第33話 本能全開

 曇天の空が広がっていた。

 頭が混乱している。どうして私は、空を真正面に見ている状態なのか。そこで、自分の体が横たわっていることを理解する。なぜ横たわっていたのか理由は分からない。ともかく体を起こそうとすると、激痛が走った。全身から危険信号が発せられ、これ以上動くなと脳に訴えかける。特に背中と右肩が酷い。呻き声が食いしばる歯の隙間から漏れる。一体何があったのか。痛みに妨害されながらも記憶を探る。

「そうだ、確か、私は」

 インフェルナムに襲われた。城壁の上を疾走してきたインフェルナムは、私たちをまとめて焼き殺そうとした。逃げ場のない一直線の城壁上に炎を撒き散らして。私と、それから一緒に逃げていたバーリは、城壁から降りるための階段に向かっていて、それで

「階段には辿りつけなかった」

 その前の襲撃で、インフェルナムに城壁を破壊され、通路が寸断されてしまったからだ。幅跳び世界一でも無理そうな断崖が前にあり、後ろにインフェルナムの炎が迫っていた。それで、

『飛べ、アカリ!』

 バーリの声が聞こえた。彼に突き飛ばされ、私は中空に投げ出された。振り返って見えたのは、バーリが・・・

「うぐ、ぐ、ぐぅぅぅ」

 目の前で彼は死んだ。私の身代わりになった。体と心が痛むが無視して、ゆっくりと体を起こす。最後にバーリは言っていた。生きろと。その言葉が、絶望と諦念に満ちた私の体を動かす最後の燃料となっていた。だから、落下中にも体は生きるための選択を取り続けた。右腕が崩れた城壁の一部に引っかかり、落下のスピードを緩めた。丸めた背中は派手にぶつけたが、頭を守る事には何とか成功した。

「生きてやる」

 バーリ、あなたに言われた通りに。右肩を左腕で押さえ、動くたびに走る痛みを無視して行動を開始した。とはいえ、当てはない。城壁にいた第五部隊の皆は無事逃げられたのだろうか。他の部隊の団員たちは大丈夫だろうか。上原は生きているのだろうか。彼らに合流できれば、逃げるにしろ何をするにしろ、自分に足りていない技術も知恵も補ってくれるはずだ。そのためには、こちらも動き、探さなければならない。ただ、闇雲に探し回っても合流できないだろう。生き残っていると仮定して、彼らの行動を推測してみる。この状況になれば、打てるのは逃げの一手くらいなものだが、どこからどう逃げるのかが問題だ。普通に考えれば、もうラテルの外に逃げているだろう。対して私が今いるのは内側だ。まずは城壁の外に出るべきだと考え、振り返る。インフェルナムが崩した場所はどうだろう。

 高い城壁が逆三角形に削られている。天辺は五メートルほどだが、下に視線が向かうにつれ、城壁の避け目も狭まり、私の身長よりも少し上くらいで裂け目は終わっている。よじ登り、隙間から抜けられるか。左腕を伸ばすと裂け目の終端に手が届き、瓦礫に上手く指がかかった。これ以上ないってくらい握り締め、右足、左足と順番に城壁のレンガの隙間にかける。よし、体勢を保持出来る。残るは怪我が痛む右だ。ゆっくりと可動域を広げる。手が肩の高さまで上がったあたりから痛みが酷くなっている。血管が脈打つのが分かるほどだ。

 痛みを数値化するわけじゃないが、我慢出来る値を百として、今六十くらい。まだいける。平常時ならなんて事ない動作に時間と労力を使う。しかも急がないといけない。正直、痛みに気を取られすぎて左手の握力に費やす体力が尽きそうだ。だが、もう少しで右腕も裂け目に手が届く。痛み指数は八十を超えたが、同時に右手の指が裂け目に届いた。もう少しだ。

