第5話 協力と、違和感
話を聞いている間、田岡はじっと静かに、時折頷きながら聞いていた。光一が全てを話し終えても、しばらくは目を閉じて、険しい顔をしていた。
光一は鋭い眼光で、田岡の反応をじっと待った。
それを感じてか、しばらくしてやっと、田岡は目を伏せたまま静かに口を開いた。その顔には、どこか罪の意識も垣間見えたように、光一には見えた。
「朝霧……すまん。お前の推測は、ほとんどあっている。その日記の内容も、全て真実だと……言っていい」
光一は心底驚いた。すんなり真相について認めてしまった事と、田岡のこんな顔を見る衝撃で。このように、自分に対しての謝罪の言葉も同様に。
だがそんなもので、この怒りは収まらない。まるで形勢が逆転したかのように、光一は言葉に力を込めて言い放った。
「あんたは、恥ずかしくないのか? 畑に対して、申し訳ないとは思わないのか?」
普段なら絶対に言えないセリフである。田岡はこの言葉で怒り狂うかもしれない。だがたとえそうなったとしても、もうどうでもいい。このとき光一は、どこか投げやりな気持ちになっていた。
だが予想に反して田岡は、怒りをあらわにするどころか、その場に手をつき、まるで神に懺悔するかのように語った。
「ああ……情けないよ。畑には、申し訳ないとも思っている。だが、逆らえないんだ。どうしても。あいつには……」
「……いったい、どういう事ですか?」
光一は身をかがめて、田岡に説明を促した。
田岡は、いつもの鬼教官の様子など微塵も感じられない、脆弱な子供のように、事情を赤裸々に語った。
それによって光一は、ここ文野学園のおおよその実態を把握することができた。
ここ文野学園で生徒たちから「教官」と呼ばれ、恐れられている職員たちはほぼ全員、何らかの事情をもって、倉知に買収され、強制的に働かされている人間たちらしい。
なぜ倉知が彼らを買収できるのかというと、倉知は裏で、多数の暴力団関係者や闇金業者などと密かにつながりがあり、その界隈から、多額の負債を負った人間や、罪を犯し、行き場を失った人間などを、仕入れているという。
つまり、ここの教官たちは倉知の“奴隷”に近い。
俄かには信じられないような、突拍子もない話だが、納得できる面もある。
こんな辺鄙な地に住み込みで、ほぼ休みなしで働くなど、例え高給だったとしても、そう易々と働きますとは言えないだろう。それが低賃金ともなると、もう論外の領域だ。
「じゃあ、田岡さんも……」
「まあ、そういう事だ」
深くは聞けなかったが、要するに、田岡も含むここの教官たちは、生徒と同様に、校長である倉知には逆らえないということだ。倉知に牙をむいた光一に本気で殴ってきたのも、倉知の怒りを鎮めるためだったらしい。
そして重要なのはここから、畑の死体を見つけた、あの晩のことである。
「あの日、いつものように、俺が畑を呼び出して、校長のいる懲罰室につれていった。このことはほとんどの職員が知っていたが、見て見ぬふりというか、周知の事実として受け入れられていた。その日、職員室には俺だけが残っていたんだ。そしたら校長が血相を変えて、職員室に来たから何事かと思ったら……」
「……畑が、殺されてたんですね?」
「ああ。それで議論の末に、自殺に見せかけることになった。お前が言った通り、倉知は警察の上の人間にも手回しが聞くから、それならなんとかごまかせると……。それで他の職員を何人か呼んで、機材を運ぶような大きな段ボールに入れて、お前たちの部屋まで運んだんだ。倉知は、畑と同室のお前が外に抜け出していることを知っていた」
これも光一の推測通りだった。やはりあの時、光一と悠月は倉知に見られていたのだ。その時、畑に聞き出したのだろう。
「その騒動の最中に、俺たちが戻って来たらどうするつもりだったんですか?」
「あの晩は職員全員が叩き起こされて、校舎内に入れるところすべてに総動員で見張りに着いたんだ」
なるほど、それで自分たちが帰ってきたら、不法外出で罰をくらわすという名目で、どこかに連行して、いくらでも時間は稼げるわけだ。
結局は光一たちが帰ってくるのはだいぶ遅かったため、意味のない仕事になってしまったということらしいが。
となるとあの晩は、教官たちにとっては大忙しな夜だったわけだ。夜中に急に叩き起こされ、総動員で学校中を警備し、何人かは死体の移動にあてられる。まさか自分たちが呑気にラーメンを食べている間に、そんなことがあったとは……。
光一は、自分の能天気さに思わず呆れてしまった。完全に学校を騙しとおせたと思っていたら、なんと教官全員にばれていたのである。
しかしそう考えた途端、ある疑問が浮かんだ。
「もし俺が学校を抜けてなかったら、どうなっていたんでしょう?」
光一の率直な疑問に、田岡は顎に手を当てながら、うつむいて黙り込んだが、しばらくして、顔をあげる。
「……その時は多分、別の方法をとっただろう。考えられるのは、死体を裏山に捨てるとかだな。以前にも倉知は、似たようなことをした」
光一の眉がピクリと動く。
……以前にも似たようなことをした?
