第4話 復讐の決意

 光一は両手で顔を覆い、第一校舎一階にある生徒相談室の椅子に座っていた。

眩暈がし、頭の中を縦横無尽に混沌とした困惑が駆け巡る。吐き気もするが、吐き出すものが喉から上を登ってこれない。自分の体が壊れたような気がした。

 

――まさに、激動の一日だった。


 夜中、部屋に戻って畑の死体を見つけ、階段を駆け上がって教官たちを呼び、警察が駆けつけ、死体の第一発見者として、警察と文野学園の教官それぞれに事情聴取をさせられた。つい先ほどそれが終わって今一人でいるわけだが、あの時ちゃんと冷静に話せたのかは、正直自信がない。

 光一の目は虚ろで、ただ室内に存在する物体ばかりを、無意味に見つめていた。

あのラーメン以降何も口にしていないが、食欲は全くない。しかし喉だけは異常に乾いていた。

 しばらく何も考えずに途方に暮れていると突然、ノックもなく乱暴に部屋の扉が開く音がした。顔を上げると、現れたのは田岡だった。普段と変わらず、険しい顔で光一に告げる。

「警察はもう帰った。状況から見ても、やはり自殺だそうだ」

 その言葉の意味を理解するものの、光一は反応を示さなかった。ただじっと、生気の失せた目で、虚空を見つめるばかりだった。

「朝霧、今日はもう寝てろ。部屋は400号室を使え」

 400号室は、光一と畑が使っていた408号室と同じ四階で、誰も使っていない空き部屋だ。408号室はまだ使えないという意味だろう。

 今日は土曜日で、通常通りなら授業もあるはずだが、そんな気力は今の光一にはもちろんない。田岡の口ぶりからも、今日に関しては休んでもいいようだ。

 田岡はそれ以上何も言わず、部屋を出た。しばらくして光一も、重い腰をなんとか上げて、生徒相談室を後にした。

 第一校舎を出ると、朝日が穏やかに地を照らしていた。まるで春のように心地よく、その明るさは、あまりにも今の光一の心境と相反しており、そのせいか、いっそう陰鬱な気持ちが増した。

 光一は重い足取りで、この広い敷地を進む。

 寮に近づくと、ガラスの扉越しに、ロビーに人が集まっているのが、遠めでも見えた。もう皆、一時間目に向けて制服に着替え終わっている。彼らの様子からして、もう何が起きたのか知っているようだった。

おそらくは、光一の立場も。 

 ドアを開くと、案の定、生徒たちの視線は一気に集まり、光一は奇異の目に晒された。スキャンダルが発覚した芸能人を取り囲むマスコミのように、自分に人がたかるかと光一は思ったが、皆、光一の表情を見て、声をかけるのをためらったようだ。


 ……そんなに俺は今、声をかけづらい顔をしているのだろうか。無言で大勢から視線を浴びるのはあまり落ち着かない。いっそのこと大声で取り囲んでくれた方が、まだ楽だったかもしれない。


 そのまま誰とも視線を合わせず、男子側の階段を登ろうとすると、人だかりの中から一人だけ、空気を読まずに光一の元に駆け寄った者がいた。

「ね、ねえ、大丈夫?」

 遠慮がちな声でそう尋ねたのは、やはり悠月だった。彼女ももう制服に着替え終わっている。

「ああ。別に俺が何かされたわけじゃないからな。お前こそ、勝手に抜け出したのばれて、なんかされなかったか」

「ううん、今日は先生たちも忙しそうだったから……でもその内、怒られるかもね」

「かもな……」

 悠月は心配そうな目で光一を見つめる。

「こんな時、なんて言えばいいのか分からないけど、元気……だしてね」

 本当に、何を言えばいいか分からない中、絞り出したような声だった。

 光一は「ああ」という短い返事だけを残して、静かに階段を上った。

 そして四階に着くと、どうしても最初に、408号室が目に入る。扉には「立ち入り禁止」と書かれた大きな紙が貼られていた。

 それを見て、なんとも言えぬ気持ちが光一の中に広がった。

長く続く廊下を、いつもとは反対側の方に渡り、400号室の扉を開ける。

入ると、部屋の間取りは全く同じだが、余分なものがない分、少しだけ広く感じる。布団は二段ベッドの下にだけ敷かれていて、そこに光一は、倒れるように飛び込んだ。

 ぐるりと体を動かし、上を見あげる。

 普段寝る時とは違う光景。いつもは天井が見えていたが、ここからでは二段ベッドの上が見える。そう、畑がいつも見ていた光景。

 よく考えれば、自分一人だけで寝るというのは、かなり久しい事に思われた。施設時代も相部屋だったし、文野学園に来てからは、ずっと畑と同じ部屋だったのだ。

 そう思った瞬間、畑の死を、光一は真の意味で実感した。

 もう寝る前におやすみと言ってくれる彼はもういないのだ。悠月のことでからかってくれることもない。一緒に食事を取る事すら、永遠に出来ない。

 閉じている目から自然に涙がこぼれた。とまる気配もなく、永遠に流れるかとも思われるような、冷たい涙だった。



 光一は夢を見た。漠然としていて、細かには思い出せないが、畑がいたことは間違いない。そして、自分に何かを叫んでいた。悲痛な何かを訴えるように……。

 はっと体を起こすと、視界に違和感を覚えた。上を見上げると、二段ベッドの裏側が見える。そのことで、ここがいつもとは違う部屋だという事を思い出し、それと同時に、ここで寝ることになった過程も、何もかもを思い出した。

