第182話 幸せになっちゃいけない、訳がない

 ラクリモサから離れる前日、シャワラが私を訪ねてきた

「お忙しいところ、申し訳ございません」

 部屋の前で一礼する彼女を促し、椅子を進めた。

「構いません。準備はほぼ終わっていますから。それで、ご用件はなんでしょうか。あ、この前の依頼料の件でしたら、オーナーからすでに受け取っていますよ。ご安心を」

「存じております。ですが、依頼であったとしても、改めてお礼を言わせてください。オーナーとイーナさんを助けて頂いたこと、本当に感謝しています。ありがとうございました。ですが今日は、そのことではなく」

 彼女が私を訪ねる理由としてはそれくらいだと思っていた。ではそれ以外の理由とは何かと首を捻る。

「アカリ団長に、お伺いしたいことがありまして」

「私に?」

 シャワラが神妙に頷いた。

「アカリ団長は、オーナーと同じ世界から渡ってきた、ルシャ、なんですよね?」

「ええ、そうです」

 少し言い淀むような様子を見せてから、シャワラは話を続けた。

「元の世界に戻る方法を探している、とお聞きしたのですが」

「事実です。ただ、今のところなんの手がかりも得ていませんけどね」

 それが? と視線で問う。彼女が何を意図してそんなことを聞いてくるのか。

「もし、元の世界に帰る時が来たら」

 意を決した眼差しで、シャワラは言った。

「オーナーを、一緒に連れていってくれませんか」

「アンを?」

 問い返す私に向かって、シャワラは頷いた。

「フェミナンにいるスタッフは全員、オーナーに拾われ、命を救われました。温かい食事、衣服、寝床を提供していただき、そして仕事という生きていくための戦い方を教わりました。返し切れぬほどの恩があります。あの方は「あなた達が働けば店にお金が入るんだから、それが恩返しになってるわよ」と笑いながらおっしゃいますが、皆知っています。そのお金も、スタッフが安心して働き、生活していくための運用資金となっています。私たちは貰うばかりで、何一つあの方に返せていないのです」

「それで、何か返せるものがないかと考え付いたのが、元の世界への帰還、というわけですか」

「はい。普段は絶対に口に出しませんが、一度だけ、あの方が酔った時に聞いたことがあります。母の葬儀の時です。オーナーの元居た世界では、『ツヤ』という、一晩中亡くなった者と別れを惜しむ儀式があるそうで、その時にポツリと、故郷の事を話してくれました。冷たくなった母の頬に触れ、涙を落としながら『家に帰りたかっただろうに』と」

 母の葬儀と彼女は言った。あの弱音を吐かなそうなアンが思わず滑らせるような相手の通夜。まさか、この子は。

「その時気づいたんです。オーナーも、やはり帰りたいのではないかと。ずっと考えていたんです。そして今回、あなたがオーナーの前に現れた」

 正直に白状します、とシャワラは言った。

「私は、あなたとオーナーの話を聞いてしまいました。あなたがオーナーに元の世界に帰るかと尋ねた時、わざと話を遮るようにしたんです。オーナーを連れていかれると思ったから。いざ本当にオーナーが元の世界に帰ることになると思ったら、その、ものすごく嫌な気持ちになってしまって」

 ようやく合点がいった。どうして彼女が私に対して愛想が無くなったのか。大切な人を奪われると思ったからだ。思わず苦笑を漏らす。

「ですが、これは私の我が儘です。オーナーの事を思えば、戻る方が良いに決まっている。これまで私たちのために矢面に立って戦い続けて、今回は命の危機にまで晒された。そろそろ、自分のために幸福を掴んでも良いはずです。許されるはずです。これは、私だけでなく、他スタッフも同じ考えです。そしてそのための協力を惜しまないことをお伝えにきました」

「なるほど、依頼料代わりですね」

「はい。各支店に散らばる私たちスタッフが得た、ルシャや世界の移動に関する情報を、イーナさんを通じて送る手はずになっています。他にも、傭兵団にとって有益そうな情報を送ることも可能です」