驚きを隠せない光一の様子を見かねてか、田岡はさらに恐ろしいことを打ち明けた。
「いいか朝霧、そもそもな、この学校が建てられたのは、表向きはお前らのような恵まれない若者を援助するためというものだが、その裏には別の理由がある。一つは、国から支援金という形で大金をもらい、倉知が横領して、あいつが行っている他の事業の資金などにあてること。そしてもう一つは、あいつの快楽趣味のためにある」
光一はごくりと、息を飲んだ。権力者の金の横領は、何もそんなに珍しい話ではない。しかし、二つ目の理由はどうも普通ではなかった。
光一が無言のままでいると、田岡は説明を続ける。
「あいつは……倉知はいわゆる、精神異常者というか、大勢の人間を服従さえ、命令に従わせることに悦びを覚えるような、そんな人間なんだ。そして逆らう人間は徹底的に痛めつけ、無理やり服従させる。最悪、殺したこともあった」
額に、冷たい汗が流れる。倉知が普通の人間でないことは、光一も大方予想がついていたが、田岡の最後の言葉は、どうしても光一を震え上がらせた。
「そ、そんなことのために、わざわざこんな学校まで?」
「ここの生徒たちはどういう人間だ?」
質問を質問で返され、一瞬とまどったが、すぐに田岡の言わんとすることが分かった。
「……つまり、ここに来てしまったら、もう居場所がない人間ということですね? だから、逃げられずに、従わざるをえない」
田岡は首を縦に振り、肯定した。
しかし、最大の疑問がまだ残っている。
「そ、それより、以前にも同じようなことをした、つまり、この学校の生徒を殺したっていうのは、本当なんですか?」
「ああ。もう何年も前の話だがな」
光一はごくりと息を飲む。
「その時も、あいつのコネで……」
「そうだ……この学校の生徒を殺したのは今回で二回目ということになる」
「その生徒は、なぜ殺されたんです?」
「学校に盾突いて、最後まで倉知に反抗したからだ」
「殺した後は、どうしたんです?」
「学校のすぐ裏に山があるだろ。そこに埋めて捨てたんだ」
光一は唖然としていた。まるで、完全に別世界の話のようにしか思えなかった。しかし、これは別の世界でも、別の国での話でもない。この学校の話なのだ。
「つ、つまり、その時は、今回みたいに自殺の偽装はしなかったということですよね? それだったら、いくら警察の偉い人とつながりがあるからって、ここの生徒がいるじゃないですか。突然クラスメイトが消えたら、さすがに不審に思うでしょ?」
田岡はゆっくりと立ち上がり、何も言わずに、この懲罰室の奥の、真っ白な壁の方を向いた。そして光一に背を向けたまま、問いかけた。
「朝霧、お前、昔ここの生徒が突然、失踪したという噂を聞いたことがないか」
突然の話題の転換に戸惑ったが、即座に、光一は昔見た例の週刊誌の記事を思い出す。
「ええ、だいぶ前ですけど」
「その生徒こそが、倉知が殺した生徒だ」
またも、不自然な静寂が生まれた。もちろんの事、衝撃であったが、もう顔には出なかった。
「なるほど……殺して埋めて、失踪したことにしているということですか?」
田岡は、こくりと頷いた。
光一は言葉に詰まる。この短時間で、あまりに異常すぎる内容が頭にインプットされすぎた。ここが異常な学校だというのは、初めて訪れた時から、分かってはいた。しかし、その実は、光一が思っていたよりも、もっと歪なものだったのだ。
「……でも……なんで今回は自殺に見せかけたんですか? 僕が部屋にいなくたって、その時みたいに山に捨てた方が無難でしょ」
「いや、以前は前もって、周到に殺す計画をたて、死体を山に捨てる段取りも整えてから殺したんだ。しかし今回はもともと校長も殺す気はなかったから、何も準備が出来ていないし、自殺に見せかける方が、手間がかからないと思ったらしい。だから、即興でそうすることになったんだ」