 起きた瞬間、畑の死も、夢だったのではないかという淡い希望を心に抱いたが、やはりあれは現実だったのだという失望と、底知れぬ虚無感が光一を覆う。

 体を休めたことによって、寝る前よりは、だいぶ頭が回るようになっていた。それにより、光一の頭の中に、一つの疑念が浮かぶ。

 畑が死んだ……。それは、間違いない。自分の目で確かに見たのだから。だが、彼は本当に自殺したのだろうか? 警察がそうだと断定したらしいが……。

 畑が自殺……。それは今になって考えてみると、俄かには信じられなかった。

 確かに彼は、この学校での厳しいスパルタについて行けず苦労しており、傍から見てもとても辛そうだった。生い立ちにも難があり、決して恵まれた境遇で育ってきたとは、お世辞にも言えない。客観的に見れば、自殺する動機はあると言えるだろう。

だがそれでも、光一はとても畑が自殺するとは思えなかった。彼は、体は弱くても、心には強い芯を持っていた。あいつには夢があった。大学に通って、就職して、結婚し、家庭を持つ。光一と同じ夢だ。それを初めて聞いたとき、光一は彼の強い意志を感じた。

 何より、昨日学校を抜け出す前、今となっては最後の会話になったあの時も、普段となんら変わった様子はなかった。

 いったい……なぜ?

 しばらく頭を悩ませ、畑の自殺の原因を探ったが、何一つ、それらしい解を見つけることはできなかった。



光一が起きて少し経った頃、田岡がいつものように険しい顔つきで400号室に訪れた。時刻を見ると、もう五時を回っていて、全授業が終わった頃だった。文野学園は土曜も平常授業なのである。

「あんなことがあった後だからな、今日は大目に見てやる。しかし明日は、勝手に学校を抜けた罰として、校舎の掃除をしてもらうからな。それとだ、今日中に畑の荷物をお前たちの部屋から撤去しなければならない。だから朝霧、あの部屋にあるお前の私物と畑のものとで分けておけ」

「ちょっと待ってください。僕はこれから、どこの部屋を使う事になるんですか? 他の生徒がいる部屋にいくんですか?」

「いや、あのまま同じ部屋を一人で使ってもらうことになった。自殺のあった部屋など使いたくないかもしれんが、我慢してもらう。撤去作業があるまでは、400号室で過ごしてもらうがな」

 田岡はそう言ったものの、光一は内心ではほっとしていた。いまさら、畑以外の人間とルームメイトになるなど、考えられない。

 その後、二人の間にぎこちない空気が流れると、田岡もそれを気にしたのか、光一から顔をそらし、どこかを見つめたまま言った。

「あと……朝霧、お前、何かと畑と仲がよかったろう。何か形見になるものがあれば、もっていっていいぞ。撤去されるまでにな」

 言い終えると同時に光一に背を向け、田岡は去った。

 形見……か。

 その言葉で、畑が死んだという事実を、さらに脳の中枢に押し付けられたような気がした。

光一は田岡の言葉に従って、憂鬱な気持ちで、本来の自分の部屋である408号室へ向かう。立ち入り禁止の紙は、もうはがされていた。

 ……いざ扉の前に来ると、緊張と不安の入り混じった感情が湧き出た。昨日のあの光景は、嫌というくらい、光一の記憶に鮮明に焼き付いている。

 それと同時に思い出すのは、幼き頃、両親の自殺体を発見した時の衝撃。

 ――あまりにも、あまりにも似すぎている。なぜ俺は、大事な人ばかりを悲しい形で失ってしまうのだろう。

 嫌な感情を振り払えないまま、ゆっくり扉を開けて部屋を見渡すと、とても昨日ここに死体があったとは思えないくらい、普段通りの状態だった。

 ええっと、まずは……。

とりあえず扉右横にある、クローゼットを開けた。

 クローゼットの中には畑の服や持ち物などが、光一の物と一緒に置いてある。

 持ち主がこの世を去った今、これらは撤去されると田岡は言ったが、具体的にはどうなるのだろう。無慈悲にも捨てられるのだろうか。もし家族がいれば、遺品として、家族のもとに届けられるのだろうが、畑は自分と同様に、親族に数えられるものはいない。やはり、捨てられてしまうのだろう。

 それなら、自分が彼の親友として、どれか一つでも形見としてもっておくというのは、得策に思えた。田岡もああ見えて、意外と人情というものがあるらしい。もしくは、畑の自殺に、担任として責任を感じているのだろうか。常日頃から畑には厳しく当たっていたので、それは当然だ。

しかし、田岡への怒りがまるで湧いてこなかった。未だに、自殺という事に納得がいっていないからである。

 光一はまず、クローゼットの中を漁って、衣類などを自分のものと畑のものとで小分けした。出身の施設から文野学園に移る際、持ってくることのできる衣服は、下着類を除いて、一季節ごとに三種類までと決められていたので、さほど量は多くない。それらをざっと見渡してみる。しかし特別、形見にしたいようなものは見当たらなかった。この学校ではこのような私服を着る機会はほとんどないのだ。特に畑が愛着していたというようなものもない。

 続いて、壁際に二つ並んでいる机の奥の方、畑の机の引き出しを開けて、無造作に漁ってみる。引き出しの中には筆記用具やノートなどが綺麗に片づけられていて、目立ったものは何もなかった。

 あまり形見として持っていくに適したものはなさそうだと、半ば落胆しながら、光一はなにげなく、数あるノートを隅から、雑にめくっていった。

 ほとんど授業中に使っていた勉強のノートだったが、あるノートをめくった時、ふと、光一は手を止めた。

 それは他のノートと同様に、売店で買える普通の大学ノートだったが、勉強のために使われた形跡はなく、日付と、その日にあった出来事が丁寧に、二、三行程度で几帳面に記されていた。

