第326話 血より濃く、確かなもの
「ん、んう」
ピウディスがゆっくりと目を開けた。
「お目覚め?」
彼の目の前には母、王妃アルガリタの顔があった。
「母上・・・僕は・・・」
「まったく」
息子の体を起こし、そして、その場に正座させた。
「母上?」
なぜ正座させられているのかわかっていないピウディスは戸惑いながら、しかしこれは間違いなく怒られる前兆だと感じ取っていた。
「人の声に耳を傾けるのは、上に立つ者として大切なことです。が、間違ってはいけない。国や民のためになる陳情と私欲のための強請が違うように、耳の痛い諫言と悪意ある罵詈雑言は別物です。この度、あなたが聞いてしまったのは悪意に満ちた、あなたを貶め、利用するためのものだった。そのせいで、あなたはプルウィクスを危険に晒したのです。わかっているのですか」
感動の再会かと思いきや、説教が始まった。ピウディスが小さな体を更に小さく縮めている。
「お、王妃、王妃。その辺で。王子も被害者なのです」
たまらずサルースが割って入る。
「国を危険に晒して、子どもであることも、操られた被害者であることも、言い訳になりません」
静かな一喝が、サルースを黙らせた。
「心が揺るがぬよう腹の中に芯を持ち、信じるべき言葉と取るに足らぬ戯言を聞き分けるよう知識と経験を積みなさい。あなたは賢王シーバッファの息子なのですから」
「ですが、母上」
ピウディスが顔を上げた。その顔は不安に満ちていた。
「あいつは、エレテは、僕が父上と母上の実の子ではないと言っていました。僕は、奴が人体実験で生み出した化け物だと。人体実験を世間に知られたくないから、追及を避けるために母上の息子ということにしたと。だから偽りの子なのだと」
アルガリタは、一つ深いため息をついて、言った。
「あなたは、随分と時代遅れな考えをしているのね」
「時代、え、時代遅れ?」
「確かに、あなたは私が腹を痛めて生んだ子ではない。ですが、親子を示すものは、何も血縁関係だけに留まらないのよ?」
もちろん血縁関係が最もわかりやすい親子を示すとは思うけどね、とアルガリタは言った。
「共に暮らすこと、信頼を結ぶこと、愛すること、継承すること。そういう親子関係もあるわ。血よりも濃い関係は、ある」
彼女の中に根付く間違いのない、絶対の確信だった。
「しかし、皆は・・・」
「おかしなことを言うのね。私は、親子の話をしているのよ? あなたと、私の話よ。他人の意見が必要?」
アルガリタがピウディスを優しく包み込む。
「あなたは私の息子、愛しい我が子、ピウディス・プルウィクスです。血筋も、他人の声も関係ありません。それでもあなたが、出自を気にし、自らを疑うのであれば、私を信じなさい。いずれ王をしのぐ偉大な男になるとあなたを信じる、息子を信じる私を」
ピウディスの小さな手が、震え、少し戸惑いながらも、彼女の背に回される。くぐもった泣き声が、ようやく聞こえてきた。
王家ほど、血縁関係を大事にしている一族はないと思うのだが、とツッコミかけて、そういえば彼女は、もともと彼女は孤児だと思い直す。王妃どころか貴族でもない、元娼婦見習いだ。
しかし、彼女が纏う威厳や高貴さは、こんな樹海の中、泥だらけの姿でありながら一片も曇らない。
人を作るのは生まれだけではない。
環境、教育、人の縁。それらが複雑に絡み合い、化学反応を起こし、時間と共に積み重なって、その人の中身を作る。虎の威を借ってふんぞり返っている薄っぺらな人間には到底真似できない、覚悟を決め、色んなものを背負い、修羅場を潜り抜けてきた重厚な人間が、本物の貴い人間がここにいた。
「あなたの言う通りだったわ、アン」
これは、敵に回したくない相手だ。
「一件落着、のようだな」
遠くから望遠鏡で覗いていたジュールが言った。腐った巨人はデカい焚火になったし、救出した王子も意識を取り戻した。障害はなくなった。後はラーワーまで逃げるだけ・・・
「ん?」
何かが視界の端に映った、気がした。気のせいか。昇ってきた朝日のきらめきが、目をくらましただけか。
いや、違う!
