第154話 薄氷を渡る
屈強なラクリモサ兵に無理やり跪かされる。力を入れて振りほどこうとしても、全く動ける気がしない。
細い腕がすっと伸びてきて、ぐいと髪を持ち上げられる。アンは目の前の、自分の髪を掴み上げる相手を見据えた。
まだ若く、幼さすら残す容貌はしかし、後に美しく咲く大輪の花を予感させた。普段であれば可憐で、チャームポイントである大きな瞳二つが、今はこちらを敵対心むき出しで睨んでいる。
痛みをこらえながら、アンは己の記憶を探る。記憶力には自信がある方だ。これほど印象に残りそうな顔を忘れるはずもなし。すぐに検索に引っかかった。
「ごきげんよう。下賤なドブネズミ。私の事を知っていますか?」
「シャンティ家がご息女、フウミュ・シャンティ様、ですね」
「結構。では、私がどなたに嫁ぐかも知っていますね?」
「はい」
ラクリモサ領主、チャタン・ラクリモサだ。一か月ほど前、大々的にパレードをしていた。そこで、二人の顔を見ている。気の強そうなフウミュとは対照的に、垂れた目尻や控えめな手の振り方から、穏やかな優男といった印象を持った。
「そこまでわかっているなら話が早い」
無造作に、フウミュはアンの頭を掴んでいた手を投げるようにして放した。
「どうして連れてこられたか、わかりますか?」
見当がつかない。
いや、正確には見当をつけるための思考が上手くまとまらない。関節を極められている痛みと返答一つ間違えれば死に直結するというプレッシャーにかろうじて耐えている状態のせいだ。
貴族は醜態を嫌う。それが、たとえ自分が原因で引き起こしていることであってもだ。その立場になったことなどないだろうに、こういう場面で相手に潔さを求める。傲慢、しかしてそれを許されるのが貴族という階級だった。
アンは恐怖と痛みに割く脳の稼働領域を最小限に抑えて、必死になって思考を巡らせる。ヒントはあったはずだ。自分が連れてこられたのは娼婦という立場。そして、連れてきたのはラクリモサ領主ではなく、家族でもなく、婚約者だ。女性のフェミナン利用記録は今のところない。
「チャタン・ラクリモサ様の、件ですか」
冷や冷やしながら、言葉を紡ぐ。それ以外に考えられない。変装していたし、偽名も使っていたが、数度、フェミナンに来たことがある。しかもアン自身が担当した。何かミスをやらかしたかと考え、それはないと考えを切り捨てる。ミスがあれば、何度も指名されない。かなり満足してもらっていると自信を持って言える。もちろん、それを吹聴することなどありえない。徹底的に顧客情報は守っている。
パァン、と乾いた音共に、アンの横っ面が弾けた。口元に新たな痛みとぬるりとした感触がある。
「下賤な者の口で、あの方の名を気安く呼ぶな」
フウミュに平手で殴られた。答えろと言われたから答えたのに、今度は口にするなという。まさに傲慢。
だが幸いなことに、痛みと相手の理不尽に対する怒りのおかげで恐怖が幾分薄らいだ。ただの痛みであれば、我慢するのはまだ容易い。出来た余裕を目と耳に割く。フウミュから得られる情報を一欠けらも取りこぼさないために集中する。
「高貴な方に触れていいのは、お声を聞いて良いのは、瞳に映って良いのは、同じく高貴な身分の者のみ」
なのに、とフウミュは腕を、全身を震わせる。
「ふうん、と言ったのよ」
フウミュがその場で一回転して見せた。美しい刺繍や装飾で彩られたドレスがふわりと舞う。
「何か月も前から貴重な布で作らせ、お会いする前日の夜からそれに合う宝石や靴を選んで、話す会話の内容も考えて。ただあの方に見てもらいたくて、そのためだけに作ったドレスを、私を見て、あの方はたった一言『ふうん、綺麗だね』とだけ」
それ以降ドレスの話題は上がらなかったとフウミュは言った。
「あなたなんかに、この屈辱はわからないでしょうね。自分の全てが否定されたような、奈落に突き落とされたような感覚を!」
アンは鼻で笑ってやりたいのをこらえた。本当の奈落に落ちたことがある人間を前にして、良く言えたものだと。
そして、ようやく自分がここに連れてこられた理由に思い至った。つまりは、これは元の世界でもよくあるスキャンダル、不倫騒動、という奴だ。自分には縁のない、遠い出来事と冷めた目でニュースを見ていたのを思い出す。芸能人の不倫や浮気で世間が騒ぐのを見るたびに、どうして当人たち以外がこんなに騒いでいるのだろうと首を捻っていた。こんなので騒ぐのは、騒いで良いのは当人とその家族と家庭裁判所くらいのものだろうに。わざわざ貴重な時間を割いてまで放送して煽る価値があるのか、と。
まさかその当人になる日が来るとはね。
アンは内心苦笑を漏らす。行きついてしまえばくだらない。余裕が出来れば、相手をもっとじっくり見ることが出来る。貴族というフィルタを外せば、自分の目の前の世界しか知らない生娘が、ドレスを褒められなかった、恋人を取られたと騒いでいるだけだ。そしてその責任を自分ではなく、自分以外の誰か、何かに押し付けようとしている。自分の未熟さ、過失、魅力のなさのせいではないと、微塵も疑わず。
