第7話 復讐
「落ち着いて聞いて」
鬼気迫る顔で悠月から呼び出されたのは、光一が田岡と裏山に穴を掘ってから二日経ってのことだった。
場所はいつものように旧校舎裏。悠月がしばらく会わないでおこうと言った日以来、ここでまた落ち合ったのは初めてのことだった。無論、呼び出したのは悠月の方である。
「どうしたんだ急に」
「落ち着いて聞いてほしいの」
「落ち着いてるって」
そう言うと、悠月は深呼吸をし、言葉をためた。
「分かった。じゃあね、聞いて……、あのね、私たちは、大きな勘違いをしていたの」
「勘違い?」
光一は声のトーンを高くして聞き返す。
「そう、勘違い。畑君が殺されたことに関して、私たちは、根本から大きな考え違いをしてた。いや、させられてたの」
「待てよ。いったいどういうことだ?」
悠月の声音とその真剣な表情から、ただ事ではないと悟った光一は息をひそめて聞く。そうすると、悠月もそれにこたえるように、いっそう真剣な顔つきになった。
「結論から言うよ。畑君を殺したのは……倉知じゃない」
「は!?」
光一は思わず声を荒立てて、勢いよく立ち上がった。反射的に悠月はシッと口の前で人差し指を立てる。
「静かに! 落ち着いてって言ったでしょ?」
悠月はなだめるように光一の肩を抑え、その場に座らせた。しかし光一は未だに動揺を隠せない。
「待てよ、だってあの日記には……」
「そう、あれを見てきみは勘違いをした。いや、違う……正確には、きみを勘違いさせるために、あれはあったんだ」
いったい、こいつは何を言っているんだ?
今、光一の頭の中には混乱が渦巻いていた。未だに悠月が言っている事を理解できず、自分をからかっているのではとも思ったが、彼女の顔つきを見るに、どうもそうではないらしい。
「光一くん。ゆっくり思い出して。あの日のこと、私たちがここを抜け出したあの晩のこと。私たちは何を見た? いや、違う。何を見なかった? 私たちは、とても重要なものを見落としていたんだよ」
光一は額に手を当てて、自らの記憶を辿る。光一自身も、自分が何か重要なものを見落としているのではないかという懸念は、前々から抱いていた。しかし、未だにその答えは見つからず、現在にまで至っている始末だった。
――その答えをおそらく、悠月は見つけたのだろう。
光一も、喉元までその答えが出かかっているような感じはするのだが、どうしてもあと一歩のところで出てこない。
「いや……分からん。俺もずっと、何かひっかっかってはいたんだが……」
「私たちがラーメンを食べに行ったあの日のことを、順序良く思い出して。私たちがこの旧校舎裏のフェンスを抜けてすぐ、何を見た?」
「何をって……ここから見える木?」
光一はフェンス越しに見える木を指さした。悠月は呆れたようにかぶりを振る。
「その後は?」
「その後って……坂を少し下って、あっ、あの二つの人影か!」
「いや、それもそうなんだけど、その前だよ。私たち、ここを出た後しばらく歩いて、学校全体を見まわしたよね? あのとき、私たちの目に留まったもの。それはなに?」
光一は唸りながら、今となってはつらい思い出となったあの夜を思い出す。
脱走してすぐ、俺と悠月の目に留まったものといえば……。
「……あの立派な門か?」
「そう、それだよ!」
悠月は大きく目を見開くと、声を張り上げて、正解と言わんばかりに光一を指さす。さっき光一に静かにしろと言ったことを忘れているようだ。しかし光一は、悠月の反応を見ても未だに納得がいかない。
「……あの門がどうしたって言うんだよ?」
「あの門に問題があるんじゃない。あの門の付近にだよ! よく考えて。今回の事件が、きみの頭の中で描かれているようなものだったとしたら、絶対に無きゃならないものがそこにはあるはずなんだよ! でもあの時、間違いなくそれはなかった!」
たたみかけるような悠月の熱の入った言葉に、光一は額に手を当て、目をつぶり、記憶を呼び覚ます。
あの時、あそこになければならないもの……。俺が想定していた今回の事件の全貌……。そのキーワードを元に、光一は頭をフル回転させる。
あの日、あるはずなのに、無かったもの……。
――――!
光一の瞼の裏に、一つの物体が浮かび上がった。それと同時に、体内に大きな稲妻が走る。なわなわと唇が震え、脳の中を、衝撃が縦横無尽に駆け巡る。
「車だ! 倉知の、車!」
「そう! その通り!」
光一が大声で叫ぶと、悠月も負けないくらいの声で、歓声を上げた。今二人の頭の中には、周囲に聞かれてはまずいという危機意識が、完全に消え去っていた。
喜びを分かち合うと、台風が過ぎ去った後のように、光一は頭を抱えた。
……なぜ、なぜ今までこんなことに気付かなかったのか。
そうだ。悠月の言う通りだ、あの日、倉知がまだ学校に残っていて、懲罰室で畑を殺していたのなら、あの門の近くには、倉知の車が無くてはならないはずなのだ!