 つまりは日記だ。最初のページをめくると、今年の五月八日の日付からつけられていた。今日は七月の十五日である。

 ……こんな半端な日から日記をつけ始めたとは考えにくい。ということは、他にも日記のノートがあるはずだ。

日記となると、その内容に興味がそそられるのは至極当然の事である。

 光一は、畑には悪いと思いつつも、これより前の日記のノートを探し始めた。机の中の物を全て出し、その中からノートを一冊ずつ漁っていく。

 しかし、日記は見つからなかった。どれも勉強用のノートばかりで、発見した日記のノートより前の日付の物は見つからなかった。

 光一はもう一度机の引き出しをすべて空け、目を通してみるが、やはり空のままだ。

 なぜだろうか。光一は怪訝に思いながら、床に座り込むと、そこでピンと、あることに思いあたった。


 ……畑の内気な性格からして、日記のようなものを、そう簡単に見られるような場所に置くだろうか?


 そう思った光一は、机の引き出しの中に手を突っ込み、普段は絶対に触らない箇所である、上部を手当たり次第に触っていった。

 ……昔、脱獄ものの映画でみたことがある。こういう箇所にテープか何かで……。

  そう思った矢先、一番下の最も高さのある引き出しの上部に、突っかかりがあるのを発見した。感触からして、ノートであるように思われた。

すぐさま出っ張っている部分の端を触っていくと、やはりテープが張られていた。それをはがすと、予想通り、隠されていたのはノートだった。しかも二冊重なって。すぐさまページを開いてみる。


……ビンゴだ。


 やはり日記だった。さらに日付を確認すると、なんと、一年前の四月、つまりはこの学校に入学した時からつけられていた。

 死んでしまったとはいえ、勝手に覗くことは罪悪感があったが、形見として持っていくにはこれ以上のものはないし、もしかしたら彼の死の真相を探ることができるかもしれないと思い、光一は持ち帰ることを決めた。


 400号室に戻った後、光一は二段ベッドの下に寝そべって、一番古い日付が書かれているノートから読み漁った。

 先ほども確認したように、日記はここ文野学園に入学した日からつけられていた。入学当初の頃の内容は、やはりここの異常性に驚いたことについて書かれていた。

 無理もない。誰もあんなスパルタで気味の悪い校長を崇拝しなければならないなどと、聞かされていないのだ。

 読み進めるとクラスのメンバーのことや、文野学園のスパルタになかなかついていけない苦悩、ルームメイトとなった光一のことについていても触れられていて、 光一との最初の出合いや、長い期間で培われた思い出も綴られていた。それを読むたびに光一は過去を思い出し、何度か涙を流した。やはりこの日記を形見に選んで正解だったと思う。

 光一は時間を忘れて日記を読み進め、二冊目のちょうど中間あたりに入ると、とうとう二年に進級した時期になった。しかし今のところ、特に変わった内容の記述はない。この学校はクラス替えがないし、ルームメイトも変わることがないので、環境に大きな変化がないからだ。

それにしても、光一が感心したのは、代わり映えの無い日が大半だっただろうに、一日として記録をさぼっていないということだ。一、二行程度しか書いていない日もあるし、後半になるにつれて字も雑になってきたりもしたが、何の記述もないという日は今のところ一度もない。いかにも真面目な畑らしいといえるだろう。

しかし毎日かかさず書いていたのに、今まで光一がこの日記の存在に気付かなかったというのは、やはりそれほど目にとまらないように慎重に書いていたということになる。なにせあのような隠し方をしていたのだ。

 それほどの物をこうして勝手に閲覧することに、再度、罪の意識を感じた。

……だが、なぜ現在進行中だった三冊目の日記だけは、引き出しの上部に隠さず、

他のノートと一緒になっていたのだろう。光一は一瞬そう疑問に思ったが、もしかすると、普段から進行中のノートだけは、特に隠していなかったのかもしれない。

毎日テープを剥がしてまた付けるという作業は相当面倒なはずだ。一冊くらい勉強のノートに紛れていても、表紙は同じなのだからばれることはないし、そもそも光一が畑のノートを漁る事などないと思ったのだろう。実際、こんなことにならなければ彼のノートを一冊ずつ漁るなんてこともなかったはずだ。 

 再度、申し訳なさを感じながら日記を読み進めていくと、光一はある異変に気付いた。日記が三冊目に入って少しした頃、時期で言うと今年の六月、つまりは先月頃、徐々に文章に棘が出てきたというか、文野学園に対する不満を露骨に、彼らしくない文章で書くようになってきたのだ。

六月五日の記述に、このような一文がある。

『もう我慢ならない。次の感謝状には、このくそったれた学校への不満をぶちまけてやる』

 感謝状とは例の、月に一度、当校の校長、倉知慎太郎に対する感謝を綴る手紙である。

畑は本当に、感謝状に不満を綴ったのだろうか? だとしたら大変なことになると思うが……。

 その後も毎日のように、この学校の理不尽なまでの生活への不満の念が書き込まれていた。それは日が立っていくにつれ、表現が過激になっていき、最後の方になるともはや別人のようになっていた。

光一は大いに驚いた。自分の見ていた限り、畑はこんな言葉使いをしないし、ここまで不満を抱いている様子もなかった。それは日記の中で言葉が荒々しくなっている時期、つまりはここ最近でもそうだったと思う。

