第114話 憧れを模倣する
時間は少し遡る。
火事の報を受け、領主ザジ・ドンバッハはいてもたってもいられず外に飛び出した。農業で生計を立てている人間にとって、農作物の消滅は死に直結する。それだけじゃない。畑に植えられている作物は、ただの栄養、ただの食糧ではない。自分たちが毎日毎日欠かさず手入れをして丹精込めて作った誇りだ。それが失われるかもしれないと聞けば、冷静でいられるわけがない。火事と聞いた瞬間、ザジの頭から全ての事柄が押しのけられ、作物の安否がどどんと脳の容量を占めた。それこそ、今傭兵団の団長が言おうとした重要事項すらも彼方に追いやられるほどだ。
夜なのに明るい農道を衝動に駆られるまま走っていく。
「ああ、あ」
燃えていた。誇りが、汗と努力による帰結が実り切ることなく目の前で灰に変わっていく。力が下半身から抜けて、頭からは思考力が奪われていく。
だが、ザジは歯を食いしばり、崩れそうな膝を叩いた。ここで倒れていいのは普通の農民。統治する者は倒れてはならない。次善の策をすぐに練らなければならないからだ。
かつて自分が従軍していた時、自らの領地が災害により壊滅した貴族がいた。軍の命で復興作業に向かったが、復興など不可能に思えるほどの壊滅ぶりだった。
愛する者を失い、領地を失い、領民を失い、守るもの何もかもを失い、悲しみのどん底に突き落とされたその貴族は、それでも自らを奮い立たせ、領地再興に着手し、今では更なる領地の繁栄を成し遂げた。
心の中で勝手ながら師と仰ぐ、かの大貴族のように、いずれ自分も領地の危機が訪れた時、彼女のように毅然と立ち向かうのだと誓ったものだ。今がその時だ。火事に打ちのめされてどうする。やるべきことをやるのだ。出来ることをすべてやってから少し落ち込もう。
周囲を見渡し、近くの家々を回る。残っていれば声をかけ、女、子どもは館までの避難誘導し、男は消火活動のために率いて指示を飛ばす。近くの井戸までのルートを確保して、桶をリレーして水をかけていく。少しでも火の勢いが弱まれば、と思っていた矢先だ。
「何だおま」
桶が落ちて、水がこぼれた。桶リレーが止まる。
ザジが振り向くと、一人減って、一人増えていた。ここに一緒に来た村の男はザジを含めて七人。うち、桶から水を汲みだしていた男が横たわっていた。体の下から流れ出る血が水と混ざりあって地面に染み込んでいく。
代わりに現れた男は、倒れた村人を一瞥すると、すぐにザジたちの方へと向き直った。
赤い刀身の剣を向けて。
「下がれ!」
とっさに叫ぶが、男の剣が動く方が早かった。最も近くにいた二人目の村人が、袈裟斬りされ、肩から横腹へと真っ赤な線が入る。一拍置いて、血があふれ出した。
悲鳴が上がり、村人の一人はその場に尻もちをついた。男は無情にもその農民の喉に剣を突き立てる。悲鳴はすぐにひゅうひゅうと風が通り抜ける音になり、血と命が溢れ出る音に変わった。
踵を返して少しでも距離を置こうとした村人が、足をもつれさせて転倒する。男の凶刃がその背中に迫る。
あと一歩で命を断てるという時に男が飛び退り、距離を取った。男のいた場所に、農具のフォークが通過した。食事をするときに使うフォークをそのまま巨大化して柄を長くしたようなこの農具は、干し草等を集めるときに使うものだが、先端は尖っているので凶器にもなる。
すぐさまフォークを引き戻し、構えたのはザジだった。
「早く立て! 逃げろ!」
男を油断なく見据えたまま、村人に声をかける。おびえながらも生き残った村人たちは、這うようにしてその場を離れていく。
「貴様、ここをラーワー王国が領地と知っての狼藉か!」
一喝するが、男は堪えた様子もなく、ザジに剣を向けた。
額から滴る汗を瞬きで弾いて視界を確保しながら、ザジは男を注視していた。
敵の装備は剣に革鎧の軽装の部類で、動きやすさに重きを置いている。軍でこういう装備をしていたのは偵察兵だ。偵察兵の目的は、敵の位置の探索、敵陣地等への侵入、そして破壊工作だ。この火も、敵が起こしたものに違いない。
わずかに残っていた恐怖が消え、代わりに怒りが沸き上がった。
天災ならばまだ諦めもついた。事故であるなら今後の改善点にしようと切り替えられた。
だが、誰かの故意の仕業であるなら。柄を握る手に力がこもる。
「ふっ!」
男が前に踏み込み、剣を大きく振った。ガンとフォークの先を叩き、火花が散る。
剣とフォークではリーチに差がある。懐に飛び込まなければ男に勝ち目はない。わざと叩きつけてフォークの先とザジの体勢を崩そうと目論んだのだ。
男の目論見通り、フォークを叩かれた勢いでザジの重心が崩れる。とっさに足を踏ん張るが、ザジの体は両手を広げて迎え入れるような形になってしまった。
男がほくそ笑む。まさに剣を掲げ、ザジの懐へと迎えてもらおうと飛び込んだ。刃が実力差も測れない間抜けな農民の胸に吸い込まれる、そう男が確信した瞬間、男の脳が揺れた。
驚愕に目を見開く男の頭に少し遅れて痛みが到達する。
「そう来ると思ったぞ!」
怒りの形相のザジが叫んだ。