顔を上げ、悠月の方を見ると、悠月は光一の目を捕え、小さくうなずく。彼女の透き通るような瞳は、その先にある真実を見据えているようだった。
「そう。あの日、倉知はもう帰って、学校にはいなかったんだ。わたし、学校の色んな人たちに聞いて回ったの。あの日、倉知の車が帰るところを見なかったかって。そしたら一年生の男の子が、校長挨拶が終わった一時間後ごろに、校長が車で帰るのを見たって」
光一は驚きが隠せなかった。悠月は、そのことを調べるために、単独で行動していたのか。
呆然と立ち尽くす光一など気にも留めず、悠月は説明を続ける。
「ということは、校長に犯行は無理。にもかかわらず、校長がこの学校にいて、校長が殺したと発言した人間がいるよね?」
「待てよ……じゃあまさか」
光一の顔がみるみる青ざめていった。対照的に悠月は未だに、腹の据わった冷静な表情を浮かべている。
「そう、畑を殺したのは、私たちの担任、田岡だよ。あの日、君が見た人影は、倉知と畑君じゃない。田岡と畑君だよ。事件をもみ消したのは、田岡の言うとおり、倉知の力なんだろうけどね」
悠月が力強くそう言うものの、光一はまだ理解できない部分が多かった。
「いや……でも、あの日記には……」
力の抜けた声で狼狽している光一とは裏腹に、悠月は冷静に説明を続けた。
「あれは田岡が偽装したものだよ。あたかも校長が、普段から畑をいじめていたかのように見せるためにね。でも実際はそんなことはなかった」
「偽装!? そんなまさか! だってあの日記には、俺と畑が出会った日の事まで書かれてたんだぞ。内容も間違ってない!」
光一が声を張り上げると、悠月は感心したように頷く。
「そう、そこなんだよ。そこに君はまんまと騙された。田岡が偽装したのは後半の部分、おそらく全体から見ると、後ろの五分の一程度なんだ。元の内容はほとんど変えずに、校長にいじめられたっていうのを、加えただけ。残りの五分の四は本物そのまま。多分一、二冊目はそのままで、三冊目だけを新しいノートを使って、上手く真似て書いたんだろうね。売店で買えるノートだから簡単に手に入るし。そうしてできる限り違和感のないように上手く作ったから、きみを騙すことが出来た」
動揺を露にする、光一を見つめながら、悠月は話を続ける。
「思い出して。きみがその日記を見つけることになった過程を」
光一は困惑しながらも、すんなりと思い出すことが出来た。そう、田岡に勧められたのだ。畑の形見になるようなものを、持って行けと……。
確かに、田岡が偽装して俺に見せようとしたなら、その行動は自然だ。
そうか! 三冊目だけ、机の上部にテープで隠されていなかったのは……俺に気付かせるため!
光一は驚きのあまり茫然としていた。悠月の語る内容もそうだが、それを淡々と話す悠月自体にも。
「ゆ、悠月。なんでお前はこれが偽装だと思ったんだ?」
「このあいだ畑君の日記見せてもらったじゃない? その時、おかしいことに気付いたんだ」
「おかしいこと?」
「うん。三冊目の内容で、畑が田岡教官に呼び出されたって書いてあるところらへんかな」
そう言われても、未だに光一はピンとこない。
「……おかしな所なんかあったか?」
「畑くんは、教官の事を絶対に教官って言わないの。三冊目のおそらく内容が書き替えられたであろう場所だけ、先生じゃなくて、教官って使われてたからさ」
「……あ!」
確かに。確かに言われてみれば、畑が教官というのを聞いたことがない。しかし、ルームメイトの俺が気付かなかったというのに、こいつはそんな細かいことに……。
「お前、俺のルームメイトが畑って言った時には誰かも分かんなかったくせに、よくそんな事を……」
「まあね。この学校で教官って呼ばないのは、たぶん私と彼だけだったから」
そういえば。と悠月もそうであることも思い出す。
その理由を悠月に聞くと、教官と呼ばないことによって、心に秘めている反抗心を示しているのだという。もしかしたら、畑も、同じ意志でそうしていたのかもしれない。
「田岡も焦ってたんだろうね。畑くんが教官って呼ばないのは、田岡も絶対に知ってたはずなのに。それに、おかしいところは他にもたくさんあるよ。日記の内容が事実としたら、校長は複数回、畑君を適当な時間に呼び出して暴力をふるっていたことになる。そこがまずおかしいよ! あの校長なら、隠れたりしないで、堂々と生徒を殴るよ。それにもし隠れてやったとしても、傷とか痣できみが気付くにきまってる」
そうだ。その通りだ。畑が殺された日も、俺はあの部屋で、畑の体を見て、何もされていないと確認した。
言われれば言われる程、悠月の指摘する点に納得がいく。
光一は、愚かな自分を責めた。
どうやら俺は、畑を殺された怒りで、冷静さを失っていたらしい。
悠月の推理は筋が通っているし、納得もできる。
しかしそれが正しいとすれば、ただ一つ。根本的な、あまりにも巨大な疑問が残る。
「……だ、だが、なんで田岡はわざわざそんな面倒な偽装なんかしたんだ? 本当に田岡が殺したとしても、校長の力を借りてこの事件をもみ消せたんだから、別に、余計な事をする必要はなくないか? しかも、力を貸して、自分の犯罪をもみ消してくれた倉知を恨ませるようなこと……」
そうつぶやくと、悠月の瞳が光一の目をとらえる。その瞳の中に、光一が今までに見たことのない、深みのある光が見えた。
「なんでだか分からない? そこに、田岡のもう一つの目的があるんだ。それにきみは今、まんまと乗せられているんだよ」
未だ要領を得ぬ光一に対し、悠月は鋭い視線で、言葉を放った。
「きみに……校長を、倉知を殺させるためだよ」
あらかじめ用意していたペットボトルの蓋を開け、悠月が田岡の頭の上から、水を流した。それと同時に、光一が平手で、上から水を受けている田岡の頬を強くはたく。
田岡は今、この闇に包まれた森林の中で、例のひと際大きい木にロープで縛られ、気を失っている状態だった。