 もしかすると、畑は常に日々の不満を自分の心の中に押し込み、この日記をそのはけ口としていたのだろうか。そしてそれも限界を超え、自殺するに至った……。

 彼が自殺などするわけないと思っていたが、それは俺の思い過ごしだったのだろうか。

一度そう思うと、光一は罪悪感にさいなまれた。

なぜ彼が普段抱えこんでいた苦痛を汲み取ってやれなかったのか。ちゃんと気付いて上げられれば、彼の命を救えたかもしれないのに……。

さらに読み進めていくと、衝撃の文章を光一は見つける。


『とんでもないことをしてしまった。我ながらなんてバカなことをしたのかと思う。今日、一人でいる時、田岡教官に職員室に呼び出された。その原因は、やはりあの感謝状の内容のことだった。どうやら、相当怒らせてしまったらしい。明日、校長から直々に話があるから夜中、誰にもばれないように来いと言われた。どんな仕打ちがあるかもわからない。なんてバカなことをしてしまったんだろう』


校長から直接呼び出された!? その内容に、なぜか光一は焦りを覚え、次の日に進む。


『教官に命令された通り、光一君の目を盗んで、こっそり職員室に行くと、既にそこには校長がいて、物凄い形相で僕を睨んでいた。校長は、その場で僕を殴りつけ、無理やり僕を外に連れ出した。近くにいた何人かの教官はただ見ているだけだった。連れ出された場所は、旧校舎の懲罰室だった』


懲罰室……!? この単語に光一は敏感に反応した。内容はまだ続く。


『そこで、ひどい仕打ちを受けた。地獄とはまさにあのことだ。あんな汚い所で、あんなに殴るなんて、考えられない』


その後も、数日に渡って、倉知から暴力を受け続けたことが綴られていた。時間帯は夜に限らず、誰にも見つからないような隙間の時間帯などにも呼び出されたと書かれてあった。そこで受けた暴力の悲惨さは、文章を見るだけで伝わってきた。後半に入ってくると、文章も雑で、時にはただ一言、『辛い』とだけ書かれていたこともあった。

光一にとって、それは見るに堪えないほど辛いものだったが、それでも読み進めた。彼の死の直接的な原因となるものが見つけられるような気がしたからだ。

そして最後のページに入った。後ろをめくってみても、これ以上は何も書かれていない。そして日付は、七月十三日。光一が悠月と抜け出した日の前日、つまりは一昨日だった。


『もう我慢の限界だ。また明日の夜、あの校長に呼び出されたと田岡教官から伝えられた。僕はそろそろ殺されてしまうだろう。例え命が奪われないにしても、もはや死んでいるも同然だ。だったら……そうだ、返り討ちにしてやろう。懲罰室には確か、鞭やロープがあったはずだ。それを使って、絞め殺してやろう。向こうはこっちが反抗しないものだと思っている。その油断をつけるはずだ。絶対にやってやる。せめて、せめて同士討ちにはしてやりたい」


 これで、三冊目の日記は終わっていた。

 何度後ろをめくっても、続きは見られない。

 光一は、茫然としていた。

魂が抜けたかのごとく、思考が停止する。

 しばらくしてやっと、突然スイッチが入ったかのように頭の中を色々な思いが駆け巡る。

 そして、点と点がつながるように、とある記憶が呼び覚まされた。

 思い出したくもない、しかし決して忘れることのできない、両親の首吊り自殺体を見た時の記憶。

 自宅に帰った時、当時小学生だった光一は、部屋に漂う異質な、あまりにも不快なにおいに、鼻を曲げた。

人間が首を吊って死ぬと、失禁して、尿や便などの退役が体中の穴からこぼれ出て、異常なにおいが部屋の中に充満し、悲惨な状況になるのだ。自分の体験から、そのことを光一はよく知っていた。

 しかし、光一がこの部屋で畑の死体を発見した時、そんなものはなかった。多少は変な臭いもあった気もするが、あの部屋で本当に首をつって死んだとすれば、あんなものではすまないだろう。床にも便や尿のようなものは見られなかった。

 そして、それが意味することは、ただ一つ。

 畑は、この部屋で死んだのではない。

 と……いうことは……。

 ぞくぞくと、腹の底から、恐ろしい仮説が浮かんでくる。

 畑は、昨日、おそらく光一が悠月との脱走のために部屋をでた後、日記に書いてある通り、倉知殺しを実行しようとした。しかし功を奏さず、逆に返り討ちにあい、殺されてしまった……。

 あっ! っと、またさらに光一は、ある光景を思い出した。

 悠月と外に抜け出す際に旧校舎で見た、あの二つの人影……。

 あれは、倉知と畑だったのか!

 光一は目を閉じ、記憶をたどることに全神経を注いだ。

 俺が、この部屋で畑に学校を抜け出すことを伝えた時、畑は何かを書こうとしていて、俺の姿を見て、明らかに隠した。

 あれはきっと、この日記だったのだ。

 断片的な記憶がひとつの点となって、恐ろしいくらいにスムーズに繋がっていった。

 ……そして最終的な結論にたどり着く。

 畑は、月に一度出す感謝状に学校への不満を書き、倉知の怒りを買った。そして倉知から定期的に懲罰室などに呼びだされ、暴力を振るわれることで、不満はさらに募っていった。そしてある日、自分はいつか殺されるのではないかという恐怖と、今までの怒りにとらわれ、逆に自分が倉知を殺してやろうと決意する。

 日記に書いてあるのはここまで。以上の事から予想されるのは、一つの仮説。とはいえ光一は、これしかないという確信をもっていた。

 畑は、倉知を殺そうとしたものの、返り討ちに会い、その場で倉知に絞め殺された。その後倉知は畑の死を自殺に見せかけるため、畑と光一の部屋、408号室へと運んだ。

 408号室を自殺現場に見せかけたのは、おそらく倉知は、あの時、光一たちが外に抜け出すのを発見したからだろう。ルームメイトが外に抜け出していて、自分だけしかいない部屋。この学校では最も自殺に適した状況と言えるだろう。