田岡の説明を聞いて、光一が大いに納得したことがある。
なぜ、この学校は脱走を大罪としているのに、こんなにも簡単に外に抜け出せるようなつくりになっているのか。それはおそらく、もし倉知が生徒を殺した際、生徒が勝手に抜け出して、失踪したという形を作りやすいからに違いない。
……まさに悪魔だ。あいつには、人の血というものが通っていないのだろうか。
「朝霧……一応言っとくが、これ以上このことに首をつっこむのはやめたほうがいい。俺はもう生徒を失いたくない……」
は? と思わず口に出してしまいそうになった。いや、もしかしたら出ていたかもしれない。
もう生徒を失いたくないだと? まるで自分に非がないかのような、無責任な発言に光一は憤りを覚えた。
普段威張り散らしているくせに、こういう状況になると、なんとみじめな生き物だろう。
「ふざけるなよ……。あんただって同罪だろ。俺はお前とは違うぞ。必ず、あいつに復讐する」
田岡は、何も言わなかった。ただ無気力にうつむいて、感情を殺しているようにも見える。その様子は、普段の田岡とは、あまりにもかけ離れていた。
光一はその田岡に背を向け、一人、懲罰室を後にした。
「ほんとバカだよ……」
光一は校舎敷地内の人気のないところで、悠月に怪我の手当をしてもらっていた。
口から思っていた以上に出血していたので、ぱっと見でもかなり痛々しい状態だった。そして意外にも悠月は、慣れた手つきで治療を施してくれた。
「なんかひどいことされなかった? いやされただろうけどさ」
「まあな……だが、収穫はあった」
「え?」
「田岡が認めた。やっぱり、倉知が畑を殺したんだ」
悠月は、悲し気に目を伏せた。
「そっか……」
「田岡が倉知に俺が事件の真相を知っている事をちくるかもしれない。そしたら多分、俺も殺される」
「そ、そんな、考えすぎだよ……」
「いや、あいつはやる。そういう人間なんだよ。だからやられる前に、やるしかない」
そう言うものの光一は、たとえ自分が殺される可能性がなくても、倉知を自らの手で葬り去る覚悟はできていた。だが自分の身を守るという建前がないと、絶対に悠月に止められる。そう思ったのだ。
「だから、それはだめだって!」
しかしそれでも、悠月は意見を変えなかった。気色ばみながら、説得するように光一に迫る。
「第一、どうやってやるつもりなの? ばれたらただじゃ済まないよ」
「そりゃ今から考える。うまくやるさ」
「なに言ってんの……そんなの、うまくいくわけないじゃん……」
今にも泣きだしそうな顔で嘆く悠月に、言葉が出なかった。
しかし、どれだけ悠月が止めようとも、必ず復讐は成し遂げなければならない。畑のためにも。それに、これ以上犠牲者を出さないためにもだ。もう、迷ったりはしない。
光一の決意は、固かった。
悠月は地べたに座り込み、体育座りをするような形でうつむいた。その目は、うっすらと赤くにじんでいる。
しばらく、お互いに何も言葉を発さず、気まずい空気が流れた。その間、光一はなんと声をかけるべきか思案していたが、まるで何も思いつかず、ただただ、無力に立ち尽くしているだけだった。
しかし突然、静かにうなだれていた悠月が、そっと顔を上げると、強い決意を固めたような面持ちで、目にはまだ微量の涙を浮かべながら、真っすぐと光一を見つめた。
「じゃあ、私もやる……」
「え?」
光一はその言葉の意味を理解できず、間の抜けた声を発すると、目を見開いて悠月を見つめ返した。
「私も協力する……。光一くんだけじゃ、絶対に無理だよ……」
「でも……」
