第32話 破滅の足音
インフェルナムが後退した。鼻を何度も動かしながら、宿屋の方へと戻っていく。
「第五部隊、全員無事か? 無事なら返事しろ」
インフェルナムが崩し、分かたれてしまった城壁の対岸からラスの声が聞こえた。土煙は既に下に落ちきっていて、崩された城壁の全貌が明らかになっている。私とバーリが無事だと返事すると、ラスがほっと息を吐いた。
「各員、まだ気を抜くな。いつでも動けるようにしておけ」
言われるまでもない。私は、必死で鼻を動かすインフェルナムの尻を、穴が開くほど見つめていた。ちょっとの異変も見逃さない。そんな意気込みで見つめ続けていると
「・・・あれ?」
違和感。何かが変わったのに、何が変わったのか説明できない。瞬きする前と後で、何かが変わっているはずなのに。インフェルナムに動きはない。一歩も宿屋前から動かずにじっとしている。
何だ。何だ。何だ。頭はフル回転し、視線は片時もインフェルナムから外さない。額から流れる汗を手早く拭う。こんな時に、汗で視界を妨げられたく・・・
「え・・・」
何で、こんなに汗をかいているんだ? 意識の全てをインフェルナムに注いでいたからか、サッパリ気づかなかった。一度気づくと、体が気づいてもらえて嬉しいのか、滝のように汗が流れ始める。背中は既にぐっしょり濡れて気持ち悪いほどだ。こんな状態になるまで集中していたのか。いや、流石にそれはない。自分がそこまで鈍感とは思いたくはなかった。ここまで不快感が高まったら、インフェルナムをここまで集中して見ていられなかったはずだ。なら、この汗は突然拭き出てきたという事になる。激しい運動をしたわけでもないのに汗が出ている。考えられる理由は一つ。外気温が上がったためだ。
違和感に気づいた。インフェルナムにもう一度視線を向ける。今度は全体を見るようにして。インフェルナムはほとんど変わっていないように見えていた、が、一瞬ぐにゃりと姿が歪む。陽炎が昇っている。周囲の空気の温度が違うせいだ。インフェルナムが体から発する高温のせいで。なぜ、そんな高温を発しているのか、これは、卵がここにないから次に移動する、といったような理由ではなさそうだ。
「全員」
ラスが枯れた声で指示を飛ばす。
「全員、物陰に逃げろ・・・っ」
言葉を言い終える前に、私はバーリと共に走っていた。目指すは城壁の陰。出来るだけ隙間がなく、厚みのある場所へ。
ふいにインフェルナムが顔を天へ向けた。その横顔を一瞬だけ見る事が出来た。悲しげな、もしくは怒りに満ちた、あらゆる感情がない混ぜになったような顔をしていた。
オオオオオオオオオオオオオオ
咆哮が、空気の層を弾き飛ばし、熱波が周囲にばら撒かれる。
「奴らは対応を誤った」
ラテルの街から離れた場所に敷かれたラテル軍陣地の中央で、優雅に酒の入ったグラスを傾けながら、ラテル守護国の次期王フィリウス王子は笑った。彼の視線の先には、炎の竜巻が天を衝いている。彼が収めるべき国が燃えている。だというのに、彼の顔には冷笑が張り付いている。どうせ立て直すから、いっそまっさらにしてくれた方が都合が良いと言いたげだ。
「目のつけどころは悪くない。インフェルナムは卵の匂いに誘われて現れたわけだから、その匂いをどうにかすれば良いと考えるのが普通だ。だが、それは、餌に誘われて現れた獣の対処のようなものだ。餌がなければ、確かに餌狙いの獣は立ち去るだろう」
しかし、とフィリウスはグラスをあおった。
「根本的な勘違いをしている。貴様らの前にいるのは獣ではない。卵を盗まれた親だ。すぐ近くにあったはずの卵が失われれば、親はどう出ると思う? きっと、卵は破壊されたと勘違いし、嘆き、悲しみ、そして、怒り狂うだろうさ。貴様らの最善策は『インフェルナムがこの匂いは偽物であると気づくまで放置する』事だったのだろうな。まあ、そんなもの気づけといわれて気づけるものではない。偉そうに言っているが、これはトリブトムの連中から得た情報で繋ぎあわせた私の推測に過ぎないけどな。が、あの様子を見るに、推測は正しそうだ」
立ち上がり、フィリウスは部下達に撤収命令を下す。かなり距離を取っているが、それでも万が一が起こり得る可能性もある。こちらの居場所をインフェルナムに察知されて、卵を奪った仲間と思われるのは避けたいところだ。
「怒り狂う親は、きっとまわり全てを燃やし尽くすまで止まらんだろうよ」
さようなら、ガリオン兵団。そう言い残して、フィリウスはマントを翻した。
灼熱の嵐が過ぎ去った後、恐る恐る城壁の陰から覗き見た。真っ赤に染まったインフェルナムの周囲は、ぽっかりと空間が広がっていた。密集していたはずの家屋は、先ほどの高温によって脆くなり、暴風によって吹き飛ばされてしまった。そして、それは宿屋も例外ではない。上原がいたはずの宿屋も、完全に倒壊していた。
「う、うえ、はら・・・?」
呆然と彼の名前を口に出す。実感がわかない。本当に死んでしまったのか? こんな、こんなにあっけなく?