だが、倉知が畑と光一がルームメイトだという事を認知していたのだろうか? と一瞬思ったが、あの夜、倉知のすぐ側には畑もいたのだ。その場で畑から自分のルームメイトだと聞き出すことは容易だろう。その時の倉知の心理としては、もう抜け出した生徒の名前は分かっているのだから、後で処分を下せばいいということになる。

 しかし、懲罰室に連れて行くと、思いもせぬことが起きた。なんと、畑が怒りに任せて反抗の意を示し、懲罰室のあの物置からロープをもって自分を殺そうとしてきた。

だが畑は体が弱いので、その奇襲も功を奏さず、倉知は返り討ちにできた。しかしそのまま勢い余って殺してしまう。そう考えると、意外と倉知の奴も危ないところまで追い込まれていたのかもしれない。

 殺してしまった倉知はおそらくこう思う。これはまずい。一応は正当防衛だが、普段から自分は定期的に彼に暴力をふるっていた。呼び出したのも自分だ。しかも生徒が寮の外に出るのを禁じられている時間にこっそりと。

なにより死亡現場が懲罰室。これが一番の問題だ。なぜなら、懲罰室の鍵を開けることができるのは職員だけだからだ。つまり倉知が正当防衛を主張するにはかなり難しい状況。そこで、自分が殺した生徒と先ほど外に抜け出していた生徒が同じ部屋どうしという事を思い出し、畑の死体を408号室まで運び、首つり自殺の死体に見せかける。という案を思いついたのだろう。

 一人で遂行するのは難しい。おそらく、この学校の教官何人かを協力させたに違いない。倉知は莫大な資産を持っている。金で釣れないことはないだろう。問題は運ぶ際だが、完全消灯時刻の十時になれば、生徒は部屋から出る事を禁じられている。光一たちが外に抜け出したのが、九時過ぎ頃だったため、時間的にも辻褄が合う。

 そして、もし見られた時のために、大きな箱にでも入れて、教官何人かで運ぶ。もし見られたら、学校の機材か何かを運んでいると、ごまかすことは難しくない。生徒もその光景を見るということは、部屋を出てはいけない時刻に外に出ているということ、体罰が怖くて追求しようとは思わないだろう。

 ……だが、いくら自殺体に見せかけたとは言え、警察の目をごまかすことはできるのだろうか? 警察では、本当に自殺かどうか、司法解剖を通して、徹底的に調べるはずだ。警察まで騙しとおすのは、相当難しいはず……。

そう思った途端、光一は自分が警察から受けた事情聴取を思い出した。

 

――あれは、あれは余りにも短すぎやしなかったか?


 あの時は、畑の死の衝撃で呆然としていたため、まったく気にならなかったが、今思えば、あの事情聴取は余りにも短すぎた。内容も、発見した時の状況を聞くだけの適当なものだった。本来ならば、自殺の原因として思い当たる事や、畑の普段の様子や最近変わったことはなかったかなど、もっと聞くことがあったはずだ。最も長く共同生活をしているルームメイトの光一ならば、なおさらである。

それに何より……完全に自殺だと決めてかかっている。そんな感じだった。

 そこで光一の脳裏に、あまりにも恐ろしい、一つの懸念が浮かんだ。

 ――倉知は、警察にも通じているのでは? 

あいつは元政治家であり、しかも大臣の経験まである。もしかしたら、警察の上層部と強いコネクションがあるのかもしれない。

 いくら首吊りの自殺に見せかけようとも、警察が本気で調べれば、他殺とばれないわけがない。同じ首絞めでも、自殺と他殺では、体に残る痕跡などに大きな違いが出ることは光一でも知っている。

だが確か、警察は他殺か自殺か疑わしくない限り、つまりは自殺だと最初から決めつけてかかる場合は、司法解剖に回さず、それ以上の調査をしないと聞いたことがある。そうなると、明らかに自殺だと上に報告が行けば、そのまま遺体は調べられることなく葬り去られるのではないだろうか。

 完璧な自殺体に見せかけることは無理でも、繋がりのある警察の上層部に頼み、調査をさせないことはできるのかもしれない。どうにか手回しして、本格的な捜査をさせなかったのだろう。

 倉知が警察と繋がっている。そうと考えれば、あらゆる点で辻褄もあう。死体の第一発見者であり、ルームメイトでもある光一への取り調べが三十分にも満たないような適当なものだったこと。死体を運ぶと、いとも簡単に引き上げてしまって、学校に対し調査をしないこと。

例え自殺であっても、クラスメイトたちに聞き込みなどをするのが自然である。

 明らかに、警察にも倉知の手が回っているとしか思えなかった。

 そしてそれが、確信に至るまで、そう時間はかからなかった。

 

……光一の中に、沸々と、腹の底から噴火のごとく強い怒りが込み上げてきた。普段からの徹底的な暴力に加え、若い命まで奪い、それを自らの力でごまかすなど。

 しばらくの間、光一は硬直した。体内を、燃え滾る血が沸騰するような熱さで、普段とはかけ離れた速度で駆け巡った。

 一度、大きく深呼吸をする。しかし、落ち着きは取り戻せない。

 決断を下すのに、時間はかからなかった。全身を渦巻いているマグマのような熱気が、光一に、鉄より固い意志を与えた。


 ……殺す。絶対に殺してやる。あの倉知という悪魔は、必ず俺がこの手で葬りさってやる。

 