勿論のこと、こんなことに、悠月を巻き込みたくはなかった。彼女に言われるまでもなく、光一も全てがうまくいくとは思っていない。倉知とは、刺し違える覚悟でいたのだ。
戸惑う光一を、射止めるような目つきで悠月は見つめた。
「だめだって言うなら、きみを殺して私も死ぬ」
その瞳から見える覚悟に、光一は言葉を詰まらせた。こうなると、悠月は絶対に引かない。どんな言葉で説得したとしても、全ては徒労に終わるだろう。その揺るぎない覚悟を目の当たりにして、光一も決意を固めた。
「わかった……頼む」
「うん。やるからには、完全犯罪だからね」
そう意気込む悠月は、完全犯罪から最も遠そうな、幼く無邪気な顔をしていた。
その翌日、光一と悠月は放課後活動が終わった後、あの晩、外食をするために抜け出した、例の旧校舎の裏へと身を隠していた。
昨日、悠月と協力して完全犯罪を決行することを決めてから、放課後活動が終わって、ここに毎日集まることにした。無論、作戦会議のためである。
自由時間は、外出禁止時刻になるまで、学校内はどこをうろついていても問題ないのだが、話の内容が内容なだけに、人目を避けた。
今日の授業は、光一にとっては、畑が死んでから、初めて受ける授業だった。やはり、教室の雰囲気は暗く、終始気まずげな空気が流れていた。
田岡も、やはり普段に比べて覇気がなかった。放課後活動の体魔業の際も、いつものように怒鳴りつけることもなかったし、後れを取る生徒に手をあげることもなかった。
昨日の一件のことは倉知に報告したのだろうか。もしそうだったとしたら倉知の事だから、すぐに何らかの動きを見せるに違いない。そうでないということは、田岡の、もう生徒を失いたくないと言葉は、本当だったのだろうか。
思索にふける光一に、悠月が声をかけた。
「ねえ、改めて考えたんだけどさ、やっぱり、普通に警察に言って、校長を逮捕してもらうってのは難しいのかな?」
悠月はうつむきがちに、手をいじりながらそう言った。その言葉は、純粋な疑問というより、そうあってほしいという希望に近かったと思う。
「それは俺も何度も考えた……だが、やっぱり無理だ。あいつは警察の上層部と何らかの関係があって、大抵のことはごまかせる。田岡も言っていたからそれは本当だろう。それに、死体を発見した時、警察が帰るのがいくらなんでも速すぎだったとは思わないか? それにあれから一度だって、ここに来てない。学校で自殺があったら普通、刑事が生徒に聞き込みとかするだろ? それがまったくないのも、多分あいつの力が働いてるんだと思う。だからあいつを逮捕するには、コネでもかばいきれないような決定的な証拠が要るんだが、それは難しい」
「光一くんが見たっていう日記は? あれを警察の人に見せれば……」
「いや、あんなんじゃ決定的な証拠とはいえない……。多少疑惑は出るかもしれないが、逮捕には追い込めないと思う。それに中途半端なやり方だと、かえって俺たちが目をつけられる。ただでさえ俺は、田岡に真相を知っているって、ばらしてるんだから」
「そっか……」
「それにもうひとつ、倉知が強大な権力を使っている裏付けになるものがある」
「なに?」
「テレビや記者が一人もこの学校に訪れにきてない」
「あ、そういえば」
高校生が寮内で自殺。しかも、文野学園という、日本でも珍しい、児童養護施設出身者だけを集めた特殊な学校で起きたというのに、マスコミが一人として嗅ぎつけないというのは、どう考えてもおかしい。
やはり、その方面に対しても倉知の力が働いているのだろう。以前の、失踪に偽って殺した事件も、そうやってもみ消したに違いない。この学校には、教官たちの部屋を除けばテレビが一台も置かれていないため、確認はできないが、マスコミが取材に来ないといことは、世間に報道もされていないだろうし、それはつまり圧力がかけられているということに他ならない。
