第8話 二年後



 あれから、二年の月日が経った。

 


 光一と悠月は無事、文野学園を卒業し、光一が描いていたプラン通り、二人で上京して互いに生活費を工面しながら、格安アパートで同棲生活を続け、それぞれ大学に通うことができた。

 

 田岡が死んだ、いや、殺された事件のことは発覚せず、学校内でも、田岡は一身上の都合で退職したとだけ、学校側から説明がされた。本格的な警察の捜査も行われておらず、あの穴に埋められた死体も未だ見つかっていない。

 大学の友人たちに聞いてみても、そんなニュースは聞いたことがないというので、メディアでも扱われなかったのだろう。

 

この事件が、以前倉知が生徒を殺した時、そして田岡が畑を殺した時と同様に隠蔽されたのも、やはり、倉知の力によるものなのだろうか。

もし捜査が入って、文野学園を徹底的に調べられたら、その実態や、下手をすれば、あの懲罰室の壁に埋まっているという死体の事まで、炙り出される可能性が無いとは言えない。

 田岡の話を信じるならば、倉知にとってあそこで働く職員は駒のようなもの。いくらでも代えがきくのだろう。そして倉知はきっと、文野学園という空間を、自分の国だと考えている。誰にも荒らされたくはないのだろう。

 そしてなぜ、世間に文野学園の実態が知られないのか、理解することができた。

 全ての生徒は、卒業時に、誓約書を書かされる。

 その内容は、卒業後の就学、就職支援金を授与する代わりに、文野学園での生活、教育内容等を、一切、外部に口外しないとするものだ。

 建前としては、文野学園が誇る独自の教育制度、方針を外部に漏らさず、その独自性を維持するためとあるが、当然、あの常識離れしたスパルタ制や、宗教じみた気味の悪い文化などを知られないようにするためだろう。

 もし誓約書にサインをして、約束を破れば、支援金の全額返金、法的処置も辞さないとさんざん脅されたため、生徒は従わざるを得ない。

 しかも文野学園の卒業生徒のおよそ九割は、就職の道を選ぶ。その際に、文野学園は、推薦という形で、多くの生徒を倉知とのコネがある企業に送り込んでいる。 これもまた、倉知の人脈の力なのだろう。そういう生徒はなおさら、内定取り消しが怖く、口外できないだろう。

 光一も、数少ない進学者ながら、誓約書にサインをし、進学のための支援金をもらった。金が必要だったこともあるが、そもそも、世間に文野学園の異常性やその実態を訴えようとは思わなかった。あそこでの理不尽な暴力は許しがたいものではあるが、親を失い、家を持たない者たちにとって、必要な場所であることは認めざるを得ない。

 それが世にとって良い事なのか、悪い事なのか。それは分からない。なにより光一はもう、あの学校のことなど、思い出したくはなかった。


……そして光一は、この二年間、毎日のように、罪への意識と戦い続けてきた。


畑を殺したのは田岡だ……。しかし、そのきっかけを作ったのは間違いなく自分なのだ。

 

 俺があの時、飯を食べに行くなんて馬鹿な事を考えなければ、あんなことには。そう思うだけで、やりきれない罪悪感が光一を蝕む。それは常に耐えがたいものだった。

 そしてもう一つ、光一を支配し続けている感情、それは恐怖だった。未だ耳にこびりついている、田岡が死に際に放った言葉……。


 人を殺した者だけに訪れる苦しみ、そして、必ず受ける罰。


 なぜかあの言葉が、ただの負け惜しみの脅しのようには思えず、強烈な説得力をもってして、光一の心に刻まれていた。


 ――そしてその罰は、今もう、自分のすぐそばまで迫っているのではないか。

 その小さな足音が、コツコツと聞こえてくるのを光一は確かに感じるのだった。



「あっ、おかえりー」

 バイトを終えた光一が、東京都椎名町にある古い二階建てのアパートに帰り、戸を開くと、笑顔の悠月が迎え入れてくれた。

「もうご飯作ってるよー」

「おお、サンキュ」

 小さな丸テーブルには、すでにご飯とおかずが並べられていた。悠月もバイトがあったはずだが、光一が帰る頃にはいつも夕飯の支度をしてくれている。感謝してもしきれなかった。

