第150話 いつかの思い出

「ねえ」

 何度か、柴田杏奈が他のクラスメイトと揉めていたのを見たことがある。自分が直接言われたわけではないにも拘らず、その瞬間から柴田は苦手なタイプだと感じていた。ただ残念なことに、私と彼女は苗字が共に『し』で、出席番号順なら私の後ろが彼女だ。一学期間はずっと私の後ろには彼女がいた。学校に行けば至近距離にいて、プリントを配れば嫌でも顔を合わせる。

 それでも、彼女から何か、とやかく言われたことはなかった。彼女が気になるような事は、それこそ一か月も近くにいればなんとなく察することができたから、それをしなければ彼女との接点はプリントだけだった。また、クラスには校則で禁止されている茶髪や化粧をきっちりキメてくる、いわゆるギャルの派閥もあり、真面目な彼女の派閥といがみ合っていたから、普通の私に関わっている暇などなかっただろう。

 そんな彼女が声をかけてきたので、かなり驚いた記憶がある。

「ねえ」

 肩をちょんちょんと突かれる。

「これ、落としたわよ?」

 肩越しに振り返る私に、彼女が差し出したのは、小さな正方形のナイロン袋だ。円形に袋が内側から盛り上がって、中身の形を浮き彫りにしている。

「0.01ミリ。極薄ね」

 こちらを見下すような笑みを、柴田は私に向けていた。知識としては、私も知っている。ギャルな子たちの間でこっそり持っているのがちょっと『良い』らしい。多分、高校生という大人に一歩近づいた証として、何か大人が持っていそうな物を持つことで自分も大人だというような『自己背伸び暗示』でもかけているのだろう。別にそんなものを常時持たなくても、時間が嫌でも大人の自分を連れてくるのに、と思っていた。飽きっぽい彼女らのこと、すぐに廃れるだろうとも。もちろん、それで風紀委員の柴田と彼女たちがまた揉めていたことも知っている。

 だが、さて。どういうつもりだろう。視線を物と彼女の間を一往復させて、答える。

「残念だけど、私のじゃない」

「本当に? あなたの足元に落ちてたんだけど」

「私は、必要なものを必要な分しか持たないわ。ファッションでそれを持つ意味もわからない。どうせ入れるなら大宰府のお守りを入れる。ちなみに財布には定期と二千円、帰りに買い食いできて、本が買える分だけしか入れてない。だから、もしそれが私のものだったら、私の財布には定期以外何も入ってないってことになる」

「入ってない? 入っているじゃなくて?」

 援助交際のことを言っているのだろう。それについても否定しておく。

「別に水商売や風俗で働く方を見下すつもりも、批判するつもりもないけれど、身体で金を稼ぐことはしないよ。たった数万程度の金を得るために退学や炎上などの、今の自分に親がかけている数百万分の損失を出すリスクを抱えるようなこと、今の私にとっては合理的じゃないってだけ。必要とあらばするだろうけどね」

「じゃあ、財布に入ってないって意味は、彼氏に全部奢らせるって意味なわけね」

「いやいや、買い食いもせず本も買わず、読まずに彼と一緒に過ごすって意味よ。人を財布代わりにするつもりはないわ。で、私の財布には二千円ある。つまり」

「残念だけど、彼氏はいない、だからそれは自分のじゃない。と言いたいのね」

「遠回しな説明でゴメンね。じゃ、それは自分の財布に戻したら?」

 そう言うと、柴田が驚いた顔をして、それから徐々に顔をほころばせた。

「いつ気づいたの?」

「いいや。勘。カマをかけただけ。今の柴田さんと一緒。ただ、この前の持ち物検査で没収してたような気がしたから、それかな、と。色も似てたし、争ったときに入った袋の切れ目、確かそれくらいだったかな?」

 袋の一部を指差す。半端に切れ目が入って、袋の中が覗いていた。

 ついに、柴田は声を上げて笑った。

「篠山さんって、他人に興味がなさそうなのに、周りのことよく見てるわね。それに、良い性格してるわ。じゃあ、私がカマをかけてるって分かってて、話に付き合ってくれてたの?」

「どうしてそんな真似を柴田さんがするのか、不思議だったから」

「合理性を求めるくせに、妙なところで好奇心が勝つ人なのね」

 それから柴田はちゃんと説明してくれた。カマをかけて回っているのは、ファッションだけじゃなく、本当に援助交際をしている生徒がいるから、それをあぶり出すためだった。夏休みも近く、絶対に羽目を外す人間が出るから、その前に取り締まるためと旨を張っていた。動揺すれば更に追求し、逆ギレすれば先生に報告し、しかるべき対処をしてもらうのだ、と。

「普通は動揺か逆ギレ、どちらか二パターンなのよ。でも、話が弾むのは初めて。見破られたのもね」

「今後は、新しいのを持っておくことをお勧めするよ。敵を倒すには敵を知る必要がある、って誰かが言ってた気がするし」

「お断りね。私も、必要なものを必要な分しか持たないし、買わない主義なの。自分の金は、もっと有意義に使いたいから」

「意外。てっきり汚らわしいとか、そういう潔癖な拒否反応で取り締まってるのかと思ってた」

「私だって男にもSEXにも興味はあるし、知識だって人並み程度には仕入れているつもり。けど、その行為の後のことや、あなたの言うリスクを考えるとね。私は、私が責任を負えないことをわざわざしたくない。親に迷惑かけたくないから。だから、何の考えもなく馬鹿みたいに騒いでる連中が、心底嫌いなの。サルレベルの低俗な男子も、それを受け入れる女子もね。そいつらが痛い目をみるのは勝手だけど、それで私にまで妙な飛び火がかかるのは許せない。だから、予防線を張ってるの。どうせ、連中は恋愛なんかよりも、親にも教師にも知られてはいけない、スリリングな秘密を持つ優越感に浸りたいだけ。だから、こちらが知っているぞと言えば、その価値は下がるってわけ。良くも悪くも即物的な連中は、価値が下がったらそこから離れるわ。落ち目のアイドルから離れるのと一緒。結局、連中にとってはその程度のものなの」

 だからもし、と彼女は続けた。

「もし、私が新しい物を持っていたら、その時は何か奢って頂戴。多分、財布には何も入ってないから」

 これが、彼女とまともに話した唯一の出来事だ。彼女に対して少し苦手意識が薄れた出来事でもある。

 残念ながら、これ以降、彼女とはまともに話をしていない。夏休みに突入し、変わらぬ日々を過ごして、誰も予想だにできない新学期を迎えたために。

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