光一が昔見たあの週刊誌はきっと、マイナーな雑誌だったがために、存在に気付かれなかっただけだろう。もしくは、もう会社ごと抹消されているかもしれない。
「倉知が持つ力は、おそらく常識はずれしている。だから、復讐するなら、直接あいつを殺すしかないんだ。怖気着いたなら、お前は退いてもいい。そもそも何の関係もないんだから」
光一がそう言うと、悠月は首を横に大きく振る。
「ううん。そんなつもりない。私ももう、覚悟を決めたの。それに私だって、あの校長のせいで、今までこの学校で散々な目にあったんだから。その復讐もあるの」
無理やり理由づけてはいるものの、光一のために行動を共にしているのは明らかだった。
もし、この計画が露呈して、倉知に目を付けられることがあっても、悠月だけは絶対に守る。光一は胸の中で、揺るぎない決意を固めていた。
「じゃあ、まずはいつ殺すかだが、これは限られてくる。なにせ環境が環境だからな。倉知が一人でいる時を狙うしかない」
「どういうこと?」
「決まってるだろ? 奴が作った環境をこっちも利用させてもらう」
「てことは……」
悠月は不安げな顔で光一を見つめる。
「懲罰室で、あいつを殺す」
悠月がどこかおびえるのを、光一は感じ取った。
「……それから、どうするの?」
「その後は、死体を学校の外までもっていって、山に埋める。それしかない」
田岡が言うには、以前倉知が生徒を殺した時も山に埋めたという。今回はその手をこっちが利用しようというわけだ。
「……そっか」
「問題は、どうやってあいつをおびき出すかだが、これも考えてある。畑と、同じことをする」
「というと?」
「あの感謝状だ」
「ああ。あの超めんどくさいやつね」
そう、畑が倉知から日常的に暴力を受けるきっかけになったあの感謝状だ。あれに畑と同じように、倉知への不満や悪口などを綴る。それで畑と同様に、倉知に呼び出されたら、今度こそあいつを返り討ちにするという寸法だ。
「でも、それだと、他の先生たちにもばれちゃうんじゃ……」
「ああ。だから教官側にも、協力者が必要だ」
「そんなの……協力してくれるわけないじゃん」
「いや、可能性のある人間が、ひとりだけいる。大きな賭けになるのは間違いないが」
そしてこの賭けが、倉知殺しを完全犯罪として成立させるための絶対条件であった。しかし、光一には勝算があった。
「え? だれ?」
悠月が目を大きく見開く。
光一は静かに息を吸う。フェンスの向こうに見える大自然の中から、夏の虫たちの声がよく聞こえた。
「……田岡だ」
外出禁止時刻となるギリギリの時間に、光一と悠月は職員室へ向かい、田岡に反省文を提出した。これは二人が無断外出したことの反省文で、今日中に出すことを命じられていた。
光一はその原稿の間に、こっそりとメモを挟んだ。それは明日、自分が遅刻するので、必ず懲罰室まで連れて行ってほしいという旨のものだ。
翌日、光一は約束通りわざと遅刻していくと、計画通り、田岡は光一を懲罰室まで連行した。教室では激怒した振りをしていたが、どこかぎこちない。ちゃんとメモを呼んでくれたのだろう。それとも、真実を知っている光一に負い目を感じたのだろうか。
悠月は教室に残した。光一は自分だけで話をつけるつもりだったので、悠月には絶対遅刻しないようにちゃんと注意しておいたのだ。
そして今、懲罰室には光一と田岡の二人だけ。
「それで、用とはなんだ?」
田岡は光一とは反対の方向、例の一つだけ不自然に綺麗な壁の方を向きながら光一に問いかけた。
メモがちゃんと伝わっていたことに、光一はまず安堵した。
「もちろん、あの事件のことです」