 悠月と同棲を始めて二か月、別々ではあるが、二人とも大学に通い、そのままバイト。終わればへとへとになってこのボロアパートへと帰宅。ほぼ毎日このサイクルを繰り返しだが、それなりに充実していた。

 そして同棲をして始めて分かったことだが、悠月は意外と料理も上手く、お世辞にも十分とは言えない予算と調理環境の中で、かなりいい物を作ってくれた。食事を二人でとった後は、光一が後片付けをする。その後は風呂に入り、適当に時間を潰して、布団を敷く。いつも通りの日常だ。

 

 電気を消し、布団にもぐると、光一がいつものように思い出すのは、あの、田岡を殺した日の事だった。

 光一の頭の中から、あの日の記憶が消えることはなかった。二年以上経った今もなお、呪いをかけられたかのように、身を裂かれるような思いになる。

 恐怖を感じるのはそれだけではない。ぼろいアパートなので、外の音がよく聞こえる。そこで、パトカーのサイレンなどが聞こえると、強烈な動悸が走る。

 とうとう真実が発覚し、自分を捕まえに来たのでは? そんな不安が頭から離れない。サイレンが遠く消え去った後も、緊張で、ろくに眠ることもできない。こんな日々が続いていた、田岡を殺した、あの日からずっと。

 しかしそんな恐怖におびえる中、光一が最も恐れていたのは、悠月を失う事だった。

 両親、そして畑。俺は今まで、大事なものを悲しい形で失くしてきた。今の俺にとって最も大事なものは言うまでもなく悠月だ。

その悠月を失ってしまう。考えたくもない事だった。

 布団の中で、光一がいつものように得体の知れぬ恐怖に悶えていると突然、ぎゅっと、悠月が光一の手を優しく握った。

「大丈夫、今日はきっとよく眠れるよ」

 これが今や、寝る前の合言葉のようなものとなっている。

「……そうだといいが」

 あの日以降、安らかに眠れた日などなかった。毎日のように悪夢を見て、全身を嫌な汗が覆う。夢の中で見る光景は決まって、あの顔なのだ。殺される直前、光一を睨みつけた田岡の、怨念のこもった顔。きっと、あの顔を忘れる日は訪れないのだろう。

 光一が表情に出さず、憂鬱に苦しむ中、天井を見つめる悠月がふと、声を発した。

「ねえ、明日の約束、ちゃんと覚えてる?」

「ん、ああ」

 明日は日曜で大学はなく、悠月に空けといてくれと言われていた日だった。しかし、何をするのかはまだ聞いていない。

「どっかいくのか?」

「施設にね、顔を出そうと思うの。お世話になった人がたくさんいるから、久しぶりにね」

 そういえば、悠月がいつかまた施設に顔を出したいとよく言っていた事を思い出した。

「いいぞ、確か千葉だったな」

「うん、ありがとう」

 そう言うと、悠月は光一の方に顔を寄せる。光一はそっとその頭を撫でてやると、悠月の体の上に覆いかぶさり、唇を重ね、服を脱がせる。

 悠月を抱くときが唯一、光一が気を紛らわせられる時間だった。





 朝、何かに迫られるような焦りを覚えて、はっと目が覚めた。決して暑いわけではないのに、全身を嫌な汗が覆う。

 そしてどっと、強い憂鬱が光一を襲った。

 ……また、あの夢を見た。俺は一生、あの日の呪いに取りつかれたままなのだろうか。

 手で汗を拭いながら隣を見ると、すやすやと気持ちよさそうに寝ている悠月の姿が目に入る

 俺にとって、最も大事な存在。


 絶対に、絶対に悠月だけは失ってはならない。しかし、いつか近い内、悠月がどこかへ消え去ってしまうのではないか。そういった予感めいたものが頭にこびりついていた。一度それを感じると、地に足がつかないような状態になってしまう。