 電話もインターネットもない世界で、遠距離の地域の情報が得られるのはかなりのアドバンテージだ。

「いかがでしょうか?」

「申し訳ありませんが、今現在ではその依頼、お引き受けできません」

「な、なぜですか! 報酬が足りませんか?! でしたらお金も用意します!」

「いくら積まれてもダメです」

「どうして!」

「あなたからその依頼を受ける前に、アンから依頼を受けたからです」

「オーナーから?」

「先日話をしたときにね。依頼内容は要約すると『私の今の楽しみを邪魔するな』です」




 時間は少し遡り、アンから報酬を渡された日の事。

「この前の話、覚えてる?」

 別れ際、アンはそう切り出した。

「この前、というと」

「私に、元の世界に戻るかどうか、聞いてきたわよね」

「ああ、はいはい。そうだった。答えを聞く前にお店のオープンになっちゃって、そのままだったよね。それで、どうする?」

「今のところ、帰る気はないわ」

 はっきりとアンは答えた。

「一応、理由を聞いて良い?」

「そうね。私は、途中で投げ出すの嫌いなタイプなのよ。フェミナンはリムス有数の企業になったとはいえ、まだまだ盤石ではない。抱えている問題も多いし、いつアウ・ルムから切られるかもわからない。私がいることで、それらを防ぎ、押さえられている部分もあるの。まだまだ女に厳しい世界で、彼女たちが雨風と飢えをしのぐ場所を失うわけにはいかない。スタッフ全員の生活と命がかかってるからね。そして、その場所を維持し続けるためには、後任も育てなきゃいけない。ノウハウを受け継ぎ、さらに進化、発展させる逸材を育てなければならないわ。だから、ここから離れることは出来ない」

 それにね、とアンは楽しそうに言った。

「その後任を育てるのが、今は楽しくて仕方ないの。例えば、シャワラがそう。最初は自信なさげにおどおどしていた子が、知識と経験と自信を身に着けて、立派に働いている。堂々と胸を張って生きている。そういう姿を見ると、なんていうの、巣立ちを見守るみたいな達成感があるのよね。他にも、色んなものに絶望して、死ぬしかないって考えてた子が立ち直っていくのを見たり、手の付けられないヤンチャだった子が今では若い子たちの世話をしているのを見たりね。もうどうにもたまらないのよ。それを、もっと見ていたいの。人が成長していく姿ってやつを」

「何か、学校みたいね」

「あ、そうそう、それね。正直、自分が学生の時は学校なんて嫌いだったんだけどね。とまあ、そんなわけで、ゴメン。せっかくの申し出だけど」

「別に良いよ。前にも言ったと思うけど、何も当てはないしね。でもよかった。アンは、幸せなのね」

 そう告げると、彼女はびっくりしたように目を大きく開いて、その言葉が徐々に自分の頭に染み込んでいくのと比例して、顔を綻ばせていった。

「そっか、これまでのネガティブな記憶のせいで、憎しみとか呪いばかりが表に出てるけど、現状をよくよく考えてみると、今の私は、幸せなのか、も?」

「そこは自信持ってよ」




「そんなわけで、アンは元の世界に戻る気はないそうですよ」

 シャワラにその時の話を聞かせた。彼女は泣いていた。

「それでも、どうしてもアンを元の世界に返して欲しいというなら、後任として、あなたがもっと成長してください。アンが安心してあなたにフェミナンを任せられるようになること。それがきっと、一番の恩返しじゃないでしょうか?」

「はい」

「ただ、依頼は受けないけど、イーナさんを通じての情報収集は非常に助かるので、協力していただけると私としては助かるんですけど」

 そういうと「抜け目ないなぁ」と涙を拭きながら彼女は笑った。

「わかりました。イーナさんのいる傭兵団です。皆が力を貸してくれるでしょう。各国の情勢など、必要な情報を送れるように手配しておきます」

「助かります」


 最後に色んな疑問が氷解して、ついでに新しい事実が判明した。すっきりした気持ちで、私はラクリモサを後にすることが出来る。

 団員たちは最後の夜、フェミナンで思い切り楽しんだらしい。テーバは全てのオプションを解放することに成功した、とか皆に自慢して、朝、すっからかんになった財布を呆然と見つめてたっけ。ああ、別にこれはテーバだけじゃないか。後任はしっかり育っているようだよ、アン。

 これで皆が、しっかり仕事に集中していただければ団長として何も文句はない。馬車馬のように働くと良い。


 少し後の話。イーナを通じてアンから連絡がきた。元気な女の子が生まれたらしい。それだけでも驚きと喜びの知らせなのに、アンの相手がギースだというんだから、私の喜びと驚きは筆舌に尽くしがたいものになった。名前は『アサミ』に決めたそうだ。早紀と美也子と私の名前から一文字ずつ貰ったとのこと。

 会いに行く楽しみが増えた。その日を夢見て、私は今日も進む。

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