「朝霧、言っただろ、気持ちはわかるが、あのことにはもう……」
「倉知を、殺そうと思います」
田岡の言葉を遮って、光一は決意のこもった口調で言い放った。
二人しかいない懲罰室に、しんとした空気が流れる。田岡は一体、どのような表情を浮かべているのだろう。
光一はそのまま言葉を続けた。
「それで、あなたにも協力してほしいんです」
そこで初めて田岡は光一の方を振り向き、驚愕した様子を見せる。
「お前、何を馬鹿なことを……」
「馬鹿は承知です。田岡さん……あなたにも、たとえほんの少しでも、人としての良心があると信じて、お願いしています。あなただって、不本意ながらなったとはいえ、一応は教師の端くれですよね? 自分の生徒を殺されて、何も感じないんですか」
田岡は何も言わず、唇をかみながら、険しい顔をしていた。
「……実際に殺すのは僕です。しかし、僕の力だけでは、殺すのも、その後の処理も、難しいのは容易にわかるはずです。だから田岡さんには、その手伝いをしてほしいんです。それにあなただって、倉知が憎いんでしょ? 弱みを握られて、こんなところで無理やり働かされて。だったら、やりましょうよ! もちろん、完全犯罪です。絶対にばれないようにやるつもりです。そのための計画も練ってあります!」
後半になるにつれ、言葉に感情がこもった。この必死の説得に、田岡は応じるだろうか。いや、応じてもらわなければ困る。光一は藁にも縋る思いで、田岡の返事を持った。
その田岡は、しばらくの間、眉間を指で抑えながら、渋る様子を見せ、やっとその重たい口を開いた。
「わかった……。協力しよう」
「ほんとですか!? ありがとうございます!」
腹の底から、歓喜の声が湧き出た。しかし、今は喜んでいる場合ではない。ここでやっと初めてスタートラインに立ったばかりなのだ。
「あ、それと、横山悠月も、協力者にいます」
「なに? 横山も? あいつも事情を知っているのか?」
「は、はい」
田岡は驚いた様子を見せると、顎に手を当て、困ったように唸った。光一はその姿を見て、なぜそんな表情をするのか疑問に思ったが、すぐさまその原因に思い当たった。
「だ、大丈夫です。あいつはああ見えて、意外としっかりしてますから」
「……正直不安だ」
「でも、今回の計画には、あいつが必要なんです」
光一は、田岡に計画の全貌を説明した。
その内容は至ってシンプルで、まずは悠月が感謝状に校長への不満を綴って、懲罰室へ連れていかれるように仕向ける。そしてその日はあらかじめ、光一が懲罰室に身を隠しておく。悠月が懲罰室へ連れてこられ、倉知の制裁が始まろうとした瞬間、隠れていた光一が何か武器を使って、倉知を後ろから殴り殺す。鈍器は懲罰室にそろっているので、その点は問題ない。数も沢山あるので、その内の一つがなくなっても、誰も気が付かないだろう。その後、田岡の協力の元、死体と、殺しに使った武器を山へ運んで、穴を掘り、そこに捨てるというわけだ。
「……という手順です」
「なるほどな……悪くない。その位の役割なら横山でも大丈夫だろう」
この計画には教官の協力は必須だ。懲罰室にあらかじめ身を隠しておくためには、懲罰室の鍵が必要。鍵を職員室から持ち出せるのは、教官しかできない。そして重要なことがもう一つ。
「田岡さんには、他にも協力してもらいたいことがあります。それは、他の教官たちに、倉知が懲罰室で暴力を行っていると知らせないようにすることです」
教官たちの間で、現在、倉知が懲罰を行っていると周知であったら、当然、倉知の行方が不明になった場合、懲罰にあっていた生徒が疑われるのは目に見えている。
「それは、出来そうですか?」
