第238話 仄暗い水の底を歩く

 夕刻。陽が沈む直前の薄暗闇。農作業を終えた農夫たちが南の門を通って戻ってきた。これから家族団らんの食事か、それとも仕事終わりに酒をひっかけに行くかと話している。彼らはいつものように、自分たちの作物に恵みを与えてくれる川の前を通り過ぎていく。そして最後尾にいた農夫が、先行く仲間たちの後を小走りに追いかけていく。今日もよく働いたと、なみなみと注いだ酒で乾杯するためだ。彼らは目の前の酒のことで頭がいっぱいで気づかなかった。

 陽が沈み、辺りは暗闇に包まれた。完全な闇ではない。人のいる家では窓から灯りが洩れ周囲を照らし、城壁の上を巡回する兵士が持つランプが星明りのように街中を照らしている。そのおかげで夜の闇の中でも街中を移動することは可能だ。とはいえ、その明るさは日中とは比べるべくもなく、もし銅貨の一枚でも落とそうものなら、拾うのに地面を這いつくばらなければならない。その程度の明るさだ。

 故に、彼らは足元をほとんど気にしない。見えない所を気にしても仕方ないからだ。また、どうせそこにあるのは見慣れた地面と川だと理解している。その川の水位が、徐々に減少していても、彼らは気づかない。見えないもの、気づかないものに、注意など払える人間はいないからだ。

 川の水位が十センチ、くるぶしに届くか届かないか位の水量になったころ。川を進む影があった。水を跳ねさせながら素早く走り、人の気配がすれば止まり、潜む。その規則的で統一された動きは、それこそ川の流れの様な一体感を思わせる。そうして誰にも気取られぬまま、普段はその場に、しかも夜にいるのは不自然な者たちは難なく管理小屋まで到達した。彼らこそ、今回の依頼を引き受けた傭兵団混合部隊だった。その中には今回の首謀者であるカリュプス第二王子イディオたち、そしてアスカロンの団員たちも含まれている。

 川の水量が下がると、水門管理小屋の全体図が見えてくる。普段は水面下に沈んでいる、水を堰き止めている門だ。この門は二重構造になっていて、一つは鋼で出来た門。腐食を防ぐために表面に特殊な染料を塗っており、複数の板、というよりも塊を組み合わせて出来た巨大な門だった。一枚の鋼ではないのは、後の修繕のしやすさや門にかかる水圧が理由だろうか。プラエがいれば嬉々として説明してくれるかもしれないが、彼女は今ここにいない。その事実に胸の奥で鈍痛が生まれるが、無視する。彼女を巻き込まなくてよかった、とポジティブ? に考えることにする。水門管理小屋にある魔道具によって開閉するそれが、今はぴったりと閉じられて水の流れを堰き止めている。小屋を結ぶ通路みたいに見えていた一部は、開かれた状態の門だった。

 全団員が集まったのを確認して、私は他の団長やハーミットと顔を見合わせ、一つ頷く。ハーミットが合図を出すと、鋼の門がゆっくりと上に開いていく。堰き止められていた水が流れ出す、かと思いきや、そうはならなかった。完全に開ききった鋼の門から十メートル程先で、水が不可視の壁によって堰き止められている。

 これが第二の門だ。詳細はわからないが、ハーミットの話では空気圧を利用することで水を防いでいるらしい。主に鋼の門の補修工事を行う際に使用される。ただ、魔道具の燃費の問題で長時間堰き止めることは不可能なため、補修時の代用・、もしくは緊急時用として用いられるとのことだ。

 全員が鋼と空気の門の間へと入る。私たち団長は、門を潜る団員たち一人一人に手のひらに収まるサイズの小さな魔道具を手渡していく。ハーミットから手渡された、今回の作戦の肝となる魔道具だ。

 見た目は軽石の様なそれは『ア・エル』と呼ばれ、圧縮された空気が入っている。酸素ボンベみたいな物だそうだ。これをマウスピースのように噛むことで中から空気が出てくる仕掛けになっている。この魔道具によって監視の目を掻い潜り、水中にある脱出用の入口に侵入できるというわけだ。

 ア・エルを受け取った団員たちは、訝し気に首を捻りながらもそれを口の中に入れた。私も彼らに習って口に入れる。次に長いロープがハーミットから各団長、そして団員へと伸ばされる。水中の暗闇の中、はぐれないためだ。全員の準備が整ったのを見計らって、ハーミットが再び合図を出した。鋼の門が背後で重量を感じさせる音を立てて閉まる。それを見計らったように足元の水量が増え始めた。少しずつ水位が上がっていくのは、一気に流れ込めば鋼の門であっても破損するからだろう。膝から腰、腹、胸と、じわじわ水位が上がっていくのはなんとも言えない恐怖心を煽る。水が首まで来たとき、思い切って自分から水中へ潜った。

 水の中では呼吸ができない。人間に備わっている根源的な恐怖から息ができずにいた。顔を出した方が良いのではないか、その欲求に負けそうになるのをなんとか押しとどめて口内のア・エルを噛む。小さなモーター音に似た音が振動で伝わり、口を閉じているのに呼吸しているような空気の流れを感じる。鼻から息を吐きだし、口で吸う。

 呼吸ができている。その衝撃で眼を開ければ、他の団員たちも同じように手を口元に当てたりしながら驚いていた。

 真っ暗な水中で小さな光が生まれた。イディオがライトの様なものをこちらに向けて振っている。進行の合図だ。いくら小さくとも、暗闇の中で光が灯れば目立つ。加えて水深も二メートルから三メートルほど。覗き込めば見えてしまう深さだ。急いで彼の後を追った。慣れない、というよりもほぼ初めての水中に手間取りながら、私たちは水をかき分けるようにして歩く。

 急ぐ理由はもう一つ、いつまでも鋼の門を閉じておけない事だ。いつ誰が気づくかもわからないし、また水門管理小屋の門番の交代の時間もある。かといって、すぐに開けば私たちが水によって流されてしまう。私たちが遅れるほど、今水門を操作してくれている味方にリスクが加算されてしまう。

 水中を二十分、距離にして一キロ程進んだ頃だろうか。これまで真っ直ぐ進んでいたイディオのライトが、ゆっくりと下に下がり、視線から消えた。再びの暗闇に慌てそうになりながらも、ロープを伝って彼がいた場所まで進む。水の底に裂け目があった。自然に出来たものではなく人工的に掘られたものだ。ライトが見える。その近くに、横穴が見えた。ゆっくりと降下し、横穴をくぐる。浮上すると、すぐに水面に出た。松明の火が揺れている。

「掴め」

 顔を上げると、イディオが手を差し伸べていた。礼を言って彼の手を掴み、水面から陸上へと上がる。彼に手伝ってもらったように、私も団員たちに手を差し伸べ、水中から引っ張り上げる。引っ張り上げられた団員は同じように次の団員を引っ張り上げる。

 全員が揃ったところで、改めて横穴の中を観察する。脱出用の通路と聞いていたのでもっと狭いかと思っていたが、大の大人が三人並んでも余裕がる広さがあった。ただ、長年使用されていないために何とも言えないカビなどの臭いがこもっている。鼻の良いテーバなんかは顔をしかめているが、極悪味の回復薬で慣らされた私の鼻はこの程度では曲がらない。何の自慢にもならない、数少ない私の自慢の一つだ。

 通路は王城方向へ向かって伸びている。だが、先は全く見えない。その暗闇に向かってイディオがライトを灯した。

「行こう」

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