第30話 プラエの回想その二

 生きた心地がしない。

 窓の外に、巨大な牙が覗く。吹きつけられる鼻息が窓を曇らせる。その度にプラエは、心臓が縮こまるような思いと、額から滴り落ちる汗を拭わなければならなかった。彼女がいるのは自分が使っていた部屋の戸棚の裏だ。部屋の中は前以上の荒れ放題で、足の踏み場すらない状態だ。

 欲をかくんじゃなかったなぁ・・・

 心の中でプラエは後悔していた。彼女の両手には、貴重な魔術媒体や資料が抱えられていた。目的はインフェルナムの卵を探索する事で、荷物を運び出す必要なんかなかったはずだ。


 彼女も当初は、自分の荷物になど目もくれず、卵を捜索した。

 しかし、ない。どれだけ探しても卵など存在しなかった。いくら散らかし放題の部屋とはいえ数人がかりでひっくり返して、天井や床板まで剥がして探しても存在しないのなら、ここではない。一緒に探していたガリオンはそう結論付けた。ここまで、三分もかかっていない。すぐさま他の部屋も同様に捜索するが、同様に発見できない。焦りが募るばかりだ。もう一度プラエは自分の部屋を探しに戻った。見落としなどがあるかも知れない。ガリオンたち他の団員も同様に、各部屋や食堂、調理場に散った。

「くそ、ない、ない、ない・・・」

 ばさばさと無造作に詰まれた本をひっくり返すと、ガラガラと音を立てて触媒の詰まったビンが当たった衝撃で転がっていく。どうして整理整頓できないのかとギースたちに叱られている過去の映像が脳裏に浮かぶ。その時は、この場所にコレがある方が便利、だとか、自分なりに仕分けして置いている、とか、あれこれ言い訳して、結局片付ける事はなかった。

「心底から反省してる。心を入れ替えてこれからは片付けする。だから、さっさと出てきてよ・・・!」

 唇を痛いほど噛み締めながら彼女は部屋の隅から隅まで舐めるように探した。だが、その努力むなしく、卵は見つからなかった。途方に暮れるプラエ。

 この、途方に暮れたのがまずかったのだろうか。張りに張った緊張の糸が一瞬緩むと、同時に卵を探す事だけに集中していた頭の中に雑念が生まれる。彼女の中に計算が走った。卵は引き続き探す。けれど、おそらくそろそろタイムリミット、ガリオンは撤退命令を下すだろう。作戦変更もありうる。そうなると、ここに戻ってくる事は難しくなる。

 視界に、自分がひっくり返した魔術媒体やこれまで作ってきた魔道具などの設計図や資料がある。魔術師にとって自作の魔道具の資料は歩いてきた人生そのものだ。集めた媒体は財産だ。戦闘がもし始まれば、ここは瓦礫に埋もれ、炎にまかれるかもしれない。全てが灰になってしまう。自分のこれまで積み重ねてきた物が無駄になるかも知れない。この一瞬だけ、彼女の中の優先順位が変わった。理性よりも感情と欲望が勝った。最小限の荷物だけ。希少な物だけ。持って走るのに支障が出ない分だけ。心の中でそう言い訳して、彼女は私物を選別した。もう少しだけ、もう少しだけと欲をかく間に、撤退の合図に対して判断が遅れた。

 本来彼女は後方支援がメインで、前線に出る事などほとんどなかった。だからだろうか、引き際を見誤った。生死を分けるような瞬時の判断力において、他の団員達よりもどうしても経験値において劣ってしまう。それに加えて、今は目の前の欲望に忠実で完全に気をとられていた。撤退ぎりぎりのラインを見極めてのガリオンの号令では、間に合わなかったのだ。

 プラエの部屋は、宿の一階の奥側で、出入り口から離れた場所にある。出入り口は通りに面しており、各部屋の窓も同じ面を向いている。それ以外は調理場から出る裏口があるが、用心深い店主は食堂を占めている時間は鍵を閉めている。鍵を壊して裏に出る事も考えたが、呼吸音すら潜めているこの状況では、破壊音を立てるなど自殺行為に思えた。