「……難しいが、出来んことは無い。まず、あの校長の性格だが、何度も言うようにあれは、人を支配することが趣味の、いわば、頭のいかれた人間だ。お前も知っているだろうが、校長はここに来て、泊まっていくときと、そうでない時がある。この学校の正門のすぐ側に高級車が止まっている時があるだろう? あれがあるときが校長のいる時だ。そして大抵泊まっていくときは、素行不良な生徒や、成績の悪い生徒を呼び出して殴りつけるのが日課だ」
「泊まっていくときは……って、そんなに頻繁にあいつは生徒を痛めつけてたんですか?」
正門の側に倉知の車が置いてある日はそう珍しくはない。倉知は校長挨拶の日以外にも訪れることは割と頻繁にあるのだ。
「ああ。学校に反感を持っていそうな奴を見つけては、俺たちに呼び出させて徹底的に痛めつけている。そして暴力によって洗脳して、むりやり忠誠心を植え付けているんだ。感謝状がそのあぶり出しの手段の一つだ」
なるほど、感謝状を書かせる本当の理由はそれだったのかと、光一は納得した。
だとしたら……校長挨拶の時などに、倉知を慕っているように見えたあの生徒たちは、実は元々は、反抗的な態度を取っていて、暴力によって洗脳されてああなったのだろうか。もしそうだとすると、その洗脳の力は恐ろしいほどのものだ。
「それで、どうやって他の教官たちに知れないようにするんですか」
そう聞くと田岡は腕を組み、考える仕草を見せた。
「そうだな……感謝状云々ではなく、俺が個人的に、横山悠月という生徒が、校長への不満を常日頃から口にしている。と耳打ちして直接呼び出すのはどうだ? 上手く行けば、誰にもばれずに校長を懲罰室におびき寄せることが出来るはずだ」
「な、なるほど。その方がいいです。それで行きましょう!」
とっさに出てきた田岡の名案に、光一は思わず舌を巻いてしまった。
段々と、希望が見えてきた。これなら、本当に完全犯罪を達成できるかもしれない。やはり田岡を味方につけたのは正解だったのだ。
「それで、死体はどうやって運ぶつもりなんだ?」
顔に明るさが戻る光一とは対照的に、田岡は冷静な態度だ。
「フェンスから外に投げ捨てて、山まで運びます。大仕事ですが、僕と田岡さんなら、出来ないことはないはずです」
「……やはり、それしかないか。となると、死体を捨てる穴は、あらかじめほっといた方がいいな。さすがにしばらくは校長も大人しくするだろうから、時間はある」
田岡の言う通りだ。殺して死体を運ぶだけでも大仕事なのに、穴まで掘っていては夜が明けてしまう。
「次、倉知が来るとしたらいつ頃ですか?」
「校長が来るのは校長挨拶や何かここでの仕事がある日以外は不定期だから俺にもわからん」
「それなら突然倉知が来た時よりも、確実に来る校長挨拶の日を目処にした方がよさそうですね」
次の校長挨拶は来月に行われる。田岡の言う通り、時間はまだある。
「それまでに、適当な場所を見つけて、穴を掘っておきましょう。倉庫には、シャベルも何個かあったはずです。それを使って、次の土曜の夜中に、掘りに行きましょう」
土曜にしたのはもちろん、次の日が休みだからだ。夜中の何時までかかるか分からない作業をやって次の日の朝早くから授業というのは、光一にも田岡にとっても苦しいものがある。
「……うむ」
やはり田岡は、まだ渋っている様子だった。無理のない事だとは思うが。
「田岡さん、気持ちはわかります。ですが、やるしかないんです。田岡さんだって、あの校長から今までひどい目にあわされたんでしょう? ずっとこのままでいいんですか? あいつに対しては罪の意識なんて感じる必要はありません。あいつは、この世にいてはいけない人間なんです。あいつのせいで、今まで苦しんできた人間がどれほどいるか……」
「わかっとる! 俺ももう引く気はない」