木に縛られているその姿は、あの日、懲罰室で光一と悠月が柱に縛られた時を皮肉にも思い出させる。
このロープは光一がひっそりと懲罰室から持ち出したもので、あの日、田岡に鍵を開けさせるよう促したのも、このためである。
悠月が二本目の水をかけ終わったところで、意外にも早く、田岡に反応が見られた。
光一は地面に置いていた懐中電灯を手に取り、光を田岡の顔に真正面からかざすと、田岡は苦しそうに顔を歪め、うっと声をもらした。目を開くと、眩しさに、顔をそむける。
田岡の意識が戻ったことを確認した光一は、懐中電灯の取っ手の部分を地面に突き刺し、光一たちの周囲だけに光が当たるようにした。これで暗いなりにも、互いの顔は見えるはずである。
目を覚ました田岡は、困惑した表情を浮かべ、体を動かそうとしたが、すぐに拘束されていることに気付く。顔を上げ、悠月と光一の顔を見ると、どうやら今自分が置かれている状況を理解したようだ。
すると、諦めとも、悟りとも区別のつかぬ、意味深な表情で顔を下に向けた。
いったい、田岡は第一声に何を発するのだろうか。光一はその言葉を聞くため、射殺すような鋭い眼光で田岡を睨みつけ、聴覚に神経を集中させた。
長い時間、この空間が凍ったかのように、三人は停止した。
そして、しばらく俯いていた田岡は、ゆっくりと顔を上げ、光一の、殺意と、底知れぬ怒りがこもった瞳と邂逅する。
「いつから気付いてた?」
光一は驚いた。田岡の声音から、自らの死を、既に受け入れたような印象を受けたからだ。怒りに任せて、叫びをあげるような展開を予想していた。もしかしたら隣の悠月もそうだったかもしれない。
その田岡に、精神で劣らぬようにと、光一も平静な声を出すことに努めた。
「割とギリギリだ。それに、気付いたのは俺じゃない。悠月だ。こいつが気付かなければ、まんまとお前の作戦にはまってた」
田岡は一度、悠月の方にちらりと目を向けると、特に表情を変えずに、また視線を落とした。
「そうか……皮肉な話だな。成績一位のお前を騙せたのに、ビリの横山によって見破られるとはな」
そう言って田岡は自嘲気味に笑ったが、光一と悠月は、硬い表情のままだ。
「どうしてもあんたに聞きたいことがある。だからこうして無理やり聞き出すことにした。あんたが三十分経っても起きなかったら、そのまま殺して埋めてた」
「なるほどな……何が聞きたいんだ」
「まあ、あんたの顔からも、これはもう分かり切ったことだが……畑を殺したのは、あんただな?」
「そうだ」
ためらいもなく、田岡は答えた。
分かってはいたものの、こうしてすんなりと肯定されると、どこか落胆に似た感情が湧き出た。光一の意識の中には、田岡が犯人であって欲しくないという思いが、少なからずあったのだ。
共に穴を掘り、作戦を考えるなど、行動を共にしていく中で、心のどこかで、倉知を殺すという、共通の目的を持った仲間意識が芽生えていたのかもしれない。
「あの日記を書いたのも……」
「ああ、俺だ。途中からだがな」
「そして……俺に倉知を殺させようとした」
「……そうだ。まあ、お前があの日記に気付くかは運だよりだったが」
これで、悠月の推測が全て真実であることが分かった。改めて光一は、悠月の優れた洞察力に感銘した。
「そして……倉知を埋めた後、俺たちも……」
「ああ。殺す気だった」
はっきりとした田岡の言葉に、光一と悠月の表情が大きく曇った。
その後も光一は、多くの事を尋問した。その間、田岡は終始、落ち着き払っていて、死の恐怖におびえたり、取り乱したりすることは一度もなく、その様子に光一は不覚にも、畏怖の念すら抱いてしまった。
俺は生来から血の気の多い性格で、一度感情が高ぶると制御がきかなくなり、後先考えずに拳をふるってしまう。そのことを田岡和義は自覚していた。
幼少期から、その兆候は出ていた。クラスに気に食わない奴がいれば苛立ちを覚え、それがあまりにも低い臨界点に達すると、怒りの赴くままに思いっきり殴りつける。止めに来た教師でさえも無意識に近い状態で殴る。怒りを理性でコントロールすることが出来ない。それが田岡だった。
そして田岡は、暴力という行為に段々と快感を覚えていった。殴りつけるときに感じる骨と骨の接触、拳が響く独特な音、それらすべてが快感となりえた。そう、まさにサディストだそのものだったである。
親も暴力的な人間だった。平気で幼い俺を殴るような輩だった。その家庭環境が俺を曲げたのだろう。
しかし田岡は親と違い、幼いころからなぜか体格がよく、中学に入る頃には身長も親を超し、殴り合いでも勝てるようになった。そうすると親も手だしできなくなり、ただ放置しているだけで、その時点で既に社会のあぶれ者と周囲からみなされていた田岡は、ますます傍若無人と化していった。
そんな田岡がまともな道を進めるはずもなく、高校を中退すると、不良仲間の先輩に暴力団にスカウトされ、行く当てもなかった田岡は当然、そこに入団した。
暴力団の厳しい縦社会に最初は苦労もしたが、暴力が悪とされない世界は田岡の肌には合っていた。しかしその組に十年近く在籍したころ、大事件が起きた。いや、起こしてしまった。
些細な不始末が原因で組長に怒鳴りつけられている際、カットなった田岡は反射で殴りつけてしまったのだ。このくらいの事、ある程度成長した田岡は、我慢してこれた。しかし、その時だけはどうしてもあまりの理不尽さに耐えられなかった。理不尽な事など、自分だっていくらでもしてきたというのに。
完全縦社会の暴力団の世界で組長を殴るなど、言語道断である。ちょうどその場には田岡と組長しかいなかった。
焦った田岡はもうここにはいられないと悟ると、組の金を盗み、事務所から逃走した。そうして組員全員を敵に回し、命を狙われる身となった。
しばらく逃走の日々が続いたが、こういう事態に陥った時の暴力団の組織力というのは、想像を絶するほどで、そう経たない内に田岡はあっけなく見つかり、身柄を拘束された。
半殺しにされた後、組の事務所に連れ戻されると、そこには当然組長が待ち構えていた。