光一は日記を閉じ、考えを巡らせた。




「はあ。やっぱりこうなっちゃったか。せっかくの日曜なのに」

 悠月はバケツに水で湿った雑巾を絞り、深いため息をつく。その顔はどこか気だるそうだ。

 光一と悠月は今、学校を抜け出した罰として、唯一の休みである日曜にもかかわらず、校舎の清掃をさせられていた。

田岡が訪れたのは、ちょうど昨日、光一が日記を読み終わって一時間ほどたった頃。脱走した罰として第一校舎の清掃を告げられた。その際、光一は黙って聞いていたが、心中では田岡にも激しい憤りを覚えていた。

こいつだって、畑の死の真相を知っているはずだ。それどころか、金に釣られて自殺の偽装にも一役買っているに違いない。

こいつはどうせ自分の生徒を、所詮は暴力の対象としか思っていない。その事は普段の態度からも分かってはいたが……。こいつだってあの倉知と同罪だ。

光一がしばらく、敵意のこもった目で田岡を睨みつけていると、渾身の蹴りを腹に食らった。

「あんなことがあったから、今回はこの程度にしてやってるんだ。次やったらただでは済まんぞ」

 そうして今、光一は悠月と二人、休み返上で第一校舎の掃除をしているわけである。

 いつもだったら、どんな罰でも、悠月と一緒なら楽しくすら感じた。しかし今、光一の中にあるのは、消える気配を見せない、激しく燃え上がった炎だけだった。必ずや復讐するという思いに、光一は燃えていた。

 その明らかに普段とは違う光一の様子に、悠月は不安そうな顔を見せた。

「ねえ、大丈夫? あんなことがあった後じゃ、やっぱり、あれだよね……」

こんな時でも悠月は自分の身を案じてくれる。どうやらまだ俺が悲しみに暮れていると思っているようだ。もちろん、畑を失った悲しみは未だに大きい。しかし今はそれよりも、あの校長、そしてこの、いかれた学校に対する怒りで感情のすべてが支配されていた。

光一は、何も言わず、廊下の窓のそばまで寄ると、険しい顔で外を見つめた。

外では多くの生徒たちが安息をとっている。広い校庭にはいくつかのグループが出来ていて、サッカーなどの球技をして遊んでいる生徒もいる。週に一度の休みの、校庭や体育館での遊び、これがここの生徒の唯一の娯楽だ。しかし例え日曜でも、ここの敷地内を出ることは許されない。考えれば考えるほど、浮き彫りになるこの学校の異常性。これではまるで刑務所ではないか。

またも、光一の中にやり切れぬ怒りが湧いてきた。これで何度目かも分からないが、未だに抑えることが出来ない。

 ……あの倉知が死んだところで、いったい誰が悲しむだろう。この学校の中にも外にも奴の信者はいるが、それは全て、騙されているに過ぎない。あいつは絶対に、この世に存在してはならない人間なのだ。

あれから少しは冷静になって、死ぬほど頭をひねらせた。殺人は、あまりにもリスクが高すぎると、一度は思い直したからだ。

しかし、どうやったって倉知を逮捕まで追い込む方法が思い浮かばなかった。なにより、あいつは警察の本格的な捜査を妨げるほどの力を持っているのだ。こっちがなんと言ったって、はじかれるに違いない。

それにたとえ、倉知の犯罪を立証し、上手く逮捕まで追い込んだとしても、奴が正当に裁かれる保証がどこにあるというのだ。裁判では、倉知の過去の偉業や社会貢献などが情状酌量の材料として考慮され、大した罪にはならないかもしれない。信者たちの声ばかりが大きく聞こえ、それが世論という形にとられるかもしれない。

光一に法の知識は無いが、少なくとも死刑になるとは思えなかった。

 ならば、やはり自分がやるしかないんだ。光一は、ずっと自分にそう言い聞かせていた。

深く考え込んでいたせいか、一人でぼうっとどこかを見つめていたらしい。気付くと悠月が顔のすぐ近くで、自分の瞳をのぞき込んでいた。

 そのどこか深いところを見るような眼差しに、光一の意識は現実に帰る。

「……ねえ、何か知ってるんでしょ?」

光一はどきりとした。まるで、悪事がばれた子供のような心境になった。

「なんとなく分かるよ。ただ畑君が死んで悲しいってだけじゃない。なんか、恐い顔してた。誰かに怒っているみたい」

「……まったく、バカのくせに、そういうとこは鋭いんだな」

 悠月は以前から、心を読んだかのように光一の心境をズバリと言い当てることがあった。その度に光一は驚くが、不思議と、気味の悪い感じはしなかった。

「……何があったの?」

 光一を見つめる悠月の目は、今まで見たこともないくらいに真剣なものだった。

これは、隠し通すのは無理そうだ。光一は全てを話す決意をした。



 死体を見つけた時の不自然な状況、その後発見した日記とその内容、自分の推測、全てを打ち明かしている間も、悠月は顎に手を当てて、終始、顔色を変えなかった。その姿はいつもの能天気な彼女とは違い、どこか知的な印象すら覚えた。

