第61話 第二の矢

 水面が僅かに波打つ。真上から見ると円の形をしているアルボスは、北部の一部、円の上部が川となっている。治水工事によって街に用水路が引かれ、川から流れ込む水が住民達の生活用水として使われている。これまで氾濫することのなかった、穏やかな流れに乱れが生じ、水中から黒い影が浮上する。影達は可能な限り音を殺し、明りもつけずに水中を移動して、街へと流れ込んだ。網の目のように張り巡らされた水の迷路を、彼らは迷うことなく進み、やがて領主の館へと到着する。

 事前に調べた結果どおり、水路は館の炊事場へと繋がっていた。最初に水面から顔を出した影は、そこに使用人などがいない事を確認し、ぬるりと水を滴らせながら上がる。素早く出入り口付近に張り付き人の気配がない事を確認して、水面から様子を伺う仲間たちにハンドサインで合図を出した。途端、とびうおの群れの如く水面から何人もの影が飛び出して、炊事場は瞬く間に人口密集地へと変貌した。

 軽装で現れた彼らこそ、エクゥウスの第二の矢である精鋭三十名だ。現在アルボス東部で奮戦しているエクゥウスも、街を滅ぼすための本命の一矢であることに間違いはない。間違いではないが、エクゥウス傭兵団団長シフは、もう一矢放っていた。どうしても、偵察部隊との連絡が途絶えているのが引っかかっていた。もしかしたら、敵は自分達の計画や動きを読んでいるのではないか、という疑惑がどうしても頭から離れなかった。そうなると、今自分の手元に送られてきている情報には、敵の嘘が含まれているのではないかと疑いたくなってくる。団員達の力量を疑うわけではないが、あまりに自分達の狙い通りに事が運んでい過ぎている。

 シフはジュールが知らない計画で、かつ自分達がその情報を頼りに動いていると敵に思わせるために、団の九割をこの東からの突入に注ぎ込んだ。果たして彼の推測通り、東側にはボース傭兵団が、おそらく全部隊を投入して自分達を待ち構えていた。

 熾烈を極めるのは確定した。しかし、勝利を確信した。ここにいる自分達が本命だと思い、敵の意識は全て自分達に注がれる。意識が自分達に向けば向くほど、第二の矢は悟られない。


 団長や仲間の思いと命を背負い、三十名は館内部を探索する。炊事場から出発し、ホール、応接室、食堂と油断なく見て回る。しかし

「・・・いない?」

 部隊を率いる隊長が、違和感を覚えはじめる。傭兵達を雇い外の守りを固め、領主はこの館の中で篭城しているはず。私兵も外に回しているだろうが、数名くらいは待機させているはずだ。他にも使用人などが存在していなければおかしい。

 くまなく探したが、結果は同じだった。一階には誰もいない。彼らは二階へと歩を進める。ホールより階段を上がり、寝室、執務と探すが、人の影も気配もない。隊長の違和感を証明するように、館内は無人だった。彼らの湿っぽい足音だけが空間を揺らす。

 いや待て。自分達は確かに水から上がったばかりだが、いつまでもぴちゃぴちゃと水溜りを歩くような音がするのはおかしい。隊長は目を凝らして足元を見た。館内に設置されている松明の明りが、揺れながら床を照らす。自分の足元の床が揺れている。何らかの液体が床に撒かれていて、自分の足先がそこに浸かっていた。音は、この床に巻かれている液体を自分達が踏んでいたためだ。

 人の気配がないのは、もしや慌てて脱出を試みたためか。その際、床に水か何かを溢した・・・? ここに領主がいないのはほぼ確定した。では一体どこに消えたのか。よく、王侯貴族は城攻めにあった時の為に、秘密の地下通路などを作っておくと聞くが、このアルボスにもあるのだろうか。

 否、と隊長は否定する。アルボス周辺も自分達はかなり丁寧に下調べを行った。脱出口のようなものは見当たらなかった。

 答えは見つからない。となれば、次に自分達がとれる方法は少ない。館を脱出し、今も戦っている仲間たちに合流するのが無難な方策だ。団長に結果を報告し、次の手を打たなければならない。

 撤収、そう部下達に声をかけようとした瞬間。突如としてガラスが割れる。団員達が咄嗟に体を庇い、物影に隠れる動きは見事だった。しかし、投げ入れられた物は彼らを狙った物ではない。

