欲満ちる戦場で、眠ることなく

第146話 赤いドレス

「篠山、朱里・・・さん?」

 その名を呼ばれたとき、不覚にも固まってしまった。突然立ち止まった私を疑問に思った団員たちの声も耳に入らない。耳の中でリフレインするのは、過去に捨てた名前、己の弱さが故に死んだ女の名前だった。その名前を知っている人間は、この世界にはもういないと思っていた。

 ゆっくりと声の方を振り向く。

 化粧の濃い女性が立っていた。年齢はよくわからない。髪に少し白いものが混じってはいるが、肌は白く瑞々しい。夜の少し肌寒い空気の中、素肌が透けそうな、赤く、ボディラインを強調したドレスを纏い、肩からは毛皮のコートを羽織っている。胸元に大きな宝石のあしらわれたネックレスが輝いているが、装飾はそれくらいだ。非常にシンプル。しかしてそのコーディネートの意図は、服ではなく着ている本人を際立たせるためにあった。主役は彼女で、服や宝石は彼女をより美しく飾るまさに装飾品だった。佇まいは落ち着いていて、なのに妙な色香を漂わせる。女から見て格好よく映り、男から見て艶っぽいと映る。

 彼女の後ろには二人侍っていた。かなり若い、同じく薄着の愛らしい感じの女性と、背の高い屈強な男。

 若い女性は両手にカバンを大事そうに抱えているところから見て、この化粧の濃い女性の秘書か付き人の様な関係だろう。

 男は二人のボディーガードといったところか。私のことも含め、周囲に気を配って警戒している。傭兵か、兵士崩れか、ともかく訓練された身のこなしだ。

 だがまあ、それはさしたる問題じゃない。権力者がいて、侍従がいて、護衛がいる三点セットは、どこにでもある風景だ。

「篠山さんよ、ね?」

 問題は、化粧の濃い女性がどうしてその名を知っているのか。

 あまり言いたくないが、アスカロンの知名度が上がるにつれて、時折知らない人間に声をかけられることが増えてきた。珍しい女の団長で、これまた珍しいドラゴン討伐を掲げ、成し遂げてきた。これだけでも話題になる要素があるのに、ここ最近は王侯貴族の依頼を受領し、成功させたことで知名度が更に上がった。だから名を知られていてもおかしくはない。自惚れではなく、そう自覚している。

 しかしだ。過去の私の名前を、見ず知らずの、それも権力者風の人間が知っている、全ての要素が合わさったのなら、戸惑うしかない。

 固まったまま動けない私に、女性は護衛が止めるのも聞かずに、嬉しそうに近づいてきた。しかも友人のように気安く肩を叩いたりする。

「生きてたのね。あなたも」

 眼を白黒させている私に、女性は「私よ、私」と自分を指差し微笑んだ。眼に涙すら浮かべていた。

「シバタ。シバタアンナ。覚えてない?」

 そう言って、女性はウェーブのかかった長い髪を後ろでまとめてみせた。

 記憶を頭の中にぶちまけた。六、七年分の記憶がバケツをひっくり返したみたいに頭の中に噴出し、検索キーワード『シバタアンナ』で掴み上げる。記憶がつながった瞬間、思わず彼女の手を握り返した。

「まさか・・・委員長?」

「そうそう。思い出してくれた?」

 飛び跳ねそうなくらい彼女は喜んだ。

 柴田杏奈。クラスの委員長。親がPTAの役員で、勝ち気で男子にも一歩も引かなくて、真面目で融通が利かない、イメージによくある委員長を体現したような、長いストレートの髪を後ろでまとめてポニーテールにしていた、少し苦手だったクラスメイト。