「まさか、団長まで・・・」
隣で、バーリが呟く。そうだ。ガリオンも一緒にいたし、プラエもいたはずだ。彼らも死んでしまったのか?
「ぼうっとすんな!」
そんな中で、いち早く体勢を立て直したラスは流石と言える。
「逃げるぞ!」
「に、逃げる・・・?」
周りの団員が困惑した顔でラスを見上げた。
「体勢を立て直すにしても、何するにしても、ここから引く! 団長が死んだとは限らん。生きてりゃ合流出来るかもしれねえ。こっちも同じだ。生きてりゃ何とか」
ラスの言葉を轟音が遮る。全員が音の方へと顔を向けるとインフェルナムの頭が東門に突っ込んでいた。瓦礫を崩しながら、インフェルナムは顔を上げ、とんでもない重低音を叩き出した体とは思えないほど身軽な足取りで城壁に昇った。奴の足元には逃げ惑う別の部隊員がいる。その彼らに向かって、インフェルナムは炎を吹き出した。先ほどの弾のような形状ではなく、放射といった表現が正しい。炎は蛇のようにのたうちながら、城壁を一直線に駆けぬけ、東門と北門の境まで伸びた。炎が通り過ぎた後、残ったのは黒い影だけだ。人の形をした影が、点々と熱された城壁にこべりついている。ほんの少し前まで、生きていた団員達が、この世から蒸発した。
喉のおくが張り裂けた。自分で出すつもりのない悲鳴が勝手に出ていたのだ。踵を返し、少しでも奴から離れるために走る。こんなに足が遅かっただろうか。力も上手く入らない。城壁の上にいたら同じ目に遭う。その恐怖が足に穴を開けて、力がそこから抜けていくのだ。息だけが切れる。体が重い。それでも逃げなきゃ死ぬ。がむしゃらに走った。
ガン、ガン、ガン、ガンと掘削音にも似た足音が遠くから近付いてくる。考えるまでもない。死神の足音だ。足場を削りながら飛ぶように跳ねている。リズミカルに、軽快に、人に死を運ぶ。奴が正面に立つまでの間に、階段から下に降りなければならない。一直線の城壁に、こんなデメリットがあるなんて思いもよらなかった。きっと誰も予想だにしなかっただろう。城壁沿いに炎を吐かれれば逃げ場がなく全滅するなど。
しかし、私たちの前に絶望が横たわった。先ほどインフェルナムによって崩落させられた城壁は、私と階段を分断していた。逃げ場がない。
足音が止んだ。振り返ると、インフェルナムが真正面にいる。口腔から赤い炎を漏らし、こちらを睥睨している。
「飛べ、アカリ!」
隣にいたバーリが、私を突き飛ばした。心構えも何も出来ずに、崩れた城壁の隙間にゆっくりと落下していく。首を巡らせると、私を突き飛ばした態勢のバーリが目に入った。彼の口元が、ゆっくりと動く。い、き、ろ、生きろ。そう動いた後に笑みを作った。西日のような強烈な光がバーリの背中を赤く染め、炎が通過し、視界を覆い尽くした。
「いやぁあああああああああああ!」
悲鳴を上げながら、私は落下していく。
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