そしてもう一つ、昨日、悠月と話して思い出したことがあった。悠月の恩師だという、施設長の女性。その人の言葉を引用して、悠月はあの時、倉知を殺そうとした自分を止めようとした。

 例え仕返しでも、悪いことをすれば必ず、罰は下る……。

 ぐさりと胸を刺されるような感触を覚えると、それを振り払うように光一は首を振る。


 ……何を神経質になっているんだ、俺は。世の中そう上手く出来ていないと常に思っていたのは、この俺自身ではないか。


光一は洗面所に向かうと、気合を入れるように冷水で顔を洗った。

悠月はまだ幸せそうに寝ている。しばらくしても起きなかったので、揺さぶって起こすと、眠たげに目を開いた。



 悠月が生涯の多くをそこで過ごした児童養護施設、成希園は千葉県松戸市に位置する。

 光一と悠月はそこに向かうために、住んでいるアパートの最寄り駅から電車を乗り継ぎ、常磐線北小金駅を降りると、またそこからバスに乗り、十五分ほども揺られて、目的地にたどり着いた。

「うわーなつかしい!」

バスを降りると、悠月は子供のように目を輝かせて、周りの景色を見回していた。

小さな民家が間隔を置いて立ち並び、高いマンションなどはほとんどない。建造物より木々などの自然が多い町で、決して栄えているとは言い難かったが、どこか穏やかな感じがし、光一も、この土地になじみは無かったが、その風に感慨を覚えた。

 そこから少し歩くと、目的地が目に入る。

成希園は、大きくはないが造りは割と綺麗な方で、ベージュ色の外観も、見る者に落ち着く印象を与えた。周りも整理の行き届いた木々に囲まれて、快適そうだな。というのが率直な感想だった。

 それが視界に入ると同時に、悠月の目にも、感動が見て取れた。

「どうする? 俺はここらへんで待ってた方がいいか?」

「ううん、いっしょに来て。みんなにも紹介したいから」

 そう言って、悠月は早足で入り口へと向かう。光一も一瞬ためらいを見せたが、それに続いた。

 玄関をくぐると、左右に下駄箱が見える。その中の靴の一部は散乱していて、靴の形状から見て、小学校低学年の男子であろう子供のものがほとんどだった。こういった光景は児童養護施設さながらである。

 悠月はそこで焦るように靴を脱いで、その男児たちに負けないくらいの雑さで靴を放り脱ぎ、それを綺麗に直す光一など気にも留めずに、駆け足で廊下を進んでいった。

 ここの出身者である悠月はともかく、全くの無関係者である光一は勝手に中に踏み入ることをためらったが、悠月が一度だけ振り返り、目でついてこいと合図したので、気が進まないながらも、従うことにした。

 館内からは、子供の甲高い声が響いていた。今日は日曜なので学校がなく、この時間でも多くの児童がいるのだろう。あまり大きくない施設だと、こういった声がよく響く。

 悠月はそのまま早足で、奥へ奥へと進んでいった。そして一番奥の部屋の前でピタリと足を止める。ドアのプレートには職員室と書かれていた。

 悠月は緊張した面持ちでそのドアの前に立ちつくすと、一度深呼吸をし、勢いよくその戸を開けた。

「こ、こんにちは!」

 緊張の混じった悠月の声が、大して広くもない部屋に響いた。

 瞬間、おそらく仕事の最中であった職員たちが全員、光一と悠月が立ち尽くす戸の方に視線を向けた。一気に集まる視線に、部外者である光一は、向ける視線の先に迷う。

 突然の来訪に、職員室の空気は凍ったが、その後立て続けに、強張った職員たちの顔つきが緩んだ。

そして数秒もしない内に、何人かの職員たちが同時に大きく声を荒立てる。

「悠月!」

 そのまま全員が一目散になだれ込むように、光一と悠月のいる戸の方まで駆けた。狭い職員室なので、何人かの職員は衝突してその場で転んだが、すぐさま起き上がってこちらの方へと向かい、そこにいた職員たち全員で、光一と悠月の周りを取り囲んだ。