これは指の一本や二本で済む話ではない。田岡はもう命を諦めていたが、組長の口から出てきたのは予想外の言葉だった。
「なんやかんやで、お前もここでだいぶ長い事尽くしてくれたからのう。命とるなんてことはせん。新しい人生を歩め」
満面の笑みで告げられたのが、文野学園とかいう、高等学校の職員として働けというものだった。
当然田岡は理解できない。命を奪わない代わりに学校の職員? いったいそこにどういう因果関係があるのか、皆目見当もつかなかった。
「わしと倉知さんは深い仲でな。どうも人手が足りんらしくて、手伝ってやってくれ」
倉知という名は、田岡も知っていた。少し前までどこかの大臣をやっていた政治家だ。その名で初めてピンときた。……文野学園……そうだ。施設にいるガキだけを集めて作る学校。それが数年前、倉知によって建てられたというのをニュースで見たことがある。
要は、人身取引ということか。暴力団のメインの仕事の一つだ。ただ、自分が売る側から売られる側に回った、というだけの話である。
政治家が裏で暴力団と関係を持っていているというのは珍しくない。しかしこういう類の人身取引というのは、危険な場で強制労働させたり、女に体を売らせたりすることが常である。
それがなんと学校の職員? あまりに謎だらけだったが、命が助かるなら何でもいい。当然田岡はその話に乗り、文野学園の職員となった。
話が進む中で、最初に驚いたのが、職員と言われてっきり清掃員か何かと思っていたら、なんと教師だったことである。
「今、社会科の科目が欠員でな。それだけみっちりやってもらう」
そう倉知の配下に告げられると、毎日朝から晩まで缶詰状態で、強制的に研修を受けさせられた。
教師など、応募をかければいくらでも正規の者を雇えるだろうに、なぜ自分のような、教師に最もふさわしくないような社会不適合者を使おうとするのか、不思議で仕方なかったが、従う以外に道はなかった。勉強など今のいままでしてこなかったため、苦労したが、なんとか教師としてやれる最低限の知識は身に着けた。
そして研修を終え、強制的に学校に送られた田岡は、さらに驚愕した。
そこは……常軌を逸していた。徹底したスパルタ、倉知の軍事的な趣味から来ているのか、「教官」と呼ばねばならない職員たちによって当然のように行われる体罰。異常なまでの校長倉知への崇拝。まるで独裁国家のような様相を呈していた。しかもそこの職員たちは、俺のように皆、様々な経緯で倉知に買収された者たちだった。どの側面から見ても、明らかに通常の学校ではない。
しかし驚くと同時に、納得もした。このような体制の学校は、当然、今では時代錯誤であり、世間一般に受け入れられるものではない。だからこそ、こんな辺境の地に作り、雇う職員も、自分のように買収したものたちだけで構成したのだろう。
しかし本当の意味で異質だったのは、一見学校を支配しているように見える職員たちも、実は生徒以上に自由を奪われているという事だった。調べたところ、買われた職員たちは元々、多重債務者だった場合が多く、その借金を倉知に肩代わりしてもらって、返済のために今ここで働いているという。だから給料などほとんどないし、住み込みで働かなければならないため、自由もない。
当然田岡もそうで、命を助けてもらった見返りとして、倉知が田岡を買収するために組に払った倍の額を稼ぐまで、ここで働かなければならない。本当かどうかは分からないが、教えられた額は莫大なもので、この地に骨を埋めろと言われているも同然だった。
しかし、命があるだけまだマシだと思わなくてはならない。倉知に買収された人間は、文野学園の職員以外にも多く存在し、それぞれ倉知が行っている事業に充てられる。その中には、命の危険を伴う場所での仕事をさせられたり、最悪の場合には、臓器売却や人体実験の被験者にされる場合もあるという。つまり、この文野学園は、買収された人間が送られる先としては、かなり優良な方なのだ。
職員として学校に送り込まれると、ここの職員はまず初めに、倉知の元へ挨拶に行かされる。その時、田岡は初めてこの男を直接目にし、体を震わせた。
一目見た瞬間に分かった……。こいつは、只者ではない。素人目で見れば、おそらくはただの老いぼれにしか見えないだろう。
……だが、俺には分かる。こいつが殺してきた人間の数は、一人や二人ではない。画面越しでは伝わらない、直接対峙して初めて見える、その身から漂うオーラがそれを示していた。
自分のようなチンピラとは、超えて来た修羅場の質も数も違う。
これまでの人生経験から、この倉知という人間の恐ろしさを、田岡はすぐに察した。情け容赦が効くような相手ではないだろうということも。
その時、田岡は自由の身になれる僅かな希望を、完全に捨てた。
その後、さらにわかったことだが、倉知は自分以上のサディストだった。倉知は学校経営以外にも事業を行っているため、いつも文野学園にいるわけではないが、学校を訪れた日には、適当に校内を徘徊し、挨拶の声が小さいなどと生徒に文句をつけては、徹底的に痛めつける。その暴力によって生徒を支配し、自分への敬意を強いる。そうして周りを従わせ、自分を神だと疑似することに、明らかに倉知は快感を抱いていた。倉知は暴力的欲求と共に、支配的欲求も兼ね備えたサディストだったのである。
それを見て田岡は、この文野学園は奴がその欲求を満たすために作った学校なのだと、すぐに理解した。ここの職員を買収した人間だけで構成したのも、学校体制に問題があり、正規の職員を雇えないという事情もあったのだろうが、完全に支配下に置くことで、自分に口出しさせないためでもあるのだろう。
しかも文野学園は特別就学支援校と国から認定され、毎年必要以上の莫大な額の金ももらっている。このありえないほどの額も、倉知の政治力、そしてコネクションが生み出したものだ。まったく、よくできている。
田岡は倉知の老獪さに、ただただ辟易した。
