第97話 意地と見栄と体の張りどころ
視界がぼやけていた。
薄れゆく意識の中、カナエはぼんやりとたゆたっていた。
やるだけやった。仲間たちも頑張った。誰にも責められない。都のなまりきったラーワー軍の根性なしの腰抜けどもなら、一合も持たないであろう攻撃を、自分たちは防ぎ続けた。手の皮が破れれば、手に布を巻き付けて盾を掲げ続けた。踏ん張り続けた足は先の戦いで負った傷口から血が再び流れ出している。血と一緒に、意思と力も流れ出ているようで、立ち上がることはできない。
もう立たなくていいじゃないか。これほど傷つけば、動けなくなるのも当然だ。力の限り、力尽きるまで、自分は守備隊としての責務を全う出来た。これ以上はもう、いいだろう。だって、体が動かないのだから。
ぼやけていた視界を、暗幕が覆い始めた。外側から、中へと徐々に暗い部分が増えていく。完全に覆われた時、それが、自分の最後だ。
『・・・エ』
誰かの声が飛びかけた意識を掴んだ。
『お・・・・い。・・ナエ』
声には奇妙な強制力が備わっていた。頭はすでに機能を停止しつつあるのに、それを無理やり動かすような、そんな力だ。もうやめてくれ。限界なんだ。
「起きなさい! カナエ!」
弱気と諦めの暗幕がはぎとられた。
両目の焦点が合い始め、すぐさま周囲の状況に過去の記憶が反映される。そこから、今自分がどうなっているのかを把握する。
目の前に、見慣れた背中があった。
「は、母上・・・?」
守備隊の任務中であることが記憶から飛んでいるため、普段通りに呼んだ。
「起きたわね」
こちらを肩越しに振り向いたイブスキは、薄く笑い、すぐさま視線を前に戻した。
「起きたら、立ちなさい。まだあなたにはやることがあるわ」
「なぜ、母上がここに」
「なぜ? おかしなことを聞くのね。領主である私が、街の危機に体を張らない理由などないでしょう」
そういう彼女の手には、アスカロンから預かった魔道具のデバイスが握られていた。たった一人で、そのデバイスを持っていた。
その意味を理解した途端、全身が粟立った。
「何をなさっているのですか!?」
「自分ができる最善で当然のことをしているのです」
「すぐに離してください! すぐに代わりの者を呼びます!」
「無理です。担当する領民の全員がこの魔道具を使用しました。本来であれば最後の組がもうしばらく耐え、アスカロンから支給された魔力回復薬を服用した最初の組が戻ってくるはずなのですが、先ほどのスライムの攻撃で本来受け持つはずの最後の組の者たちが負傷しました。ならば、手の空いた私が代わりを引き受けるは道理です」
「だからって、本来四名で担当する魔道具ですよ! どれほどの魔力を消費するか・・・すぐに離して」
「お黙りなさい!」
イブスキの喝が、カナエの言葉をかき消した。
「そんなことを言っている場合ではないでしょう! あなたも兵を率いる立場なら状況を見なさい! そして、どうすれば街を守れるかを第一に考えなさい! そんな体たらくで、何が必ず守るですか! そのでかい体は張りぼてですか!」
小柄なはずのイブスキが、カナエの目には巨人に見えた。これが長年ミネラを守り続けてきた女傑かと圧倒された。
「街を、領民を守れずして、何が守備隊か! 私はまだ耐えられます。あなたは立ちなさい。立って守り抜きなさい!」
「お、おお!」
四肢に力を籠める。逃げて抜けていこうとする力をふん掴まえて、震えながらも立ち上がる。
「そうです。率いる者は、倒れてはいけません。我は此処に在りと旗を振るのです。たとえ空元気であろうと、立って見栄を張り意思を示すのです。ならば必ず、共に歩く者、支える者、後に続く者が現れます」
イブスキの言葉を証明するかのように、カナエの周囲で、同じく倒れていた守備隊員たちが立ち上がる。
その動きを感じたのだろうか。スライムの触手が再びカナエたちに迫る。ここさえ落とせば良い察し、ここを落とさなければ厄介と察したためか。
血濡れの指先で盾を掴む。ふらつく足でイブスキの前に立つ。十名で耐えられたものを、一人で耐えられるはずがない。そんなことはカナエにもわかっている。だが、引く気はなかった。自分が引いたら、他の誰もが引いてしまう。守備隊全員の士気にかかわる。それは避けなければならない。
鈍い音が腹の底に響く。
しかし、カナエはまだ立っていた。なぜなら、スライムの触手は自分の目の前で防がれていたからだ。
「遅くなって申し訳ない」
彼の前には幾重もの盾が掲げられていた。それを持つのは、この街のマイスターたちだ。
「危ないところでしたな。間に合って良かった」
そう言ったのは、マイスターファキオ。
「あなた方は、どうして・・・」