「お、お久しぶりです」

 悠月はその勢いに気おされて少し面を喰らっていたが、職員たちは気にする様子もなかった。

「おい久しぶりじゃないか、悠月! そうか、もう高校を卒業したのか! 元気だったか!?」

「は、はい。皆さんも、お元気そうで」

 取り囲まれた悠月は頬を赤くし、照れた様子で受け答えた。

「何でそんなお行儀よくなっちゃってるのよ!」

 女性職員の一人がそう言うと、他の職員たちも大声を上げて笑った。それにつられるように、悠月も、恥ずかしそうに笑う。

 その後長い時間、職員たちと悠月との間で再開の言葉が交わされた。

 談笑する間、悠月を取り囲む職員たち、そして悠月の目にも、涙が浮かんでいた。その光景から、光一はどこか暖かい気持ちになり、悠月がいかに、ここの職員たちから愛されていたのか、手に取るように理解できた。

 そんな折、悠月を取り囲んでいた職員の内の一人が、光一を怪訝そうに見つめた。

「ところで、そちらの方は?」

 涙ぐましい再開の中、急に自分をさされて光一は虚を突かれた。さも当然のような顔で傍観していたが、自分が部外者だという事を完全に忘れていた。

 指摘されてやっと、悠月も思い出したように光一の方を見る。その表情は、自分で連れて来たくせに、「ああいたの」とでも言わんばかりだ。

 そして悠月は、一度ためらったように間を置くと、顔をうつむけて恥ずかしそうに光一を指さした。

「えっと、この人は、その、私の、彼です」

 光一も、いきなりこういう形で紹介されるとは思わなかったので、狐につままれたようになる。

 そんな二人とは対照的に、職員たちは皆一様に目を丸くし、感嘆の声を挙げた。

「へえ~。この子が。いい男じゃない!」

 職員たちの興味の視線が一気に光一に向けられ、質問攻めが始まろうかという雰囲気になった時、パンパンと手を叩く音と共に、温かな、そして大きな声が響いた。

「はいはい! みんな。気持ちはわかるけど、これじゃ迷惑でしょ。一旦仕事に戻りなさい。後でまた時間あげるから」

「こんな時くらいいいじゃないですかー。ケチだなー」

「ケチで結構です。はいはい。散った散った」

 悠月を取り巻いていた職員たちの内の一人、ふくよかな体系をした中年の女性の一声で、職員たちは、最後に悠月に声をかけ、仕事に戻った。

 この様子からすると、どうもここの施設長らしい。つまりはこの人が、悠月が尊敬しいているという恩師の女性だろう。いかにも優しそうな、母性あふれる感じの人で、その雰囲気から、人としての器の大きさのようなものを光一は感じ取った。

悠月が職員たちから取り囲まれていた中、この女性を見るときの悠月の目が他とは少し違ったことから、この人がおそらくその人なのだろうと光一は思っていたが、どうやら正解だったようだ。

「この人が、前言った施設長の西沢さんだよ」

 悠月の紹介を受けると、西沢さんは光一に深々と頭を下げて挨拶をした。光一も慌てて頭を下げる。 

「ごめんなさいね二人とも。もうみんな嬉しくてはしゃいじゃって」

「いいえ。私こそ急に来ちゃって。でも、先生方にあえて、うれしかったです」

 悠月が慇懃にそう答えると、施設長の西沢さんは、まあまあと口に手を当てて、目をぱちぱちとさせた。

「あのおてんばの悠月ちゃんがこんなにしおらしくなるなんて。ボーイフレンドが出来たらやっぱりこうなるのかしら」

「も、もう、やめてくださいよ」

 悠月が顔を赤く染めながら否定する。なんだか微笑ましい光景だった。

 俺も今度、施設に戻ってみようかな。光一がぼんやりとそんなことを考えていると、悠月が肘で光一の横腹をつついた。

「ほら、自己紹介して」

 光一は慌てて、西沢さんの方を向く。

「え、ええと、悠月さんとお付き合いしています、朝霧光一と申します」

 ぎこちない口調で、まるで相手方の両親に結婚の挨拶でもするかのような物腰になってしまった。思わず動揺してしまった自分を恥じながら、下げた頭をゆっくりと上げると、光一は異変を感じた。