そういう経緯を経て、いよいよ田岡の文野学園での職員としての生活が始まった。
死ぬまでここでただ働きをしなければならない。そう思うだけで胸中は絶望に満ち、当然やる気などあるはずもないが、職務怠慢が露呈すると、すぐさま解雇になり、よその危険な勤務地へと送られ、最悪の場合は、臓器売却に回される。そういう仕組みになっていると説明されたため、やらないわけにはいかなかった。
しかし、嫌々ながら教官として職務をこなしていく内に、田岡は、実はこの環境は自分の肌に合っている事に気付いた。
生徒と教官の間には、まるで軍隊のように絶対的な上下関係が敷かれ、体罰も許される。生徒たちには保護者もおらず、このような辺境の地では世間の目もない。倉知と同じく、サディストである田岡にとっても、ここは都合のよい場所だった。
田岡は容赦なく、文野学園のスパルタ制を利用し、倉知と同じように何かケチをつけては、生徒たちを殴りつけ、自らの欲求を晴らしていった。そうすることで生徒たちは完全に田岡を恐れ、服従するようになっていった。
こうした事情もあり、当初想定していたのとは裏腹に、暴力による支配という楽しみを感じながら、田岡はこの学校での勤務に従事することができた。
しかしここで勤務を始めてから数年が経ち、順風満帆に倉知と田岡の理想通りの学校形態が続く中、突如、逆風を巻き起こすアクシデントが起きた。そしてその事件をきっかけに、田岡は、倉知の真の恐ろしさを知ったのである。
あの、現実離れした出来事は……十年以上経った今でも、鮮明に覚えている。
……当時、斉木恭介という凶暴な新入生が文野学園に入学した。その風貌、破天荒な行動、教官たちへの悪態、全てがまさに不良という感じの生徒だった。そして斉木は入学当初から、厳しい規律とスパルタ制をしくこの文野学園に真っ向から反発した。
――今までに、こういう反抗的な生徒が全くいなかったわけではない。だが、文野学園は徹底して暴力で支配するため、そういった生徒はすぐに力づくで服従させらてきた。
しかし、この斉木は高校生とは思えぬほどの並外れた体格と腕っぷしの持ち主で、並の大人なら平気で投げ飛ばせるような男だった。田岡以外の職員では全く歯が立たず、職員たちは完全に斉木を恐れ、野放しの状態に陥った。
その斉木を沈めるため、職員一腕の立つ田岡も勿論参戦したが、殴り返される事などない文野学園で完全に体がなまっていたこともあり、田岡でさえも、互角に戦うのがやっとだった。
学校内で一番暴力的で厳しく、剛腕と生徒たちから恐れられていた田岡でさえも倒せないとなると、当然生徒たちは職員全体をなめる。
斉木は強さと共にカリスマ性も兼ね備えていたため、他の生徒も続々と斉木に続き、団結し徒党を組んで、この非常識な学校に反抗した。
斉木を中心にして集団で向かってくれば、田岡ですら勝ち目がない。斉木という問題児一人の登場で、文野学園の、この”歪んだ秩序”は大きく荒れたのである。
職員がうかつに手を出せない環境になると、斉木の暴君ぶりは日に日に増していき、当時、寮の職員の部屋を一室占領し、自分の部屋とするほどにまでに至っていた。体罰やスパルタで築かれていたこの学校の主従関係を、たった一人で斉木は覆したのである。
……文野学園始まって以来のこの醜態に、一番苛立ったのは田岡だった。
教官と生徒の間の上下関係は絶対であり、覆されるなど、あってはならないのである。
田岡はもう完全に、文野学園の体制に染み入っていた。
今まで生徒たちから恐れられていた分、急に態度が変わり、なめられた口を聞かれるようになると、いっそう田岡のプライドは傷つき、この上ない憤りを感じた。
その頃、校長である倉知は海外で行っている事業のため長く学校を空けていたのだが、現状を聞くと、すぐさま帰国し学校を訪れた。
そして当然、この惨状に激昂し、職員全員を震え上がらせると、すぐさま、斉木を沈めるために、とんでもない策を取った。
倉知は、関係のある暴力団関係者から数名の応援を呼ぶと、夜中、部屋を一人で使っている斉木に奇襲をかけた。その時斉木を襲うのに、職員の中では一番強い田岡も駆り立てられた。
さすがの斉木も、十人近いその筋の大人相手では、手も足も出なかった。田岡たちはあっという間に斉木を半殺しにし、拘束すると、倉知の指示で、当時まだ使われていた旧校舎の三階の部屋へ運び込んだ。そして今までの素行不良に対する罰を下すかのように、徹底的に斉木を痛めつけ、その場で、あまりにも惨たらしい方法で斉木を処刑した……。
田岡も斉木の処刑を手伝わされたため、その場にいた。あの時の陰惨な光景は、今も記憶から消し去ることが出来ない。あの、残虐を越した殺され方は……。
それ以降、その部屋は使われることはなくなり、その時の名残から、反抗的な生徒を調教するための、懲罰室へと変貌を遂げたのである。
表向きには、斉木は夜中勝手に学校から脱走し、行方不明となったということで話を済ませた。さらに倉知はコネのある警察上層部に声をかけ、これに関するむやみな捜査をさせないようにも促した。
……殺した後のそうした手際の良さ、そして倉知の冷徹さからも、奴の真の恐ろしさを田岡は本当の意味で知った。
斉木さえいなくなれば、他の生徒を沈めることは容易だった。リーダーを失った生徒たちのクーデターはあっという間に鎮静化し、普段通りの文野学園へと戻った。
文野学園が本来の姿に戻ったことで、田岡の生徒たちに対する暴力性は、今までの鬱憤を爆発させるかのように、エスカレートしていった。
時にはその剛腕によって生徒を気絶させ、病院送りにすることも多々あった。それは完全に体罰の領域を超越し、この常識離れした学校の職員たちの間でも、問題として取り沙汰された。
職員たちに許されている暴力は、あくまで教育的指導の一環の範疇に過ぎず、それを超えるものは絶対君主である倉知以外は許されていない。これは職員として文野学園に送られた際に倉知の配下に釘を刺されていたことだった。生徒が何度も病院送りになれば、病院関係者にも不審に思われるし、入院にでもなれば、悪い噂が立ち込みかねない。