本当に、くだらない。
「シャンティ様のご心痛、私のようなものに推し量れるものではないことだけはお察しします」
口の端についた血を舌で舐めとってフウミュに語り掛ける。
「ご迷惑をおかけしましたこと、深くお詫びいたします」
「あなたの詫びなど、なんの意味もありませんが、受け入れましょう。己の罪すら気づかぬ愚か者であれば、ここで処分するところでしたが、下賤な者なりに貴族を敬えるのであれば、一度はチャンスを上げましょう。シャンティ家の者として、寛大さも示さねばなりません」
この街から去りなさい。シャンティは言った。
「あなたにふさわしい粗野で野蛮な田舎にでも逃げなさい。ドブネズミが逃げた先まで、私は関知しません」
「お慈悲をいただき、誠にありがとうございます。寛大なるシャンティ様の御心、けして忘れません」
床を舐めんばかりに頭を下げる。見なくてもわかる。憎き相手が自分の掌で生かされているという優越感に浸って、顔を歪ませているのを。
ここで、アンに二つの選択肢が生まれる。
拾った命を無駄にせず、このまま逃げ帰って早紀たちと共に別の街に移住する道か。
「ですが」
命を賭けて居場所を守り、更なる上を目指す道か。
唇を湿らせて、彼女は詰将棋の駒を選ぶように言葉のやり取りを想定する。一手でも間違えれば死につながる詰将棋だ。しかし、賭けるならここしかない。自分が娼婦として生きていくと、成り上がると決めた時からこのリスクはついて回る。ここを凌いでもいずれ他の貴族から同じ目に遭う。
であるなら。王位に次ぐほどの貴族でありながら、損得利害を一切頓着せず己の欲望のままに考え動く未熟なフウミュは、他の海千山千の貴族よりも相手取りやすいはずだ。
「よろしいのですか。本当に、私がここを去っても」
「どういう意味?」
整えられた眉が片方吊り上がる。
「そのままの意味です。私がここを去ったとして、本当にそのお方の目にシャンティ様は映りますでしょうか?」
「あなた・・・っ!」
怒りに顔をゆがめるシャンティに呼応し、アンの腕を掴む兵の力が強まる。痛みが増して、気が遠くなりそうになるのを堪えて、アンは話し続ける。今言葉を途切れさせてしまえば、死ぬ。王手をかけ続けなければならない。
「私よりすべてが優れているシャンティ様に、唯一私が勝っているとすれば、それは年齢と、経験です。恐れながら、男性に対する経験や男性の気持ちは、私の方が理解できます」
「あの方の気持ちを察することが出来ると? ドブネズミ風情が傲慢にもほどがある! 衛兵! その者を」
「取り戻したくはないのですか!」
シャンティの言葉を遮ってアンは叫んだ。
「そのお方の心を取り戻したくはないのですか! その視線を独り占めしたくないのですか! 今のまま私が去っても、その方の心と体に残るのは、私どもが生み出した快楽の技! そしてそれが二度と愉しめないというため息のみです!」
「そんなもの、真実の愛があれば」
「甘い!」
アンは切って捨てた。シャンティの気勢がわずかに削がれたのを見逃さず畳みかける。
「お二人の間に愛という美しきつながりがあるのは誰もが認めるところです。ですが、あえて下賤な者の言葉を使う事をお許しください」
ひとつ呼吸の間を入れ、アンは叫ぶ。
「男は! 下半身が! 別の生き物なのです!」
雷に打たれたように、シャンティはショックを受けて固まった。
「信じられない。信じられるわけ」
「事実です。では逆に問いますが、シャンティ家の当主様には何人奥様がいらっしゃいますか? 妾はおりませんか? 使用人に手を出したりは?」
シャンティは黙り、視線を右上に向けた。記憶を探っている。思い当たるところがあるのだろう。
「男にとって快楽は、時に愛を上回ります。悲しいかな、これは事実です」
「そんな、じゃあ、私はどうすれば」
絶望に打ちひしがれるシャンティ。ここまでいけば、簡単だ。甘く優しく、本人が望む答えを囁けばいい。
詐欺師の気分で、アンは告げる。
「簡単な事です。シャンティ様。あなた様が技を覚えればよろしいのです」
「私が?」
「そうです。真実の愛に加えてあのお方がお喜びになる技を身につければ、あのお方の心と体を掴むことが出来ます。あのお方の全ては、あなた様のものになります。真実の愛と技、二つ備えれば、未来永劫、あなた方の間に何者も入り込む余地はないでしょう」
きっと、シャンティの眼には、地べたに這いつくばっているアンが救世主に見えていたことだろう。ついさっきまでのまさにドブネズミを見るような蔑みは瞳から消え、救いを求める信者が聖人を見るような熱っぽいものに変わっていた。
「私なら、教えることが出来ます」
どうなさいますか? とわざとらしくアンは尋ねる。帰ってくる答えなど、決まりきっていた。
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