「なんでドアが閉まってんのよ・・・」

 閉めた奴今度しめてやる。小声で恨み節を吐くが、そもそもドアが閉まっているのは、ドアの裏を捜索した時に自分が閉めたためだ。完全に自己責任で、彼女もその事を理解している。理解して愚痴っている。愚痴らずに、内にストレスを溜め込んでしまったら、本当に気がおかしくなりそうな状況だった。少しでも悪態をつくことで、心の平衡を保とうとしていた。

 みしみしと壁が悲鳴を上げた。強度が低下し、二階の重みに耐え切れなくなっている。インフェルナムがこの部屋を中心に、更に鼻を強く擦りつけているためだ。ちらと見えただけだが、インフェルナムは恐怖の対象ということを除けば、魔術師としてかなり興味を惹かれる構造をしている。あの鱗もそうだ。ヤスリのように一枚一枚が尖っていて、擦りつけるたびに壁が削れている。どれだけの硬度を有しているのか想像出来ない。ドラゴンの鱗一枚に莫大な金額がかけられているのも納得だ。あの鱗で造られた剣なら鉄も簡単に切り裂くだろう。また、さっきから汗が止まらないのは、恐怖のためばかりではない。インフェルナム自身が、かなりの高温で、周囲に熱を放っているのだ。

 炎を吐くというのは文献や資料に残っていた。だが、どういう原理で炎を吐いているのかは不明だ。体内に揮発性の高い物質を生成していて、それを牙や鱗による摩擦で着火しているのか、それともインフェルナム自身が魔術師のように魔力を炎に変換しているのか、それともまた違う原理なのか。

 高い熱を体が発しているのであれば、体内に揮発性の高い物質を持つタイプだろうか。ドラゴンの血は燃えると言われるが、もしかしたら事実かもしれない。

 しかし、だ。インフェルナムが住むのは、火山地帯や砂漠地帯ではなく、木々が深く生い茂る樹海だ。熱帯ではあるが、火山地帯とは比べるべくもない。普段からあの状態なら、逆に森林火災が発生する。

「もしかして、普段と今とでは、様子が違うの?」

 興奮状態になると体の色や形態が変化する生物はたまに存在する。インフェルナムもその一種だろうか。ならば、普段はどんな様子なのか。こんな状況で、命の危機に晒されているにも関わらず、頭の隅っこの方では学者としての血が騒いでいる。いや、心理的に不安定になっているからこそ、これまでの習慣が無意識の内に活動しているのかもしれない。

 再び、インフェルナムの鼻先が窓を横切った。窓にひびがはいる。壁が崩れるのも時間の問題だ。

 インフェルナムはやはり、執拗にこの部屋周辺を探している。匂いの根源はここにあると言わんばかりだ。だが、プラエたちがどれだけ探しても、卵は出て来なかった。これも事実だ。人間が隠したのだから人間になら見つけられる場所にあるはずなのに。しかも、隠す時間なんてほとんどなかったはずだ。短時間で凝った場所に隠せるわけがない。

 あるはずなのに、ない。なかったのに、いる。どういう事なのか。

 緊張と、荷物を抱える腕に限界が近づいてきた頃。唐突にインフェルナムの鼻先が消えた。どころか、奴から発される熱も心なしか和らいだ気がする。インフェルナムが離れたのだ。理由は分からない。ここにはないと見切ったか。それならもう、とにかく遠くへ行ってしまえ。出来れば街の外で待機しているラテル軍の、特にフィリウスの野郎をこんがり焼いてから消えてくれ。

 彼女の祈りのような願いのような考えは裏切られた。遠くでパァンと何かが弾けた様な音が、断続的に響く。あれは獣除けの魔道具だ。爆発と共に音と光を巻き散らして、害獣を追い払うために使われるものだ。誰かがその魔道具で、インフェルナムの気を引いた?

 インフェルナムの気配が地響きと共に部屋から遠ざかる。空気と気力が口から抜けて、へなへなとプラエは膝から崩れ落ちた。

 ガンガンと廊下の方から、誰かが走ってくる。ガリオンか?