田岡のその行き過ぎた暴力は倉知の耳にも入り、ある日、田岡は倉知に直接呼び出された。
「あまり度を過ぎると、下へ送るぞ」
その冷たく、感情のない言葉に、田岡の背筋は凍った。下へ送ると言うのは、他の職場へ回すということである。すなわち、命の保証をなくすという事に他ならない。
「は、はい。申し訳ありません。これからは注意いたします」
それからしばらくは田岡も大人しくなり、数年は問題を起こすことなく、勤務を続けていた。そうした日々が続く中、光一たちの学年が入学し、二年へと進級した。
ちょうどその頃、我慢を続けてきた、田岡の腹の底には苛立ちと不満が鬱積していた。
田岡は、生まれついてのサディストである、拳をぶつけ、弱者を痛めつけることだけが、ここで働く唯一の生きがいなのだ。ひとたびそれが奪われれば、欲求不満になるのも当然である。
そしてとうとう、その我慢も限界を超え、強い暴力的欲求がまた、田岡を支配した。しかし、また度を過ぎれば、今度こそ後がない。何とか、倉知にばれずにこの欲求を晴らせないだろうか。
……そうだ。確か……あの部屋は今……。
そこで田岡は、倉知が斉木を処刑した懲罰室の存在を思い出した。数年前、文野学園は大幅な改装工事を行い、ほとんどの建物は改装されたが、旧校舎だけは、とある事情で改装もされず、取り壊されることもなかったのである。
懲罰室はあの一件以降、名目上、生徒たちに対する指導のための部屋になったが、教官たちはほとんど誰も足を踏み入れていない。
あそこなら、職員たちの目につかずに、自由に暴力を振るうことが出来る。
……よし、次に苛立ちが限界を超えた時は、あの部屋を使おう。わざわざ鍵を取りに行く必要があるが、職員である自分が何食わぬ顔でこっそり取れば、何も言われることはないだろう。田岡は決意した。
そして光一と悠月は、その決断を田岡が下したタイミングに運悪く遅刻し、その標的にされてしまったのである。
光一と悠月が懲罰室でリンチを受けたあの日の晩、田岡は、光一と畑の部屋である408号室に夕食の時間帯が始まる頃に訪れた。光一に対し、遅刻したことに関する反省文を書かせるために、用紙を持っていくためだ。
しかし、そこにいたのは机に向かっていた畑だけで、悠月と外食するため抜け出していた光一の姿はもちろんなかった。
気の短い田岡は激昂し、一人、部屋にいた畑を問い詰めたが、畑はしどろもどろにお茶を濁すだけで、一向に口を割らない。その事でさらに怒りを募らせた田岡は畑を殴りつけようと思ったが、場所が悪かった。ここで騒ぎを起こし、近隣の部屋の生徒に他の教官を呼ばれたりでもしたら面倒だ。
そうして、田岡は例のごとく、畑を懲罰室へと連れて行くことを思い当たった。この時、既に食事時間が終わり、生徒全員が室内にいなければならない時間だったので、誰にも見られることはなかった。これは後に、田岡にとって非常に大きな幸運となる。
無理やり畑を連れて旧校舎の前までいくと、辺りが暗いながらも、フェンス越しに、学校の外を歩く二つの人影を田岡はとらえた。それを田岡の隣で見ていた畑の反応から、田岡は、二人のうちの一人が光一であることを確信した。
学校の敷地外に出ることは、言うまでもなくこの文野学園では大犯罪だ。しかも抜け出したのは、自分のクラスの生徒だ。自分を見事出し抜いたことに、田岡は憤りを感じると、懲罰室に畑を連れ込み、なぜ光一が外に出たのか。どこへ向かったのか。そしてもう一人の人間は誰なのか。激しく問い詰めた。
しかしなおも畑は口を割らない。そのことでさらに苛立った田岡は、しばらく畑を殴りつけると懲罰室にあるロープを使い、無理やり後ろから徐々に畑の首を絞め、拷問のような形で口を割らそうとした。だが意外にも畑はそれに反抗し、とっさに肘で田岡の腹を突くなどして対抗した。
――結果的に、これが悪手となった。
予期しなかった畑の反撃に虚をつかれた田岡は、思わず反動で力を強めてしまう。
すると突然、今まで抵抗していた畑の体から徐々に力がなくなり、ついにびくともしなくなった。
そこで畑は、息を引き取ったのだ。
何が起きたのか分からず、田岡は呆然と立ち尽くし、静寂な懲罰室に、殺伐とした空気が流れた。
そして状況を認識するや、目の前が真っ白になりかけた。さすがに、殺すつもりはなかった。しかし、現に殺してしまっている。
……い、いったい、どうすれば。
焦りに焦った田岡は、蒸し暑い部屋でただ一人、冷たい汗をだらだらと流しながら頭を悩ますと、ふと、畑と同室の光一が今、寮の部屋にいない事を思い出した。
これを、なんとか利用できないだろうか。
しばらく熟考した田岡は、光一のいない隙に畑をロープで吊り下げて、自殺に見せかける事を思いついた。幸い、自分が畑をここに連れて行くまで誰にも見られていない。
畑は普段からこの学校のスパルタ教育についていけず、苦労していたことは周知の事実。自殺の動機は十分にあると考えた。
時刻はもう遅く、ほとんどの人間はもう部屋に閉じこもっている。これなら何とかなるのではないかと思った田岡は、ロープを持つと畑の死体を背負い、エレベーターを使って408号室まで運んだ。見つかれば一環の終わりだったが、生徒が部屋から出られない時間帯だったことと、職員のフロアは七階より上だったこともあり、運よく、誰にも見つからなかった。
そして懲罰室から持ってきたロープで、二段ベッドの上部の出っ張りから畑の死体を吊り下げる。一通り作業を終えたところで、田岡は少し冷静になり、自分の思慮の浅はかさを悔い、うなだれた。
いくら自殺に見せかけたとしても、警察の目までをごまかす事まではできまい。首を絞めた後の他にも、自分による暴行の傷跡が畑の服の下にはいくつも隠れているのだ。警察は間違いなく他殺だと推定するだろう。
あまりの動揺で、こんなことにすら気が付かないとは……。