 左腕にかかっていた自分の体重が消えた。声を出す事も出来ず落下する。痛み指数二百くらいの激痛が背中に走り悶絶する。転げまわりながら、涙の浮かぶ目が見たのは、瓦礫の一部を握ったままの左手だ。どうやら握り込んでいた部分が欠けたらしい。八つ当たりで欠片を投げる。そのせいで筋肉が引っ張られ、右腕と背中が余計に痛んだ。どうして私がこんな目に遭わなきゃならない。痛みとは別の理由で涙がこみ上げてきた。

 運命って奴は、私にその涙すら流す猶予を与えないらしい。

 欠片が転がっていく方向が、赤く照らされている。欠片から、その奥へと視線が吸い寄せられ、徐々に上へと上がっていく。

「・・・ははっ」

 笑うしかなかった。冗談みたいな悪状況の連鎖だ。こっちは満身創痍、逃げ道もない。で? 目の前には仁王立ちしたインフェルナムか。よろめきながら、体を起こす。

「上等よこの野郎」

 逃げも隠れも出来ない。命乞いが聞くような相手じゃないのはトリギェで証明済みだ。恐怖心は積もりに積もって麻痺し、感じなくなってる。左手で左腰に佩いたウェントゥスの柄を逆手に握り、投げるように引き抜く。鞘から抜けきったところを、タイミングよく順手で受け、構える。

「生きてやる。絶対に」

 恐怖や絶望が多すぎて感覚が麻痺した中、唯一残ったのは、インフェルナムの炎よりも激しく燃える生存のための本能だ。他者を喰らって生きる生物の性だ。だから、戦いを選んだ。

 私の戦意を受けたか、インフェルナムの鱗の色も更に赤く輝きを増した。乱杭歯を向き出しにし、荒々しく鼻息を噴出した。

 勝てる見込みなんてこれっぽっちもない。けれど、生きろと言われたのだ。生きると決めたのだ。このクソみたいな状況から。


「おおおあああああああああああああ!」


 オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!


 互いに咆哮を上げる。一歩を踏み出す。相手に比べれば弱々しいにも程がある一歩だ。それでも、おそらくこれまでの、短い生涯の中で最も強く自分の感情が反映された一歩だ。

 駆ける。相手まで五十メートルほど。普段なら七秒くらい。今の状況だとプラス三秒くらい。対してインフェルナムの口腔は赤く輝き、炎が発射される一秒前ってとこか。

「そいつを待ってた!」

 でかい口をこっちに向けると思ってた。ウェントゥスの引き金を二度引き、インフェルナムに向ける。狙う必要がないくらいだ。ありったけの力を込めて、魔力を注ぐ。一秒もかからず、ウェントゥスの刃はインフェルナムに届く。肉と硬い何かを裂く手応えが風の刃越しに感じた。


 ギャウン


 痛みのためか、インフェルナムが顔を逸らした。口腔内の炎は消え黒い煙だけ残して不発に終わる。しかし、とどめにはほど遠い。インフェルナムが怒りの視線をこちらに向けた。歯が一本欠けている。さっきの手応えはあれか。頭蓋骨とかじゃなかったのか。最大のチャンスだったのに。ガランとウェントゥスを落とす。

「ここまで・・・なの?」

 走る気力も尽きた。けどまだ立って意識を保っていられるのは、プラエの教えのおかげか。気を失うまで魔力を使いきるな、だったっけか。こうなるなら、いっそ使いきってしまっても良かったんじゃないのか?