 そして光一の話を聞き終えても、すぐには言葉を発せず、しばらく考える様子を見せてやっと、鋭い視線を光一に向けながら、重たい口を開いた。

「それで、どうするつもりなの?」

 意外な質問が飛んできて、光一は驚いた。てっきり、悠月自身ももっと感情をあらわにするものだと思っていた。

そしてその声には、光一の心中をもう理解しているという意味が含まれていることを、光一もすぐに察した。

「……仇を討つ」

 悠月の目つきがさらに鋭くなる。

「……どういうこと?」

「あいつに復讐する」

「どうやって? 犯行を証明できるの?」

「無理だ。だから……あいつも同じように殺す」

「それはダメ!」

 急に悠月は声を荒らげると同時に険しい表情を見せ、光一の両肩をぐっと強く掴んだ。

「だが……」

「だがじゃない! それだけはダメ! お願い! ほんとにお願いだから!」

 今まで見たことのない、鬼気迫る様子の悠月に、光一は面を食らった。

「……君の様子から、なんとなくそんな気はしてたんだ。気持ちはわかるよ。すごく。でもね、それじゃあ、あの校長と同じだよ。例え相手が悪人でも、ダメなものはダメなんだ……」

 光一は何も言えずにうつむいた。悠月の言うことはもっともかもしれない。

しかしそれでも、決意は揺るがなかった。だが、ここでは納得した振りをするほうがよいだろうと、光一は判断した。

「ああ……分かった。少し頭が冷えたよ。もう、そんなことは考えない」

「ほんと? ほんとだね? 嘘ついたら、嫌いだよ」

「ああ。ほんとだ」

 それでもまだしばらく、悠月は疑わしい目で光一を見ていた。



その後二人は再び、掃除作業に戻った。罰として二人に当てられた区域は、なんとこの巨大な第一校舎全てである。ちょうど今三階の掃除が終わったところだが、まだまだ先は長い。気が遠くなりそうだった。 

そして、四階の廊下を雑巾で拭いている時だった。

「光一くん。さっきは、ごめんね。急に怒鳴っちゃって……」

 伏し目がちに、か細い声で謝る悠月は、どこかしおらしかった。

「いや、いいんだ、お前が正しい」

 光一がそう言うと、悠月は過去を懐かしむような顔で語った。

「あのね……私が施設にいた時の、そこの施設長の人がね、すごくやさしいおばさんだったの、でね、その人が言うには、例え仕返しでも、悪いことは絶対にしちゃあいけないって言うの。だって同じことをしちゃったら相手と同じでしょ? だから仕返ししなくていい。悪いことをした人には、絶対に、絶対に罰が当たるから。もし仕返ししちゃったら、自分にも罰が当たるって」

 後半の方になると、悠月は涙目になりながら、説得するような口調になった。

 だがそれは、綺麗事にすぎないと光一は思った。世の中、そんなにうまくは出来ていない。悪事を働いてもなんの罰も受けず、のさばり続けている奴など、世の中たくさんいるのが現実だ。

「私は、そのおばさんのことが大好きで、ずっと尊敬してて、同じ思いをもってる。それをきみに押し付けるのは、おかしいことかも知れないけど……」

 光一が何も答えず、無意味に床を見つめていると、その後ろから悠月がそっと手を光一の前へ回し、やさしく抱擁した。

 彼女の柔らかい胸の感触を背中で感じると、全身が硬直した。体が熱くなり、緊張しているのが自分でもわかった。

「わたしね、光一くんが好き。……初めて見た時から、何か不思議なものを感じたの。なんでだか分からないけど、特別な人だと思った。ほんとだよ」

「ああ。俺もだ……」

 光一は振り返り、悠月を強く抱きしめると、唇を奪った。そのまま強引に廊下に寝かせると、悠月は抵抗せずに目を閉じ、光一に身を預けた。

 光一はそのまま、彼女の制服に、そっと手を伸ばした。



 翌日、緊急で全校集会が開かれた。内容は間違いなく、畑の死に関するものだろう。しかもこの会には校長が出席するという。

あの倉知は、自分が殺した生徒についてなんと言及するのだろうか。光一の胸の中にある、燃え切らないわだかまりが、叫ぶように疼いていた。

 今、全生徒は、校長挨拶の時と同様に体育館に集められ、いつもの隊列を組んでいる。

 しかしいつもとは違い、体育館は少しざわついていた。それはそうだ。緊急集会など、光一たちの一つ上の学年の三年はどうだか知らないが、二年までの生徒なら初めてであろうし、なにしろ内容が分かり切っている。皆、あの自殺の件についてどのような説明がなされるのか、気になるのだろう。

 しかしその喧騒も、すぐに教官たちによって鎮められ、恒例の沈黙が生まれる。そしてしばらく経った後、沈黙を破るのは、やはりこの扉を開く音だった。

 ぎぎぎと重い音が広い体育館に響き渡り、場の緊張感が加速する。

 真ん中にできたスペースを大股で堂々と歩くのは、文野学園の校長である倉知慎太郎。中央を突き進む倉知に対して、全生徒は深く敬礼する。光一も、不本意ながら身を傾けた。

 壇上に上がった倉知は、いつもよりどこか重鎮な雰囲気を纏っていた。

「諸君、すでに知っているとは思うが、我が文野学園の生徒が、情けなくも、自殺という形でこの世を去ってしまった」

 光一の眉がピクリと動く。何かに耐えるように、拳を震わせていた。

「本校でそのようなことが起こってしまったのは、誠に遺憾である。これを受けて、本校の校長として本当に私は恥ずかしい。これは彼一人ではなく、君たち全員の日頃の鍛錬の甘さが引き起こした結果だ」

 光一は、耳を疑った。

「どうやら自殺した生徒は、体魔業の際も周りに後れを取っていたと聞く。日頃から鍛錬がなっとらんから、軟弱な精神から抜け出せんのだ。二度とこの学校からそんな恥ずべき生徒が出ないよう、規律をさらに厳しくしようと思う。諸君ら、今まで以上に懸命に鍛錬に励むように。以上」