しばらく途方に暮れていると、突然、田岡の脳裏に、あの男の存在が浮かんだ。ここ文野学園の校長、倉知慎太郎だ。
……あいつなら、あの男なら、なんとか誤魔化してくれるかもしれない。倉知自身、およそ十数年前、あの斉木を殺した時以外にも、自らの殺人を、その権力と、警察上層部とのコネによって闇に葬ったことがあるのを、田岡は知っていた。
それに倉知も、自分の学校で職員が生徒を殺したとニュースになり、文野学園の評判が下がることは絶対に阻止したいはずだ。
あの男の力を借りるなど癪だが、今はとても手段を選べる状況ではない。
今日は校長挨拶があって、夕方ごろまで倉知は学校にいたが、もう既にここを去ってしまっている。となると、連絡手段は電話しかない。
藁にも縋る思いで、田岡は携帯電話で連絡を取った。
こんな時間だ。もう寝てしまっているかもしれない。そうなると次起きるのは朝、そうすれば完全にアウトだ。手には嫌な汗が流れ、ボタンを何度も押し間違えた。
祈る思いで、呼び出し音を聞いていると、あと少しでコールが終わるかというところで、なんとか倉知は出てくれた。田岡の人生でこれほどまでに、あの憎たらしい男の声が聴きたかったことはない。
すぐさま田岡は倉知に、自らの招いた事態の概要を説明し、現在どのような状況なのかまで、詳細に伝えた。するとなんとか、倉知の方で手を売って、警察に手回しをし、自殺という事で誤魔化すということになった。
田岡は、一気に肩の荷が下りたように安堵の息を漏らしたが、最後に倉知からこう言い放たれた。
「お前、分かっとるな?」
電話越しの、その冷たい声に、田岡の背が凍り付く。束の間の安堵など、一瞬で吹き飛び、底知れぬ恐怖が全てを支配した。
そして確信した。俺はもう、ここにはいられない。
既に一度、過度の暴力で注意を受けていたうえでの、この始末だ。確実に俺は下に送られるだろう。それも臓器売買や人体実験などの最下層であることは間違いない。
田岡は絶望した。これではどっちにしろ、自分の命はそう長くはない。もし仮に死ななかったとしても、地獄のような生活が待っているのは間違いない。
絶望に打ちひしがれた田岡は、無気力に、部屋のベッドへと腰を下ろした。魂が抜けたように、虚ろな目が宙をさまようと、ふと、部屋の机の上にある、開きっぱなしのノートが視界に入った。何気なく取ってみて、中身を見ると、どうも畑の日記らしい。
――刹那、田岡の脳裏に、何かが聞こえた。
悪魔の囁きだった。それはしつこく田岡に語りかけ、ある提案を促した。
……倉知も、殺してしまえばいいのだ。
しかも、自分が手を下す必要はない。
畑には、親友がいた。畑をしごく度に、反抗心むき出しで、恐れることなく自分に向かって来た生徒、朝霧光一だ。そして奴は畑のルームメイトで、現在、なぜかは分からないが、学校の外に抜け出している。
そして今、俺の手に握られているのは、畑の日記。
奴がもし、畑の死因が他殺だと知り、犯人の存在を知ったら、間違いなく怒り狂うだろう。それは容易に想像できた。
あいつは頭はいいが、一度頭に血が上ると、視野が狭まり、冷静に物事を見れなくなるタイプ。田岡は曲がりなりにも担任として、そういった光一の人間性を熟知していた。
この日記を書き直し、倉知が畑を殺したと見せかけることが出来れば、その怒りに任せ、倉知を殺してくれるかもしれない……。
思い立った田岡は日記の中身を確認すると、記されている日付から、これが一冊目でないと悟り、部屋中を隈なく探し、机の中のテープの仕掛けに気付いた。
……こんな仕掛けをするという事は、この日記の存在を光一に隠していたという事だろう。畑のあの控えめな性格から考えても、こういったものを簡単に人に見せるとは考えづらい。
そう考えた田岡は、急いで三冊の日記をそっと自分の部屋まで持ち去った。
それから数日、想像以上に計画はスムーズに進んだ。戻ってきた光一によって畑の死体が発見された後、実際に警察は訪れたが、それはもう既に倉知の手にかかっているものたちで、形だけの簡単な事情聴取だけを行い、自殺という形ですぐに帰って行った。そしてこの事件は、メディアでも一切報道されなかった。
田岡は倉知の強大な力を実感すると同時に、その恐怖心も、日に日に増していった。
既に日記の偽装は完成していた。使われていたノートは売店で売っているものだったので、簡単に手に入った。最初の二冊はそのままにして、三冊目の一部を、丁寧に筆跡をまねて書き写した。そして後半から、関係ない部分はなるべくそのままで、畑が倉知に普段から暴力を受けていたという事をなるべく悲壮感を増すようにし、書き直した。
あとはこれを光一に見せるだけだ。その際、またしても難題に直面する。
直接日記を渡せば、余りにも不自然すぎる。確実に怪しまれるだろう。しかし日記が奴の目に入らなければ意味が無い……。
この時、田岡は実に慎重だった。しばらく頭の中で考えを張り巡らせ、一つの案を思いつく。
……そうだ、畑の形見を持って行けと言えば、この日記を見つけ、選ぶに違いない。どうせ他に、たいした物もあるまい。
これ以上の策は無いと思い、田岡はそれを実行した。三冊全てをそのまま他のノートと共に机に入れておこうかとも思ったが、なおも慎重に、畑のテープの仕掛けを再現し、前半の二冊をそこに隠した。最悪この二冊は見つからなくても、三冊目だけで充分、光一を騙しとおせる自信が田岡にはあった。
そこでもし、光一が残りの二冊を見つければ、より一層、日記全体の信憑性が高まる。こんな仕掛けをしていれば、なおさらである。
光一が畑の死体を見つけた翌朝、計画通り、田岡は光一に形見を持って行けと告げた。
その後の時間、光一が思惑通りあの日記に気付いたかどうか、自分はいつ倉知によって下へと送られるのか、田岡は宙に浮いたような気持ちで過ごしていたが、緊急集会での、倉知に対する光一の態度を見て、確信した。
間違いない! 奴は、……日記を見た!