「鉄も粗方流し終えましたし、風を送るのは女達に任せて馳せ参じました」
「それよりも、鍛冶師なのに」
「驚かれることはありません。鍛冶屋は、戦士以上に武器の使い方を熟知しとかなきゃならんのです。自分たちの作ったものくらい、一通り使えますとも」
そういうことを聞いたわけじゃない。怖くなかったのかと問いたかった。訓練してきた自分たちでも、このスライムの前に陣取るのは相応の覚悟と恐怖があった。なのに、これまで戦いなど無縁だったはずのマイスターたちに恐怖はなかったのかと。
「恐怖はありますとも。しかし、それよりも守らねばならぬものがあります」
「それは、何なのだ。命を失う恐怖を押さえつけるものとは」
「未来です。儂等が立て直したこの街で生きる、弟子や、あなたや、若い衆たちの未来が失われることが、儂等には到底耐えがたいのです」
ま、後は、とファキオたちは、カナエの後ろに視線を向ける。
「男とは、いつまでたっても女の前では恰好をつけたいのです。命を懸けられる程度にはね」
ニカッとファキオが歯を見せた。他のマイスターたちも同じように笑っていた。
「それよりも」
ファキオは再び盾を構えた。再び触手が天から降ってきたからだ。
「また来ますぞ。使えるとは言っても、素人のジジイばかりです。練度は本職には遠く及びません。ですが、優れた指揮官の指示であれば、ジジイでもそれなりの働きができるのではと思います。どうぞ、儂らを使ってください」
ああ、これが。
彼らの姿を見て、イブスキの背中を見て、理解した。これが領主と領民の正しい関係性なのか。金ではなく、権力ではなく、地位や身分ではなく。長きにわたる信頼によって繋がっているのか。これが、自分が今後求められるものか。
これまでの己だけを鍛える修業とは違う、新たな修業の道に、カナエは武者震いした。
「隊長、俺たちも行けます」
ふらふらになりながら、それでも抗う意思を失わない隊員たちが復帰した。
この修業は厳しいものになる。だが、こいつらがいてくれれば、俺だって。
カナエは一つ頷き、指示を飛ばした。
「お前らはマイスターたちの間に入れ! 全体の動きを把握し、マイスターたちをリードしろ! マイスターたちは彼らの動きにタイミングを合わせてくれ!」
「「応!」」
「お前らの命、俺が預かる! 領主を、街を守るぞ!」
カナエの声に応えるように、守備隊とマイスターたちの盾はスライムを防いだ。
流れが変わる。
何度も戦いを潜り抜けてきた経験の賜物か、戦況に変化が起きる予兆のようなものに気づけるようになった。
解けると思ったコーティングがイブスキのおかげで維持できた。スライムに押し潰されると思ったイブスキは復帰したカナエと守備隊、そして鍛冶師の親方衆に守られた。ほんの少しの影響がいくつも積み重なって、現状に変化をもたらす。
コーティングが保てば炎は維持され、スライムは溶ける。
イブスキが生きていればミネラ守備隊と領民の士気は高く維持できる。
だから、この変化も当然で、私たちに勝機が見えたってなにもおかしくない。
穴から頭が見えなくなるほど体が溶けて縮んだスライムが、ひときわ震え、今までにないくらい高く触手を伸ばした。
「アカリ!」
突如プラエが叫んだ。
「トニトルス用意して! あれ、コアかも!」
「コア?! アレがですか!」
「確証はないけど! 今までの触手伸ばすパターンとは違う!」
彼女の言う通り、触手は暴れるわけでもなく、むしろ私たちから距離を取るように伸びている。命の危機を感じ取って、最も大事な部位を逃がす、その可能性は高い。彼女の勘に賭ける。
「狙撃部隊! テーバさん! 聞いてました!?」
「聞いてんよ! 準備しといて正解だな!」
「狙って!」
言いながら、自分は触手の伸びる先へと走る。
「撃て!」
トニトルスが東雲の空を駆ける。雷光をまとい、弾かれることなく触手に突き刺さった。
電流が走る。
「色が違う!」
思わず叫んだ。触手の先端だけが青く変色した。先端は電流を浴びながらも、それでも伸ばす速さを保ちながら私たちから離れていこうとする。
逃がすつもりはない。ウェントゥスを構える。
「食い逃げは許さないわ」
狙い定め、撃つ。現状最大幅の刀身が過たず触手先端、コア部分を切り落とす。コアは丁度鉄を流す溝に落ちた。粘液の部分がないため思うように動けず、コーティングされているために地面の隙間に逃げることもできないコアは、そのままつるつると滑り、穴の中へ落ちた。今度は震え体で悲鳴を表現する暇すら与えられず、一瞬で蒸発した。
代わりに街が歓喜で震えた。それを見届けた一人の女傑が、笑顔のまま倒れていった。
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