「ここまでじゃない」

 どこからか声が飛んだ。同時に、四方の家屋から何本もの鉄鎖が飛んだ。鉄鎖は意思を持ったかのようにインフェルナムの首や口元、足に巻きつく。

「ようやく怯んだな」

 声が上から降ってくる。見上げると、鉄鎖が伸びる家屋の一つから、ギースが顔を覗かせていた。

「たとえインフェルナムといえど、先程のような大規模な爆発を、すぐには起こせまい」

 額に血を滴らせながらも、ギースは笑って鉄鎖を握り締めていた。彼の後ろには第一部隊の団員が綱引きのように並んでいる。いや、実際綱引きと同じだ。せえの、と掛け声がかかり、鉄鎖が四方から引っ張られる。

 第一部隊は最悪の場合である戦闘に備え、プラエ特性の鉄鎖を持って、家屋内に潜んでいた。もちろんインフェルナムの動きを封じるためだ。動きが早すぎて捉えられず今までくすぶっていたが、さっき隙が出来たのだ。私の足掻きは、無駄じゃなかったんだ。

 インフェルナムも負けじともがく。力自慢の第一部隊が、四方から引いているにも拘らず、インフェルナムに力負けし、引き摺られている。

「かかれ!」

 跳ね馬のようにもがくインフェルナムに飛びかかる一団。あれは、ラスと、第五部隊のみんなだ。他の部隊の団員もいる。城壁にいた囮部隊や、爆発を逃れた捜索部隊の生き残りを集めたのか。しかも、あれは、後ろ足で蹴られそうになっているのは

「うえはらぁ・・・」

 生きていた。彼は生きていたのだ。ラスと共に、最前線で戦っている。良かった。本当に良かった。こんな状況にも関わらず、私は彼の戦いぶりから目が離せないでいた。彼は自分のことをヒーローじゃなかったと苦笑していた。けれど、きっと、彼はヒーローになれる逸材なのだ。あの爆発で死んでもおかしくなかったのに生きていたし、ピンチになると颯爽と現れて、巨大な敵に臆することなく挑んでいる。これがヒーローでなくてなんだというのだ。

「本当にもう、あの爆発はこねえんだろうな!」

 上から降ってくるインフェルナムの足を掻い潜りながら、ラスが叫ぶ。

「証拠はその鱗よ」

 背後からプラエの声が聞こえた。体を引き摺るようにして彼女が私の隣に立つ。綺麗な顔は煤だらけで、長かった髪がショートカットになっていた。腕や足の一部が酷く焼け爛れている。目を背けたくなるやけどの後だ。

「インフェルナムの鱗は、炎を放つたびに色が薄くなっていた。ただ時間が経つと元に戻るけどね。どういう原理かわからないけど、体内で可燃性物質を生成すると、その量によって鱗の色が変わるのよ。今の色合いなら、口から炎を吐くのが精一杯でしょうね・・・多分」

「今小声で何か言わなかったか!?」

「言ってない! 大丈夫だからそのまま頑張んなさい!」

 大声で叫んだ後、プラエが崩れた。思わず手を伸ばし、自分も引き摺られ、一緒に倒れてしまう。再び痛みが全身に走る。

「あんた、また魔力全部注ぎ込んだわね。逃げる力すら使い果たしたんでしょ」

 恨みがましい声が頭上から聞こえる。

「すみません」

「意識を保っているだけ、前よりはマシね」

「プラエさんも、無事で良かった」

 無事とは言い難いわ、とプラエが押し殺した声で言った。

「死んだかと思ったし、今も死ぬほど体痛いけどね」

「ご、ごめんなさい」

 自分がやけどの酷い彼女の上に乗っている事に気づき、可能な限り素早く退く。

「大丈夫よ。この程度のやけどなら死なないし、治せるから。死ななければ、何とかなるし、何とかするってのに。団長・・・」

「まさか、ガリオン団長は・・・」

「死んだわ。私たちを庇ってね」

 そんな、あの屈強な団長が? 信じられなくて呆然としている私の手を引いて、プラエは立ち上がった。

「悲しむのは、後にしましょう。私たちの戦いは、まだ終わっていないんだから」

 インフェルナムを見据えながら、プラエが言った。

「勝てるかどうか分からない戦いを挑むのは二流の傭兵だけど、団長を殺されて、おめおめ逃げるわけには行かないのよ」

 面子と生存を賭けた仇討ちが始まる。

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