即座に田岡は光一を殴りつけると、懲罰室へ連行し、反応を窺った。
そして案の定……光一はまんまと自分の策にはまっていた。田岡は笑みがこぼれそうになるのをこらえて、必死に驚愕の表情を作ると、畑を殺したのは倉知だという、でっち上げの話を、さも罪悪感を覚えているかのような演技をしながら話した。
日記の効果もあってそれを完全に信じた光一は予想通り、怒りを露にし、必ず復讐するとまで言い放った。
ここまでは完全に思い通り。出来過ぎなくらいだ。
どんな手を使ってでもいい。俺が更迭される前に、なんとかあの倉知を殺してくれ。
田岡は強く心の中で祈った。
しかし、展開は予想斜め上に動いた。
なんと光一が、自分に殺す手助けを求めてきたのだ。
虚を突かれた田岡は困惑したが、少し考え、協力した方がいいという結論に至った。いくら何でも、高校生一人の力で、殺人を成し遂げるというのは流石に無理がある。それにこの光一の熱意から鑑みて、状況が整えさえすれば、必ずやり遂げてくれるだろう。田岡はそう感じた。
しかも殺すのは光一の方で、自分はただ手伝うだけ、いざとなれば、何とかして全てをこいつに押し付ければいい、田岡はそう考えた。
光一の提案を承諾し、山に死体を埋めるための穴を掘りに行く計画を立て、解散した後、田岡はほぼ自分の思惑通りに事が進んだことに安堵を覚えると同時に、漠然とした不安も徐々に募って行った。
今でこそ、怒りで我を失っている光一を騙しとおせてはいるが、それがいつまでも続くだろうか。ひとたび冷静さを取り戻せば、もしかしたら日記の偽装に気が付くかもしれない。じっくり考えて偽装したつもりだが、俺とて、焦っていた。どこか一つくらい不備があってもおかしくはない。畑のことをよく知っている光一なら、いつかは矛盾に気付くだろう。
そして真犯人が俺で、日記の偽装も全て俺が仕組んだ罠だと見破れば、次に命を狙われるのは、俺ではないだろうか。
一度その考えが頭をよぎると、貼り付けられたかのように、不安感がぬぐえなかった。そしてそれは強迫観念となり、田岡の脳裏から離れようとはしなかった。
そしてまた、悪魔が田岡に囁いた。
……ならば、奴も殺すしかない。いや、朝霧光一だけではだめだ。横山悠月も、事情を知っている。ならば、あいつもだ。……そうだ。奴らと協力して倉知を殺し、死体を穴に埋める時、不意をついてあの二人も殺し、倉知と同じように埋めてしまえばいい。その分、穴を掘る際には、必要以上に深く掘らなければならないだろう。
相手は二人だが、体格は俺の方に大いに分がある。なにより一人は女だ。暗闇の中で不意を突いて自分が返り討ちにされるはずもない。
二人とも死んでしまえば、もう俺の殺人を知る可能性がある者はこの世から消え去る。
田岡が、決断を下すのに時間はかからなかった。そこに、罪の意識や命を奪うことへの恐怖がほとんど介在しなかったことに田岡は気付き、自分が闇の沼に一歩ずつ、確実に浸かっていっていることを実感した。
そして同時に、理解した。人を一人でも殺した時点で、そいつはもう、それまでの人間ではなくなってしまうのだ。確実に、別の何かに変わってしまう。
自分が変わっていくことへの、底なし沼のような恐怖に、田岡はひたすら怯えた。
三人の間には、不気味な静寂が広がる。山の虫たちの声さえ、そこに介入することを憚る程に。
ごくりと、誰かが息をのむ音が聞こえた後、やっとのことで光一が言葉を発した。
「お前も、昔殺された生徒同様、こんなところに埋められるとはな」
吐き捨てるような口調で言い放つと、田岡は不敵な笑みをこぼした。
「ああ。そんなことも言ったな。あれは嘘だ」
「なに?」
眉をひそめる光一に、田岡はさらに冷めた笑みを見せる。
「むかし、倉知に抗って殺された奴は、こんなところに捨てられちゃいない」
「じゃあ、どこだっていうんだ?」
田岡はゆっくりと光一と悠月を見渡すと、嘲るように口を開いた。この薄暗い闇の中でも、光一は田岡の微細な表情の変化や、口の動きをとらえた。
「懲罰室だ」
ためらいのない、はっきりとした言葉だった。それ故に、光一と悠月は完全に不意を突かれる。
「……は?」
「あの懲罰室、奥行が少し狭いと思わなかったか? それに、奥の壁だけ真新しくて不自然だったろ?」
確かにその通りだ。光一自身もそれには気付いていた。しかしあれが一体何を意味するのか。殺された生徒とどう関係するのか。まるで見当もつかなかった。
「倉知はな……あそこで、その生徒を拘束し、生きたまま少しずつ、コンクリートに埋めたんだ。あの壁の中には、今でもその死体が埋まっている」
背中の中央から、冷たい汗が線を描くように、ゆっくりと下降した。
隣にいる悠月も、手で顔を抑えながら、恐怖に顔を歪めていた。
そして今やっと、入学した時からずっとあの旧校舎から感じていた、不気味な雰囲気の正体を理解した。
あの、あの、気味の悪い何か。
まるで背筋を何者かに、うっすらと細い指で撫でられるような、あの厭な感覚。
その正体を理解したと同時に、なぜ懲罰室が外から見た時よりも狭く感じるのか、なぜ、旧校舎が取り壊されなかったのか、今ようやくそれらの謎が解けた。
「……最後に、言いたいことはあるか?」
哀れみと軽蔑が入り混じった目で、光一は身動きの取れない田岡を見下ろした。田岡も視線を上げ、光一の瞳を見返す。
瞬間、光一は体が凍った。
――田岡の眼には、光がこもっていた。今から死ぬ者が発するものとは思えない、活力のこもった、見た者すべてを射止めるような、強い光が。
その眼光に、不覚にも光一は、圧倒的優位な立場にいるにもかかわらず、気圧されてしまう。そしてこの瞬間、狩る者と狩られる者の精神的序列が、まるで入れ替わってしまったのである。
隣では悠月が、その光一の様子を不安げに見つめた。
「いまさら、命乞いなどせんさ……だが朝霧、覚悟はしておけよ……。人を殺したらな、そいつにだけ訪れる苦しみを、一生引きずることになる。そしていつか、その罰は本人に下る。必ずだ。今の俺のようにな。あの倉知だって、まともな死に方はせんさ」
薄ら笑いと共に発せられたその言葉が、脳内を駆け巡るように響き、光一の理性を奪った。
もうすでに光一は、全身を恐怖という言葉では足りない何かに取りつかれていた。理性は崩壊し、目の前の死に向かうだけの男が、死神にさえ見えた。
――このままでは自分は、地獄へ引きずりおろされてしまう!
光一は咆哮した。
全ての思考を停止させ、ただ無意識に、腕の筋肉だけを使いながらシャベルを振り上げ、その死神の頭へ、勢いよく、何度も、何度も振り下ろした。
獣のような叫びと、頭蓋骨を砕く鈍い音だけが、しばらく、闇に包まれた山の中で響いた。
続く
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