 そしてあの日。

 モヤシによってこの異世界リムスに飛ばされたとき、彼女を含めた数人がモヤシの言葉を信じず、奴曰く【世界の移動中】の教室から飛び出し、そのまま消えてしまった。

 その彼女が目の前にいる。

 だが、目の前の夫人と言っても良い年齢の派手な女性と真面目一辺倒の委員長の姿がどうしても重ならない。

「団長、この方とお知り合いですか?」

 いつの間にか後ろに来ていたムトの視線が、私と彼女の顔の間を行き来していた。

「あ、ごめんなさい。お連れさんがいるのに引き留めてしまって」

 すっと柴田が一歩引いた。

「篠山さん、何日か、この街に滞在する?」

「え、ええ。その予定、だけど」

 動揺も相まって、言葉遣いがしどろもどろになる。目上には敬語を使うのが当たり前な私にとって、彼女は同級生であり、そして明らかに年上の女性だ。どう接していいかわからない。

「もし時間があったら、店に来てくれない? 色々話をしたいの」

 柴田が毛皮のコートから四角い小さなケースを取り出し、中に入っていた紙を私に渡した。

「これ、私の名刺。今はアン、って名乗ってるから。私の店の名前と、裏には簡単な地図が乗ってる。着いたら受付に言って。すぐ案内させるように指示しておくわ」

 生まれて初めてもらった名刺をまじまじと見つめる。

「『フェミナン』・・・?」

 名刺の裏に書かれていた名前は、どこかで聞いたことのある店の名前だった。

「え、え! ええええええっ!」

 後ろから私の手元を覗き込んだムトが叫んだ。

「ご、ごごご婦人、もしかしてもしなくても、あの『フェミナン』の方なんですか!?」

 ムトの叫びを聞いた、他の団員達も、驚愕し、動揺し、ざわついている。見る目が変わる、とはこのことか。

「ムト君、知ってるの?」

「え、ええ、まあ、そりゃあ、男なら誰でも知ってる、と言いますか。あ、あの! 勘違いしないでいただきたいのは、知っているというだけで、僕はまだそういうところは、その、行ったことないので、大丈夫です。安心してください」

 何が大丈夫なのか安心なのかさっぱりわからない。

「もしよろしければ、皆さんもどうぞ、ご滞在中にお立ち寄りくださいませ。これまで味わったことのないような、夢のようなひと時をお約束いたします」

 アンが笑った。あのお堅い、男に対して潔癖と呼べるほどだった委員長が、アスカロンの団員たちに向けて満面の、蠱惑的な笑みを向けた。

「じゃ、またね」

 くるりと私に背を向け、付き人を引き連れてアンは去っていく。翻る姿も洗練されていて、流れる髪やスカートの端をつい目で追ってしまう。その背を私と、私以上に団員たちが食い入るように、あるいは穴が開くほどに見ていた。私が背中や後頭部を見ていたのに対し、彼らはどちらかと言えばもう少し下の、左右に揺れる臀部を目で追っていたようだが。

「フェミナン。各国に支店を持つ高級娼館よ」

 これだから男は、とため息をつきながら私の隣にプラエが並んだ。

「気に入らなければ王侯貴族でも袖にする、しかしひとたび認めれば、夢のようなひと時と天にも昇る快楽を与えるらしいわ。高額料金と引き換えに、だけど」

「娼館、じゃあ、委員長、いや、彼女は」

「娼婦なんでしょうね。しかも自分の店と言った。五大国の一つ、アウ・ルム第二の都市『ラクリモサ』は、確かフェミナンの本店があったはず。それが自分の店ってことは」

「彼女は、そのフェミナンのオーナーってことですか?」

 プラエが頷く。

「話をそのまま信じれば、彼女は全娼婦のトップってことになるわ。そうなると娼婦とはいえ、権力も財力もそこらの貴族を上回る超大物よ。アカリ。あなたそんな人物といつの間に知り合ったの?」

 知り合い、と呼べるのかどうか。同じ世界出身ではあるけれど、私と彼女がしゃべったことは、ほとんどない。彼女が去っていった方向を見つめる。夜なのに、その方向だけ昼間のように明るい。

 眠ることを知らない、欲望渦巻く不夜城と名高いラクリモサの歓楽街に、赤いドレスが消えていった。

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