その正体を確認し、ジュールの血の気が引いた。
「マズい、マズいマズいマズい!」
突如慌てだしたジュールの方を、撤退準備をしていたプラエたちが振り返る。
「どうしたの?」
プラエの質問に、答えている余裕が彼にはない。ジュールは通信機を取り出す。
『団長! 今すぐ逃げろ!』
通信機から、ジュールの叫び声が響いた。かなりひっ迫した様子で、こちらの応答が
「どうしたんですか? まさか、ゾンビの生き残りが?」
エレテは倒した。だから、制御を失ったゾンビがこちらに向かってきているのか。そう考えての発言だったが、違うと一蹴された。
『アウ・ルム軍だ!』
私だけでなく、周りにいた皆に聞こえるほどの大声が最悪の展開が迫っていることを伝えた。
なぜアウ・ルム軍がこんなところにいるのかなど、わかりきっている。味方のわけがない。アルガリタを捕えるためだ。ここまで追ってきたのだから、アルガリタがここにいるという確度の高い情報を得たのだろう。プルウィクス内部に協力者がいるのか、それとも別の情報源か、もしくは生きていることを知らせるバイタルサインみたいなものでも計測していたのか。
何にせよ、今できることは一つだ。
「逃げるわよ!」
アルガリタとピウディスを引っ張り上げて立たせる。頭を切り替える。弛緩していた頭を一気に緊張状態へと持っていく。
「ジュールさん、敵との距離は!」
『目測でざっと二、三百メートルってとこだ! 迷いなくそっちに向かってる』
燃える巨人は、彼らにとってよく見える狼煙となっただろう。人が寄り付かないはずの樹海で何かあれば、十中八九私たちがいるとわかる。
「ラーワー国境まではどのくらい!」
『えっと、ちょっと待て!』
少しして、プラエの声が代わりに届いた。
『ティゲルが覚えてた地図から判断して残り十キロってところ。樹海が終わるのが六、七キロくらい。最短ルートは北北西を直進して!』
「了解です。ジュールさんに代わってください!」
再びジュールからの応答があった。
「撤退準備は?!」
『もう終わってんよ! 足の遅いティゲル嬢はゲオーロと一緒に先に走らせた!』
「わかりました。そちらもすぐに撤退を!」
『言われなくても逃げるが勝ちだ。後で会おうぜ!』
通信が終了する。
「団長は王妃たちを連れて先に行ってください」
ムトがカテナの鎖を伸ばしながら言った。
「少しでも足止めできるよう、逃げる方向に罠を張っていきます」
「ごめんムト君、お願い」
アウ・ルム軍の規模がわからない今、人員の分散は正直避けたい。しかしアルガリタとピウディスの疲労は大きい。二百メートルの距離などすぐに失われてしまうだろう。彼の申し出に甘える。
「任せてください」
「でも、無理はしないで。絶対向こうで合流するわよ」
「必ず追いつきますので、ご安心を」
ムトが作業に取り掛かる。他の団員たちも彼の後を追って作業を始めた。
「ならば、僕もお手伝いしましょう」
サルースが買って出た。カテナの鎖に木の枝を括りつけていく。誰かが鎖に引っかかると、枝が外れて鞭のように打ち据える仕掛けのようだ。
「王妃たちを頼みます」
「わかりました。また後で」
「ええ、ゆっくりお茶でもしましょう」
彼らに背を向け、私はアルガリタたちの背を押す。しばらくして、派手な音と共に閃光が木々の隙間を抜けていった。ムトたちが仕掛けた罠が発動したのだろう。敵は確実に近づいてきている。
「皆、お願いだから無事でいて」
―――――――――――――
アカリたちが逃走劇を開始したのと時を同じくして、樹海を別方向に走る影があった。
「おのれ、おのれおのれおのれ!」
呪詛をまき散らしながら走るのは、一匹のゾンビ。巨人の体の一部を形成し、電撃を食らったことで剥離したゾンビの一匹だった。そして、エレテの意識を写された、いわゆるバックアップだった。魔術師であり研究者の癖なのか、自分が敗れるという最悪の事態も想定して用意していたのだ。その点は流石というべきか。
巨人が燃やされ、アカリたちの目がそちらに向いている間にエレテの意識を持ったゾンビは戦場を脱出した。
「王妃め、傭兵どもめ、この、私に、こんな屈辱を! 許さぬ、絶対に許さぬ!」
幸い、こちらにはまだパラシーを操る笛がある。この笛で新たなゾンビを作り、そして。
「・・・あれ?」
何を、しようとしていたのだろうか。
「何を寝ぼけている。しっかりしろ。私は、私をこんな目に遭わせた王妃たちを」
おうひ、とは、誰、おうひとは、何?
ぞくり、とエレテの背中に怖気が走った。
記憶が、どんどん消えている。火の放たれた枯草の野ように、自分を構成する物が失われていく。
当然と言えば当然だ。彼が意識を写したのは結局のところ死体で、パラシーによって血液を循環させてはいてもそれは疑似的な物、本来の機能の十分の一も満たせていない。少しずつ脳は腐り落ちていく。体を動かす機能がまだ生きているだけましというものだ。
「くそ、早く、代わりの人間を見つけなければ」
見つけて、どうする? どうすればいい。
「嫌だ、嫌だ。私は、こんなところで死ぬわけには」
記憶を失うという、生まれて初めての恐怖を味わい、忘れていく。はたとまた失う恐怖を『初めて』味わい、忘れる。それを繰り返し、発狂しそうになったところで、エレテは足を滑らせた。転倒した先は、水。樹海を流れる長大な川だった。水の中に腐臭が漂う。
つまりは、餌だ。川に住むモノたちにとっての、貴重な食料。
腐りかけたエレテの目がそれらを捉えた。真っ黒な壁が迫ってきているのかと見まがうほどの、小さな魚の群れ。肉食魚『サルダン』の群れだ。
「ひ、く、来るな、来るな!」
慌てて水を掻き、岸辺に向かおうと暴れる。その音が更にサルダンを引き寄せる。落水で剥がれ落ちた皮膚片をついばみ、その先にいる腐食した肉に食らいついた。
何百というサルダンの数の群れが水面下でエレテの足を食らい、数十秒で骨に変えていく。それでもなお、エレテは岸に手をかけた。記憶を失いつつも、生きるという本能はまだ残っていた。頭が岸に上がり、腕、肩、上半身と引きずり上げようとして。
「あ」
水面が盛り上がった。巨大な顎がほぼほぼ骨と化した下半身に、まだ食いついていたサルダンごと食らいつき、非情にもエレテの体を再び水面に引きずり込んだ。
川の主である巨大ナマズ『シルルス』だった。シルルスに食われ、飲み込まれたエレテは、脳が完全に機能停止するまで、生きながら捕食され、存分に恐怖を味わいながらこの世から消えた。
ここに、一つの逃走劇の幕は下りた。
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