 放り込まれたのは火のついた球だ。球は一、二度床で弾み、床に撒かれた液体、油に飛び込む。

 ごうと炎が立ち上がり、彼らを包んだ。

「嘘だろ!?」

 思わず叫んだ。立った一言に、幾つかの意味が込められている。自分達の潜入が敵に悟られていたという事実。罠に嵌ったという事実。炎に囲まれ自分達の身が危うい事実。そして、敵は領主の館に平気で火を放てるという事実。

「逃げろ! 脱出だ!」

 悪夢のようだった。勝利を確信していたのが一転、何も手柄を上げられずに敗走に追い込まれているのだから。

 寝室から飛び出すと、他の部屋を探索していた部下も飛び出してきた。どうやら、周囲から火の球を投げ込まれたようだ。暗闇に慣れた目を焼く赤い炎と黒い煙が部下達の後を追うように溢れ出している。先を競うように部下達は廊下を渡り、階段へと一目散に走る。自分も続こうとした隊長だが、急に立ち止まった。培われた経験と、そこから生まれる勘が、彼に進むなと告げた。何故かは説明できない。しかし、今の状況と、建物の構造を見て、理由よりも先に結果が来てしまった。

「隊長、何してるんですか!」

 後ろにいた部下が立ち往生している隊長に声をかける。それでも彼は動けない。もうすぐなぜ危険かの答えが導きだせそうなのだ。彼を追い越して行こうとする部下の襟首を掴む。そうだ。人も動物も、火に対して根源的な恐怖を持っている。だから逃げようとする。少しでも早く。そこに理性はない。命の危機を前にして、統率された動きなどそう出来る物ではない。だから今、彼らは人数も幅も考えず、狭い階段を一斉に降りようとして・・・

「・・・駄目だ! 全員、階段から離れ」

 彼が指示を飛ばす頃には、既に部下の半数は階段を降り始め、四分の一が階段付近の廊下で前の人間の背を押して急かしている。

 そんな中、一瞬光が瞬いた。

 全身に衝撃が襲いかかる。隊長と階段に辿り着いていなかった部下達は数メートル後方へと吹き飛ばされ、背中や頭を強かに打ちつけた。むせながらも、体勢を立て直す。

 気づいた時には遅かった。炎は自分達を殺すための手段ではなく、混乱を引き起こすための手段だった。冷静に考えれば、レンガ造りの館があの程度の炎で全焼するわけがない。本命は、自分達を混乱させ、階段に集めることだった。階段の下に設置した何らかの魔道具で一網打尽にすることだったのだ。悔やんでも悔やみきれない、失態だった。

 目の前には、失態の代償の地獄が広がっていた。飛び散った破片が体に突き刺さり、呻いている部下達はまだマシな方だ。生きているのだから。しかし、階段にいた連中は声すら出せない。手足は引き千切れ、頭や胴体は著しく損壊している。どれが誰のパーツか分からない状況だ。

「ちょっと、想像以上でしたね」

 自分達ではない者の声が、爆発で空いた壁の穴から聞こえる。若い女の声だ。穴をくぐって現れたのは、声の想像どおりに若い女だった。だからこそ、隊長は恐怖した。その若い女は、平然と血や屍骸が散らばる場所を闊歩して、人が死んでいる事実よりも、自分達がもたらしたであろうその効果の方に興味を持ち重点を置いている。彼女の後から、ぞろぞろと現れた傭兵達が仲間だった物を踏み荒らしていく。

「プラエさん。魔力を込めすぎたんじゃないですか? これ、後で修繕費を請求されませんよね?」

「大丈夫じゃない? 一応領主の言質は取ったわよ。敵を倒すために館の一部を破壊するかもしれませんよって。そしたら人命には変えられないって許可くれたじゃない」

「領主の渋面が見えるようですね。一部、と押し通して良いものでしょうか?」

「大丈夫よ。人命優先だもの。仕方ない犠牲よ」

「命あっての物種ってことですか」

「そうそう。それ。死んだら直すことも出来ないのよ? そういう論調で押し通せるわよ」

「だと良いんですが。しかし命が大事なのは、私たちにも当てはまりますね」

 女の視線が上を向いた。隊長と目が合う。

「まだ敵がいます。油断なくいきましょう」

 傭兵たちは武器を構え、自分達を見据えた。

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