「プラエさん!」

 扉を勢いよく開けたのは、想像だにしていなかった人物、マサだった。何故彼がここに。彼が所属するのはラスが率いる第五部隊だったはず。彼の後ろから、ガリオンも走ってきた。

「マサ、一体何なんだ。どうしてお前、こっちに来たんだ。ラスたちのありゃあ、撤退のための時間稼ぎをしてくれているんじゃないのか」

 ガリオンも、彼の闖入に驚いているようだった。持ち場を離れてまでここにくる理由があるのだろうか。彼は頭の中の言葉を整理するように二、三度深呼吸した後、話を始めた。

「ここには、卵がない可能性が高いです」

「ああ? どういう事だ?」

 ガリオンが首を傾げるのも無理はない。インフェルナムが襲う理由が卵なのであって、ないのに襲ったり、ここを調べる理由はない。だが、プラエもその可能性が頭をちらついていた。実際に別の誰かが口にした事で、その可能性が形を帯びてきた。ならどうして、という疑問が残るが、マサが言葉にするからには、そこに至る何かに気づいたのだろう。

「上原・・・アカリさんも僕も、卵の大きさを実際に目にしています。大の大人が両手で抱えるほどの大きさです。その大きさの物が、こんなに探して見つからないはずがないんです。ならば、無いと判断するのが妥当です。けれど、インフェルナムは執拗にここを探している。そこで気づいたんです。もしかしたら、匂いだけ残しているんじゃないか、と」

「匂いだけ? そんなこと出来るのか?」

「出来るかどうかは、正直現物を見るまでは確証は得られません。けど、トリギェが何の準備もなく、ただ卵を盗むなんて考えられません。インフェルナムの追跡を躱すために、必ず準備を整えていたはずです。ロストルムは卵の匂いを追ってきました。インフェルナムも同様です。だから、匂いを消すか、もしくは匂いのする囮を使う可能性は高いんじゃないか、というのが、第五部隊の間で話し合った結果です」

 ガリオンは顎に手を当て、ちらとプラエの方を見た。

「プラエ、どうなんだ。魔術でも何でもいいが、そういう事は可能なのか?」

 少し考えてから、彼女が応えた。

「可能だと思う。理論的には材料さえ整えばどんな匂いも再現出来るってのが最近の魔術師の間の通説。匂いで獲物を呼び寄せたりするなどの需要はあるからね、一定以上の研究が行われている。ただそのためには、実際に卵の匂いを知ってなきゃいけないっていう関門があるけど」

「プラエさん。僕らの世界には、芳香剤という道具があります。実物の花から香りを抽出して、より強く香るようにして、悪臭を中和したりする道具なんですが」

「そうか! トリギェは実際に卵に触れている。あいつはその卵から匂いを抽出したのか。それなら別の媒体から似た匂いを作るよりも遥かに簡単で早い!」

「おい。談義は後だ」

 閃きに興奮するプラエを押さえ、ガリオンは言った。

「匂いでおびき寄せているのはわかった。ここに卵がないかもしれねえってことも。じゃあどうすんだ。俺としちゃ一旦出直したいわけなんだが」

 出直してどうこう出来るもんじゃなさそうだが、とガリオンは毒づく。

「出直す前に、試してもらいたい作戦があって来ました」

 一度唾を飲み込んで、マサは話し始める。

「卵の匂いを、消す事は出来ないでしょうか」

「匂いを・・・なるほど、そういうことね?」

 黙ったものの、いまだ興奮冷めやらぬプラエがふんふんと頷く。

「匂いを消す事で、インフェルナムにここに卵はないと分からせるってことね?」

「はい。消しても良いし、別の強い匂いで上書きしても良いと思います。そうすれば、本当の卵の匂いを嗅ぎ分けて、ここから出て行くんじゃないか、と」

「俺にはどういう作戦なのかまだ飲み込めてないが、プラエ、どうなんだ」

「出来る、と思う。強烈な匂いを作るだけなら、難しくはないからね。それをこの周囲に振りまけば良いわけだ」

 マサが頷く。

「それでインフェルナムが出て行くかどうかは、言い出しておいてなんですが、分かりません。まったく意味がないかもしれなくて、皆を危険に晒すだけかもしれません。けど」

「分かってる」

 ガリオンがマサの肩に手を置いた。

「ここに正解は一つもねえ。やれる事を、効果があると思った事を信じて全部やるしかねえんだ。作戦一つ考えただけでも上等ってもんだぜ」

 ガリオンはその場にいる全員を見渡して宣言した。

「責任は俺が持つ。プラエ、マサの言った作戦に必要な匂いを作れるだけ作れ。時間を稼いでくれている連中のためにも、出来るだけ早く、だ」

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