顔を強張らせて、田岡は強い口調で吠えるように怒鳴った。しかしその顔を見て、光一は少し安堵した。
「ありがとうございます。それでは、その日の流れを説明します。僕はまず放課後に、倉庫から作業用の大きなシャベルをこっそり持ち出して、旧校舎の……そうですね、トイレ辺りにでも隠しておきます。そして僕はそのまま夜中になるまでずっとそこで待機していますから、田岡さんも夜中になったら、旧校舎裏まで来てください。そしてフェンスを登って抜けてから、僕と山まで行って、場所を決めて、穴を掘りましょう」
その後の学校内へ戻ってくる手順まで説明し終えると、田岡はその案に応じ、二人は懲罰室を後にした。
そして光一は卒業まで一人だけで使うことになった寮の自室に戻った。やはり、この部屋の方が落ち着く。それに、今更新しいルームメイトなど、考えもつかない。
部屋に戻るとすぐに、疲れからすぐさまベッドへとダイブした。そのまま仰向けになると、上のベッドの裏側が覗く。
あの日からは、上ではなく、下のベッドで寝ることにしている。臥薪嘗胆ではないが、いつも畑が見ていた光景を見ることで、彼を失った怒りを忘れないようにするためだ。
そうしてしばらく仰向けになりながら、何の気なしに上を見ていると、不意に、光一の頭に、焼けきれぬ焦燥感がよぎった。
それが引き金だったかのように、徐々に、得体のしれない不安感が広がる。
――なんだ? この感じは。
俺は……俺は何か、とても重要なことを見落としている気がする。明らかに、見落としてはならない何かを、俺は見落としている。この事件を根底から覆す、決定的な、何かを……。
それはもはや、予感というよりも、確信に近かった。
なぜならば、自分は間違いなく、この目でそれをとらえているはずなのだ。
この胸の引っかかりを。
この事件の、決定的な矛盾を。
光一は、しばらく頭を悩ませたが、結局、その答えを見つけることはできなかった。
「なるほど、これが……」
光一と悠月は、例によって、旧校舎裏の地面に座り込んで打ち合わせをしていた。
そして今、悠月は畑の日記を慎重な面持ちで眺めている。親友の形見をあまり他人に見せたくはなかったが、悠月だけは特別だ。
「畑の大事な形見なんだから、丁寧に扱ってくれよ」
「わかってるよ」
しばらくの間、悠月はパラパラとそれをめくり、中身を見ていた。意外にも、読み終わるまで一言も発せず、時折、神妙な顔つきをしながら、熱心に読んでいた。
その間、光一は、フェンス越しに見える外の道、その後ろの山へと続く木々を眺め、相変わらず答えを見つけられない不安の正体を探っていた。
いったい、なんなんだ。この、漠然とした不安と焦燥感は……。
だがいくら考えても、答えは見つからない。喉の奥に何かが突っかかったような、気持ちの悪い感触を残したまま、ふと隣を見ると、悠月はもう日記を読み終わっていたようだ。
「……どうした?」
悠月は、今までに見たこともないような真剣な顔つきで、真っすぐと、ある一点を見つめていた。光一が声をかけても反応がなく、瞬きの一つもせずに、何かを深く考えているようだった。
しばらくしてやっと、悠月はその小さな口を開いた。
「ねえ」
「ん?」
「しばらくは、会わなくてもいい?」
「え?」
「わたし、ちょっとやりたいことがあるの」
「やりたいことって?」
「それはまだいえない」
予想外の展開に驚いたが、真剣な悠月の表情に、光一は何も言えなかった。
「じゃ」
悠月は急に立ち上がり、光一の方を振り向くことなく、寮の方へと走り去っていった。光一は、頭の中に疑問符を浮かべたまま、呆然とその後ろ姿を見送った。
続く
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