ザジはフォークを叩かれ、体勢を崩したわけではなかった。わざと前に突き出したフォークを叩かせたのだ。フォークの刃先は剣に弾かれるが、その力をザジは殺さず、持ち手を中心にぐるりと回転させ、飛び込んできた男の頭を柄の先で強打したのだ。殺傷力としては刃先の方が強いが、鉄の刃がついている分重みがある。代わりに柄の部分は木製で殺傷力は劣るが、代わりに軽く、早く振ることが出来る。相手の行動を読み切ったうえでのカウンターだった。
膝をついた男をもう一度殴打し、仰向けに倒す。
「田舎貴族と思って油断したな。これでも従軍経験があるのだ」
倒れた男の剣を足で払い、男の胸を踏みつけ首筋に刃先を突きつけた。
「正直に答えろ。いったい何が目的で、我が村を襲う!」
朦朧としているのか、男は寝そべりながら一、二度頭を振った。徐々に目の焦点があったか、ザジと顔を合わせる。
「吐け、貴様は何が目的でここに来た! 事と次第によっては」
そこでザジは言葉を切った。相手の口元が笑っていたからだ。こちらを侮蔑しているのはすぐにわかった。この状況で侮蔑する理由は。
気配を察知し、ザジは身を翻した。鋭い痛みが右腕に走る。取り落としそうになったフォークをすんでの所で握りしめ、左で振るった。無理な体勢で放った力の入らない一撃は、やすやすと弾かれるが、そのおかげで追撃を防ぎ、かつ距離を取ることには成功した。
新手、仲間がいたか。
ザジは歯噛みし、倒した男をかばうように立つ新手を見据えた。よく考えれば仲間がいることくらいわかっただろうに。
「貴様らは、一体何者だ!」
一人を相手するのにも極度の緊張を強いられ、何十、何百回に一回のカウンターで何とか相手を倒せた。実践を離れて久しい身でよくできたと思う。しかしここにきて一対二、しかも相手は二度と油断しないだろうし、こちらは右腕が利かない。絶望的な状況だ。
せめて、問答でもして村人たちが逃げる時間を稼ぐ。そう思い、まだ心折れない領主を演じて声を張る。
だが、男たちはこちらの問いかけに応える様子はない。黙ってこちらに剣を向ける。倒れていた男も回復し、立ち上がった。ここまでか。
「うおおおおおお!」
こちらに剣を向けていた男たちが、その場から飛び引いた。男たちのいた場所を、運搬に運ぶ荷車が通過していく。荷車は丁度ザジと男たちの間に割って入るように止まった。そこへ、火のついた松明が投げ入れられる。荷車に乗せられていた藁が一気に引火し、大きな炎が立ち上った。農道を挟んで、片側にはすでに火が着いて、もう片側も今ので飛び火し、火の手が上がっている。炎で分かたれた形だ。
「領主様!」
松明を投げたのは、先ほど逃がしたはずの村人だった。では、あの荷車を押していたのは残りの三人か。
「早くこっちへ!」
「どうして戻ってきたのだ!?」
「どうでも良いでしょうそんなことは! 逃げましょう!」
確かに今は千載一遇の好機。頷き、腕を押さえながら村人たちの方へ走る。
「館に向かうぞ! 館には傭兵団アスカロンが駐在している! 彼らに協力を仰ぐのだ!」
「はい!」
ザジを中心にして四人は館方向へと向かう。
このまま逃げ切れるか、とザジの脳裏に安堵がよぎるが、目の前を通り過ぎていった現実がそれをかき消した。足元に突き立ち、震えているのは矢羽根だ。飛んできた方向を見ると、先ほどとは別の男が矢を構えながらこちらに近づいてくる。
「走れ! 行け!」
前を走っていた村人の背を叩き、次いで隣を並走していた残り二人の背も叩く。
絞り、放たれた矢が殺意を乗せて背後から飛んでくる。風切る音が耳元で恐怖を煽る。追い立てられる獣の気分を味わいながら、ザジたちは走った。
どうと前を走っていた村人が倒れる。太ももを矢が貫通していた。
「しっかりしろ!」
倒れた村人を抱え起こし、肩に担ぐ。切られた腕の痛みを食いしばって無視し、一歩一歩進む。他の二人も手伝おうとしたが、先に行けと追い払った。彼らが一秒でも早く館に着けば、アスカロンの助けが早まる。それが今、一番現実的な村を助ける方法だ。
「お、俺のことは良いんで、先に逃げてください」
脂汗を流しながら、そんなことを言う男を、ザジは怒鳴りつけた。
「バカなことを言うな! 一緒に逃げるんだ!」
「無理、無理ですって。このままじゃ二人とも追いつかれますから」
「この春に子どもが生まれたばかりだろう! 奥さんと子どもを悲しませる気か!? 諦めるな!」
自分にも言い聞かせて前に進む。
そんな彼らをあざ笑うように、道を遮っていた炎を越えて男二人は射手に追いつき、射手は彼らの背に狙いを定めた。絶対の自信を持つ外さない距離に至り、引き絞り、放
「え」
真っ白な光が飛んできたかと思ったら、射手の視界が意図せずに動いた。せっかく狙いをつけていたのに、どういうことだ。戻そうにも、自分の意志で首が動かない。
「え?」
もう一度同じ言葉を発した。射手の視界が、自分自身の背中を見ていた。首から鮮血を吹き出す自分の体が、ゆっくりと倒れていく。
自分が死んだということを理解する前に、射手は絶命した。最後に見えたのは、奇妙な剣をこちらに向ける女の姿だった。
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