 倉知が発言を終えると、代表生徒が例のごとく大声で「礼!」と叫ぶ。

 すると同時に、生徒たちは、一秒のずれもなく、深く腰を曲げた。

 ……ただ一人、朝霧光一を除いて。

 光一はこの群衆の中で一人、微塵も体を動かすことなく、腕を組みながら悠々と、周囲を眺めていた。

 なるほど。こうして見ると確かに壮観である。まるで本当に訓練されつくした兵士たちのようだ。これをあの高い壇上から見下ろすとなると、癖になるのも分からない気がしないでもない。

光一のその射殺すような目つきは、周囲の生徒たちから、自らの権威を誇示せんと堂々と立ち尽くしている倉知慎太郎へと移る。その倉知も当然、たった一人頭を下げず、自分に牙をむく光一を、鋭い眼光で睨みつけている。

目があった瞬間、電撃が走ったかのように光一は武者震いした。こうして対峙すると、あの倉知という男は確かに、相当な威圧感を持っていた。距離はだいぶ離れているが、あの眼光が纏う独特な気を、光一は全身で感じた。

 しだいに足が震えだす。だがここに来て、引けはしなかった。気持ちで負けてはだめだと自分に言い聞かし、頑として、倉知に敵意のある態度をさらした。

「馬鹿者!」

 そこで突然、体育館にドスの聞いた、聞き覚えのある低い叫び声がこだました。光一はもちろん、体育館にいる全生徒、おそらくは倉知も、その声の方を向いただろう。

 そして振り向いた先にあるのは、血相を変えてこちらへと向かって来る田岡の顔だった。

他の生徒を払いのけ、ものすごい勢いで光一へと詰め寄る。

「ごふっ」

 状況を認識する間もなく、光一の頬に、田岡の速度のある拳が叩きつけられた。そのままの勢いで光一は床に倒れこみ、周囲の生徒たちの悲鳴が体育館全体に走った。

 光一は、倒れ込んだまま顔を抑える。 

……今のは、今のは間違いなく、本気の一発だった。

顔を上げると、近くにいた生徒たちは皆、距離を取り、固唾を飲んで見守っていた。

「ちょっとどいて!」

そんな中、先の田岡と同じように他の生徒をかき分けて、近寄ってくる悠月の声が聞こえた。しかし、光一と田岡の側に来る前に、他の教官によって進行を妨げられてしまう。

「来い!」

 田岡は未だ床に手をついている光一の制服を強引に掴むと、ずるずると外に引きずり出した。ほとんどの生徒が興味津々という顔の中、他の教官に取り押さえられている悠月だけが、心配そうにこちらを見ていた。




 気が付くと、既視感のある汚い床に寝ていた。この独特の臭いも、覚えがある。

どうやら気を失っていたらしい。確かあの後、さらに数発殴られたのだ。口の中は血の味で充満しており、まだ痛みを感じる。

 虚ろな目を半分開いて周囲を見渡すと、やはりここは懲罰室だった。そして蛇口があるところに、田岡の後ろ姿が見えた。

 数秒も経つと、田岡が振り向いて、こちらの方へ近づいてくる。その右手には何かぶらさがっているのだが、視界がぼやけてよく分からない。未だに、意識が朦朧としている。

 田岡は光一の側まで来ると、抱えていたものを両手で持ち替えて、高く振り上げる。

 光一の全身に、冷たい水が覆った。まだ夏とはいえ、急に冷水をかけられると、流石に体が驚く。田岡が手に抱えていたものはバケツだった。旧校舎にはどうやらまだ水道が通っているらしい。

そして冷水をかけられた衝撃からか、段々と頭の冴えが戻ってきた。

「おい」

 水よりも冷たい声をかけ、田岡は光一を見下ろした。それと同時に光一も顔を上げる。

「なぜあんなことをした」

 その一言で、光一の体内に、再び怒りの熱が帯びた。

なぜあんなことをしたか? そんなものは決まっている。あの倉知の顔を見て、あのふざけた発言を聞いて、全身が煮えくり返るほどの怒りを感じたから以外に、何があるというのだ。

 しかもこいつは、素知らぬふりをしてはいるが、間違いなく真実を知っているのだ。なぜなら最初に、倉知のもとに畑を連れて行ったのは、田岡なのだから。畑が殺された日にも、田岡から呼び出されたと、日記には書いてあった。おそらく殺した後の処理も手伝っただろう。

 そう思うと、ますます、やり切れない怒りが湧いてきた。やはり許せない。こいつも、あの倉知も。

 光一の中の、我慢の糸が、ぷっつりと切れた。

「おまえだって知ってんだろ!?」

痛みを吹き飛ばすように唐突に立ち上がり、田岡に向かって吠えた。

その光一の急変した態度に、さすがの田岡も動揺を隠せないようだった。いや、態度ではなく、その発言の内容に理由があったのかもしれない。

「畑は、あの倉知に殺されたんだろ! あんたも同罪みたいなもんだろうが!」

 光一は全身の力を使って叫んだ。その力強さには、今までこの学校で受けた仕打ちと、親友を失った事への怒りが入り混じっていた。

 田岡の、目を大きく見開いた表情を見るに、どうやら図星のようだった。明らかに、先ほどまでとは違う困惑の様子を見せている。

「お前……なんでそれを……」

 光一の中で、疑惑が確信へと変わった瞬間だった。

 やっぱり、やっぱり、俺の推測は正しかったんだ……。

 光一は、得体のしれない達成感と、やはり畑は倉知に殺されたんだという、激しい憤りを同時に感じた。

 もう、賽は投げられた。ここまで話した以上、後戻りはできない。なぜ真相を知るに至ったのか。全て田岡に打ち明けた。


続く

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