第239話 北の悪夢、再び
時計は六時を回っていた。パーティーが始まるまで、残り一時間。
水中の横穴の位置から考えると、大体地下二階から三階といったところだろうか。奥へ進むと、通路は右に向かってなだらかな弧を描きながら伸びている。若干の傾斜も見られることから、城を支える地盤に巻き付くようにして、らせん状に伸びているものと考えられる。
「何も、出ねえな」
松明で周囲を照らしながら傭兵団団長の一人、マゴッティが言った。彼も私たちと同じく、イディオたちからこの通路内に化け物が出るのではないかと聞かされている。他の団長たちも同じで、通路を進む間ずっと警戒した様子で進んでいた。しかし今のところ襲われるような気配はない。
「やはり、噂でしかなかったか・・・?」
イディオが解せない、といった風に口元を手で押さえている。先ほどから、何度もゴホゴホと咳をしていた。喉が乾燥しているのだろうか。確かに、埃か何かが空気中に浮遊しているらしく、息を吸うたびに喉奥がいがらっぽくなる。かといって鼻で呼吸すると、長年放置していた押し入れみたいな匂いがしてなんとなく嫌だ。結局、私も口元を布で覆って口で呼吸している。少し息苦しいが、不快度はましだろう。
「まあ、危険は無いにこしたことはねえ。その分依頼の成功率は上がるってもんだ」
「俺たちに取っちゃ依頼達成が最優先だ」
「そのあとの報酬もな」
マゴッティの言葉に彼の団員たちが追従する。
「警戒は怠らないでくれよ」
別の団の団長、ラーシーが呆れたように言った。
「そうやって油断した奴から死んでいくんだぞ」
「そんなことはわかってるよ。痛い程な」
だから俺たちは、とマゴッティが続けようとしたのを「よせ」とゴアナが止めた。
「今はそんな過去の事を話している場合じゃないだろ」
「ああ、そうだな。悪い」
自分が作ってしまったしんみりした空気を、無理やり変えるようにマゴッティは続けた。
「この依頼さえうまくいきゃ、俺たちは金も名声も手に入れられる。くそみてえな人生からおさらば、だっ?!」
突然マゴッティが視界から消えた。彼が持っていた松明が音を反響させながら転がっていく。
「大丈夫か?!」
ハーミットがマゴッティのいた方に向かって声をかける。
「大丈夫だ」
マゴッティが上半身を起こしてこちらに手を振った。
「くそ、水たまりに足を滑らせちまったみたいだ」
そうぶつくさ言う彼の足元には確かに水たまりが広がっている。
「なんだよ、驚かせるな」
ラーシーが尻もちをついているマゴッティを照らした。
「しかし、この水、なんかねちょねちょして気持ち悪いな」
マゴッティは手についた水を振り払おうと振っているが、彼の言う通り粘性を帯びた水は彼から離れようとせず、むしろ振る度に彼にまとわりついていく。
「はは、何年も使われてない場所の水だ。腐ってんじゃねえのか?」
ぞく、と背筋を這い上がる悪寒。
なぜ私は今悪寒を感じたのか。何に違和感を覚えたのか。考えろ。今すぐに。この寒気は、経験上かなり嫌な部類だ。
マゴッティは何と言った。水に足を滑らせたと言った。それ自身はおかしくない。あり得る話だ。その後は何と言った。
『ねちょねちょして気持ち悪い』
粘性の水? 何かが染み出してきた? 例えば水ではなく油? だから滑った? いや待て、その後にラーシーがこう続けたのだ。
『何年も使われていない場所』
何年も使われていない場所に水たまりがなぜできる。それこそ上から水が? いや、距離的にここはもう堀の下には当てはまらない。直上は城の敷地内に該当するはずだ。そもそも、もし水気があるのなら、ここまでの道中にも水たまりはあってしかるべきだし、コケが生えていたり鍾乳洞じゃないが流水による何らかの地形変化が見られたりするはずだ。また、特有の水と空気がこもった、独特のむせるような匂いが堀に通じていた横穴以外ではあまりしないのも気になる。
そうだ。水たまりができる場所の割には、ここはちょっと埃が溜まりすぎなのだ。空気が動くだけで粉じんが舞い、乾燥して咳が出るほどに。
待て、ちょっと待て。であるなら。その水たまりは、本当に水たまりなのか?
記憶がつながる。今視覚と聴覚から入った情報をもとに頭の中を検索。該当するものを引っ張り出す。
「ラーシーさん!」
危険度大が飛び出した。私の声に驚いたラーシーが振り返る。
「すぐに彼を引っ張り上げて!」
「は? あんた突然何を」
ラーシーの声が遮られる。他ならぬマゴッティの絶叫によって。
「おい、マゴッティ!?」
ラーシーがすぐさま体を起こしていたマゴッティを掴もうとするが、その手は空を切る。マゴッティは再び水たまりの中に倒れていた。粘性の水が、彼の体を這いずって、絡めとっていく。首、腕、銅、足と拘束するように水は彼の体を包んで、ついには顔へと延び口を塞いだ。悲鳴が途絶え、ただ泡のはじける音が響くのみ。更に飲み込まれそうになるのを、篭手のアレーナを伸ばして何とか掴む。だが、それまでだ。奴の力が強いのはよくわかっている。
私を援護しようとして、ラーシーやゴアナが水たまりに入ろうとする。
「駄目! 近づかないで! 離れて!」
「なんでだよ!」「しかし!」
「どうせ支えるなら私の体を引きずり込まれないように支えて!」
「くそ」「何が何だか!」
ぶつくさ言いながらも二人は私の後ろから篭手の部分や腰を抱きかかえる。その二人の後ろをイディオやハーミット、もう一人の団長ハンゼが掴む。他の団員も手伝おうとしたが、さすがにそこまでの広さは通路にない。
「テーバさん!」
「はいよ!」
「スティリア用意!」
異変に気付いたテーバをはじめとしたアスカロン団員が他の傭兵団員をかき分けて集まってきてくれていた。彼も一目見てそれが何なのか理解し、私の指示よりも前に準備を始めていた。テーバが水たまりに向かって氷の魔道具スティリアを撃った。弾丸に含まれる特殊な液体が水たまりに当たった瞬間、急速冷凍されて水たまりは凍っていく。
「引っ張って!」
「「「おおおおおおお!」」」
ピキ、ピキと亀裂の入る音とともにマゴッティの体が氷の表面から引きはがされていく。完全に氷から引きはがされたとき、勢い余ってドミノ倒しになった。何とか体を起こし、救出したマゴッティを助け起こす。
「マゴッティさん!」
霜の降りた体を揺らすがしかし、彼は反応しない。その時、彼の頭を支えている自分の手に妙なぬめりを感じた。手を頭の下から引き出すと、炎に照らされた手は血濡れだった。彼の体を裏返す。
後頭部が存在しなかった。あの短時間で溶かされたのだ。
「マゴッティは大丈夫か!」
体を起こしたイディオに、首を横で振って答える。嘘だろ、とうめくが、すぐに切り替え、状況確認に映った。流石は辺境軍の将軍だ。
「ありゃあ、何だ?」
「スライムです」
北の地での悪夢がよみがえる。耳を澄ますと、水の滴る音が通路の向こうからいくつも聞こえる。マゴッティが落とした松明が、その水滴の正体を映し出した。
「なんつう悪趣味なモン飼ってんだよ」
イディオの震えた声が、私たちの心を代弁していた。
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