西沢さんの表情に、一瞬、驚きのようなものが垣間見えたからだ。そしてそれが段々と、何か意味深な、重大な事を思いつめているような顔に変わり、それがさらに気にかかった。

「ええっと、朝霧……光一君っていうのね?」

「は、はい」

 光一の返事を聞いた西沢さんは、眉間に手を当てて、深く考える仕草を見せた。

 ……いったいなんだ? 朝霧という苗字が、そんなに珍しかったのだろうか。

「悠月ちゃんとは、その……文野学園で出会ったのかしら」

「うん。そうだよ。クラスが一緒だったの」

 光一の代わりに悠月が答えた。

 そうすると西沢さんは、今度は、光一の顔を鑑定でもするかのように、まじまじと見つめた。その間光一はどう反応すればよいのかも分からず、気まずげに視線をそらすしかなかった。

 いったい、どうしたというのだろう。俺が悠月に相応しい男かどうか、品定めでもしているのだろうか。その西沢さんの様子を、悠月も不思議そうに眺めていた。

 西沢さんはしばらく光一の顔を見つめた後、ゆっくりと視線を外し、今度は悠月の方へと向けた。

 そしてその顔は、何か重大な事に気付いたかのように、うっすらと青白くなっていった。

「ど、どうしたの?」

「う、ううん、なんでもないの。ごめんね」

 本人はそう言うものの、明らかに様子がおかしかった。

 西沢さんは、目を閉じ、腕を組んで、しばらくの間黙りこくっていた。光一も悠月も、どうしたらいいのか分からず、ただじっと見つめているしかなかった。

 しばらくして、二人の視線を浴びている西沢さんはゆっくりと目を開くと、何か、大きな決意を決めたかのように、言葉を発した。

「そうだ。悠月ちゃん、いい機会だから、あなたのご両親について、お話しようと思うの」

「え、両親?」

 悠月は、全く予期せぬ提案に不意を突かれた様子だ。そしてそれは光一も同様だった。

 悠月の両親……。悠月は確か、捨て子だったはず……。

西沢さんが悠月の両親知っているという事は、悠月の親は悠月を直接、施設まで預けに来たのだろうか。

 その両親に興味がないと言えば、嘘になる。愛する悠月の親なのだ。一度会ってみたという気持ちは強い。

 しかし、悠月はどうだろう。まだ物心つく前に、自分を捨てた両親だ。程度はどうであれ、恨んでいる部分もあるだろう。

「私の両親……。その人たちは、私に会いたがってるの?」

 その声は、何かに縋るような、か細い声だった。自分を捨てた両親への怒りと、それでも一度は会ってみたという複雑な心境を抱えていることが、その声から感じ取れた。

「えっとね。あなたの御両親は、ずっと前、あなたが小学生の時に、もう既に亡くなられてしまったの」

 西沢さんが、心苦しそうな顔でそう告げる。悠月はというと、表情を変えることは無かったが、軽くショックを受けていることは明らかだった。

「そ、そうなんだ……」

「でも、あなたに、両親がどんな人だったか、知ってもらおうと思うの。うちはね、子供を預かる時に、ご両親の個人情報をあずかることになっているの。その時、二人分の免許証のコピーを貰ったわ。それがまだ残っているはずだから、談話室で待っていてくれる? 朝霧くんも、もしよかったら」

 そう言って、顔を悠月の方から、光一の方へと向ける。

 西沢さんと目を合わせたその時、光一は、西沢さんのその目から、何かただならぬ気配を、そして重大な意図を感じ取った。

 この目、この目は……俺に、来いと言っている。そして俺に、何か大事なことを伝えようとしている。

 光一は直感でそれを確信した。しかし、一体何を自分に何を伝えようと言うのか。まるで見当もつかなかった。だが、決して自分にとって、そして悠月にとっても良い事ではない。それだけは分かった。



