投げ技はまだ無いと考えていた。それはある意味では正解であり、ある意味では間違っている。

 体系として存在はしていないが、個人の中には存在する。素手の対処として本能的、感覚的、もしくは経験的に投げ技、関節技を使用する人間がいる。これまで何十、何百人と対人戦闘を行ってきたアポスのような人種は、積み重ねられた経験から人体の動き方を把握しており、相手に対して自分がどう動けば倒せるか、無力化できるか理解しているのだ。

「っつ、今だムト!」

 ロガンが叫ぶ前に、すでにムトは動いている。彼の巨体がアポスの視界を防ぎ、一瞬ムトの姿が消える。当然連携を気にしていたアポスはロガンへの反撃は後回しにし、ムトの襲撃を警戒する。

 ムトは発見した。しかし、警戒は徒労に終わる。アポスの頭上を、ムトは魔道具アレーナの伸縮性能を用いて跳び越えていく。

「どこ見てやがる!」

 視線をさ迷わせ、ムトの方へ向きかけたアポスの胴に立ち上がったロガンがタックルをかます。よろめくが、踏みとどまるアポス。その間にムトは階段を駆け下りていく。

「てめえの相手は、この俺だろうがよ」

「ほざくな若造。そんな腕で勝てると思うのか?」

「そっちこそ、そんなフラフラで大丈夫か?」

 言葉を交わすのは、それで終わり。お互いに理解している。後は、拳を交わすのみ。




 反響する雄叫びが自分の背中を追い抜いていく。焦るな、焦るなと自分に言い聞かせながらムトは階段を駆け下りた。敵に見つかっても終わりなのだ。可能な限り足音を抑えつつ、階下に向かう。

 幸い、僧兵たちは皆奥へと向かってしまっていた。まあ、あんなおっかない将軍が遺跡の前に陣取っていれば、後ろの心配をする必要がないだろう。そんな相手をロガンに任せてきてしまったわけだが、今は信じるしかない。速く彼の援護に向かうためにも、今は先を急ぐ。

 階段の終わりが見えてきた。誰かの声を鼓膜が捉える。速度を緩め、物陰に隠れる。そっと顔だけ出すと、良く知る背中が見えた。

「ティゲルさん!」

 見たところ敵影は見えない。それでも周囲を警戒しつつ物陰から飛び出し、彼女に駆け寄る。

「ムト君~?」「おお、救援か?!」

 声に振り向いたティゲルと、彼女の影に隠れて見えなかったファナティが声を上げた。

「どうやってここに~?」

「説明は後で、今は・・・え」

 そこでようやく、ムトはティゲルに膝枕されている人物に気づく。

「プラエさん?!」

 彼の目に、腹部を血で真っ赤に染めたプラエが横たわっていた。痛みと苦しみのせいか、額には脂汗が滲み、眉根は寄って苦悶を表している。

「大丈夫です~。血も止まりましたし、傷も塞がってますから~。今は、気を失っているだけだと思います~」

 彼女の傍らには空きビンが転がっていた。色合いから、傷を塞ぐ軟膏が入っていたのだと推測できた。

「一体、何があったんですか? 団長と彼女、ワスティは? ここにラケルナと僧兵たちが下りてきたはずなんですが」

「団長は、司教たちと一緒にこの奥へ向かいました~。ラケルナたちも同じです~。私も一緒に行ったのですが~、奥でマキーナに似た化け物と遭遇して、団長は私たちを逃がすために」

「また囮に?」

 囮にならなければならない何か強迫観念的なものに駆られているのだろうか。ムトは頭を抱えた。アカリが囮を買って出るのはもういつものことだが、一向に慣れることがない。しかも今回はアレーナを持っていない。アレーナの機動力あってこその囮という事を忘れていないだろうか。

「これから、僕も奥に向かいます」

 ラケルナや僧兵が呼ばれた理由が分かった。あれだけの戦力でも、相手がマキーナなら止められるかどうか。それだけアカリも危険だという事になる。

「え、おい! 待て待て待て! お前だけか? 他の奴らは?」

 ファナティが慌てて引き留めた。

「まだ到着していません。ラケルナが移動した異変を察知して、テオロクルム軍がすぐに動くとは思いますが、到着まで時間がかかると思います。ここに来られたのは僕とロガンの二人だけです。そのロガンは、遺跡の前で敵将と戦っています」

「なんということだ・・・」

 絶望に打ちひしがれ、ファナティはぐったりと項垂れる。

「なので、団長を連れてすぐに戻ってきます。合流して、全員で島から脱出しましょう」

「それしか、ないのか・・・」

「それしかないです。なので僕らの無事を祈っててください。ティゲルさん。プラエさんを連れて、どこかに隠れていてください」

「わかりました~。お気をつけて~」「幾らでも祈っていてやるから絶対戻って来いよ私のために!」

 二人の声援を受けて、ムトは遺跡の更に奥へと走る。

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