第136話 朝飯前

「ふざけやがって」

 もう一度同じセリフを繰り返しながら、要人暗殺、潜入工作など後ろ暗い仕事を主に引き受ける傭兵団『インカム』の頭目キャピは、顔にかかった粘着性の液体を手で拭った。 相手はいくつも投げていたようで、キャピの他にも何人かは直撃し、何人かは地面にぶちまけられた液体が足にひっかけられている。特に何の被害状況も報告されてはいないので、毒、ではなさそうだが、ひどい悪臭を周囲にばらまいている。

 目の前、どころか、左右、全方位が白に包まれて視界が全く利かない。近くにいるはずの部下の顔すらわからない状況だ。人間のが知覚する情報の七割が眼からの情報であるというなら、突然七割の情報を失われれば、人によってはパニックに陥る。

 しかし、キャピに苛立ちはあっても動揺や混乱はない。視覚以外、音や匂いなどの感覚や気配によって部下たちがいることがわかるし、結局のところ目が見えないのは相手も同じで、動きようがないのはわかりきっているからだ。しかも苦し紛れに煙を生み出したのだろうが、考えが甘い。奴らが取る術としては、煙が立ち込めているうちに玉砕覚悟の一点突破だけだが、不可能だ。

 煙は風によって簡単に揺らぐ。無風だからこそ煙はその場に留まっているが、少しでも風が吹き始めればたちどころに晴れてしまう。動いても同じこと。そして、今のように包囲出来たことから、足はこちらの方が断然早い。先行する奴らに自分たちは追いつき追い越し、罠を仕掛け、周囲に陣取るだけの時間があった。たとえ一時的に突破できたとしても、簡単に追いつける。追撃戦ほど楽な戦闘はない。相手の無防備な背中をめがけて、こちらは武器を振るえばいいだけだ。相手は逃走と防戦を同時にせねばならず、逃げることに集中すれば防御がおろそかになり背中を簡単に貫かれ、防戦に重きを置けばたちまち取り囲まれる。取り囲めば、今度は目くらましなどさせず蹂躙する。

 お手並み拝見と行こうじゃないか。どうにもできやしないだろうがな。暗い感情がキャピの胸の中に広がる。

 向こうの傭兵団の団長は女のようだった。しかもキャピよりもかなり若い。キャピ自身は指摘されたとしても断固として認めないが、心のどこかで自分よりも女団長は上手だったと感じている。若くして団長に収まり、率いる才能がある。苦労して今の地位を築いたキャピが嫉妬してもおかしくない。そして、そんな相手を完全に封じ込め、自分の命一つで握り潰せる状況にある優越感を彼は味わっていた。

 風で煙が揺らいだ。こちらはまだ指示を出していない。ということは。

「いよいよか」

 相手が決死の覚悟で突破を試みるつもりだ。自分だけでなく、周囲の部下たちもそれを察し、緊張が伝わってくる。


 ギチ ギチギチギチギチ


 奇妙な音がキャピの耳に届いた。目が使えない分聴覚がいつもより鋭くなっているからか、大したことのない音でも妙によく聞こえる。草葉の揺れる音、枝のざわめき、人の呼吸、それらの間をすり抜けてくる異音は、徐々に近づいてくる。

「気を付けろ、連中の魔道具かもしれん」

 指示を出す。この煙といい、相手はキャピたちも知らない魔道具を持っている可能性が高い。そういえば、最初に使ったあの笛のようなものはどんな効果があったのだろうか。儀式とかいう法螺の、演出効果だけか?

「油断するなよ。こちらが有利とはいえ、追い詰められた手負いの獣は危険だ」

「もう、全員殺しちまったらどうですか」

 近くにいた部下が面倒そうに言った。

「それはできない。もし王女を殺してしまったら、本当に爆発するかもしれない」

「そいつも、相手のブラフってことありませんかね」

「かもしれん。しかし本当かもしれん」

「ふん、敵もやるもんですね。守らなけりゃならない王女を盾にするなんて。そのせいで俺たちゃ手出しができないってんだから」

「無駄口はそこまでにしておけ」

 部下の口を噤ませる。別に、相手を褒めたから癪に障ったというわけじゃない。さっきの異音がどんどん近づいているからだ。

「音が近いな。何の音だ?」

「というか、この音、あいつらからっていうより」

 生暖かい風が、首筋を撫でる。

「後ろから聞こえません?」

 言葉に反応して、キャピは振り返った。相変わらず、白い視界だ。何も見えない。

 いや、微かに煙が渦巻き、空気の流れが見えた。部下の言う後ろから、首筋に当たった気持ちの悪い風が流れてきて、今度は顔に当たる。拭ったものの、顔に残る粘着成分に生暖かい風が引っ付いて不快感がさらに上昇する。何なんだこの液体は。

 白一色だった世界に、わずかに色が生まれた。

 何かが動き、世界に風が生まれた。風は煙を押しのけ、空間を作った。その空間に風を生んだ何かが現れ、白の世界をおぞましく彩る。

「な、あ」

 キャピはのけぞった。動いた彼の肘が当たり、そばにいた部下が何事かと振り返り、同じように固まった。

 煙の中から、金色の眼が覗いていた。顔の中央にある昆虫を思わせる複眼が、彼らの目の前でせわしなく動いている。複眼の下にはギザギザの歯が並ぶ口と、口の横からクワガタみたいなのこぎり型の顎が左右から二本伸びている。


 ギチ ギチギチギチ


 さっきから聞こえた異音は、この顎がこすれる音だったのだ。そして、それはこの生物が発する警告音だった。

 ひときわ大きな風が吹いた。煙が晴れ、傭兵団インカム、敵傭兵団、王女と近衛兵だけだった空間に、いつの間にか異形の生物が乱入していた。


 サルトゥス・ドゥメイ


 蜘蛛の様な頭とムカデの様な長く数珠繋ぎの胴体を併せ持つ、ドラゴンの中でも上位の種。強靭な顎は大木をやすやすとねじ切り、口からは致死性の高い毒液、長い胴は締め付ければ相手を窒息、圧縮させ、鞭のように振るえば重装歩兵の隊列をやすやすと薙ぎ払い跳ね飛ばす。

 この森の支配者が、キャピたちの前に顕現した。

 見るものに恐怖しか与えないおぞましい顔がキャピたちに近づく。同時に、顎は左右に開いていく。顔に生暖かい風がぶつかり、こいつの呼吸だったとどうでもいいことに気づいた。

「ひ、ひいい」

 悲鳴が上がり、中途半端に消えた。左右に開いていた顎が勢いよく閉じ、キャピや近くにいた者たちの人生も一緒に閉じてしまった。上半身の失われた彼らの胴体がパタパタと倒れていった。


 キィイイイイイイイイイイ!


 耳ざわりな音が周囲をかき乱す。サルトゥス・ドゥメイの雄叫びだ。縄張りを荒らしたであろう、不快なにおいを放つこの連中を喰らい尽くすという、朝食の合図だった。

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