   光一の胸に、言いようのない不安が渦巻く。



 西沢さんが悠月の両親の資料を持ってくる間、光一と悠月は先に、一階の談話室というところで待っていた。部屋の中央には長い机があり、それを挟むようにして、パイプ椅子が置かれ、光一と悠月はその片側の椅子に二人並んで腰かけていた。

 光一がそっと悠月の顔を覗くと、やはりどこか緊張した様子だ。

「やっぱり、残念か?」

 悠月は首を横に振る。

「ううん。別に。どうせ私を捨てた人たちだし」

 伏し目がちにそう答えた後、ぼそりと、悠月は小さく口を開いた。

「それでもやっぱり、会ってみたかったかな」

 そこで談話室の戸が開き、ファイルを片手に抱えた西沢さんが入ってきた。光一たちの反対側の椅子に座ると、古い過去を思い出すように、どこか虚空を見つめて語った。

「あなたを……あなたのお母さんから預かった時の事は、今でもよく覚えてるわ。ご両親は、なかなか経済的に大変な暮らしをしていらしてね。あなたをここに預けるときも、本当に辛そうだったわ。だからね。これだけはあなたに分かっていてほしいの。あなたは決して、愛されずに、捨てられたわけじゃないの」

 悠月は表情を変えず、ただ静かに頷くだけだった。

「それでね、いつか必ず、生活が安定したら、引き取りに来ますって言い残していったわ。その言葉に、嘘はなかったと思う……でも確か、あなたが小学校に入ってまだそんなに経たない頃、ご両親は二人とも、亡くなられてしまった」

「そうなんですか……」

 特に、声のトーンが変わったわけでも無い。しかしその声音に、少しだけ悲哀の色が滲んでいたのを、光一は見逃さなかった。

「……これが、あなたのご両親よ」

 そう言ってファイルを開き、免許証のコピーが載っている紙を悠月に見せた。

 先ほどから、西沢さんは明らかに光一を意識していた。幾度となく、何かを促すように、光一の方に視線を向けていた。その度に光一は気付いていたのだが、全くもってその趣旨を解せないため、不可解に思いながらも、ただ黙っているしかなかったのだ。

 しかし今この瞬間、光一は西沢さんの意図を理解した。

 俺に……見ろと、これを見ろと告げているのだ。その目的は分からないが、何か重要なことがあるに違いない。

 それを悟った光一は仕方なく、身を乗り出してその資料を確認する。

 普通のA4サイズの用紙の中央に、白黒で免許証のコピーが二枚、父親の分と母親の分が載せられていた。

 特に、変わった点はなさそうだ。これのどこに、意味があるのだろうか。

しかし気配で、西沢さんが自分の反応を窺っているのが分かる。

 光一は頭に疑問符を浮かべたまま、その免許証に記されている人物の顔に目を向けた。


 それをしばらく見つめた後、思考が止まった。

 意味が分からず、口も開けない。

 困惑というよりは、頭の中が真っ白になり、脳が命を失ったような感じだった。

 隣では、悠月が不思議そうな顔で光一を見つめ、正面では西沢さんが顔を抑えて、自分の予期した不幸が的中したことを嘆いていた。

 血液が循環を放棄し、魂が抜けたようになっていた光一も、時間が経つことでやっと、頭が回り始める。


 一本。


 一本の閃光が光一の頭を貫いた。



 走馬燈のように、過去の光景が瞳の内側に映し出され、脳が倍速で回る。

 先ほどから、なぜ西沢さんの様子がおかしかったのか、なぜ光一に、これを確認させたのか、それらの意味をやっと、光一は理解した。


――免許証のコピーに写っていた二人は、朝霧孝則と横山恵美子。

正真正銘、幼い頃亡くなった、光一の両親だった。



 つまり、俺と悠月は……兄妹だったのだ。


続く


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