第2話 脱走計画


 

 胸に突き刺さった不安感で、朝霧光一は目を覚ました。それと同時に、じんわりとした汗のような焦燥感がつのる。この感覚には覚えがあった。それは確信にも近く、徐々に全身を冷たい何かが覆っていった。仰向けになると天井が近い。ここは二段ベッドの上だ。

 

 眠たい目をこすり、疲労で重たい体を動かして下のベッドを覗くと、ルームメイトの畑はいなかった。綺麗にたたまれた布団だけが、彼がもうこの場を去った事を示していた。

 光一が、恐る恐る時計を見ると、起きなければならない時刻はとうに過ぎていた。


……またやってしまった。

 

 想定していたので衝撃はさほど大きくはなかったが、さすがに、どっと全身にかかる憂鬱は抑えられなかった。しかし、ため息をつく暇すら、今の自分には与えられていないのだ。

 慌ててベッドを降りて、顔を洗うと、パジャマとして着用しているスポーツウェアから、大急ぎで制服の白シャツとズボンに着替えて身支度を終えた光一は、ダッシュで寮を抜け、授業の行われる教室がある第一校舎へと向かった。

 寮を抜けると目に入ってくるこの、広大な土地、そびえたつ清潔な校舎、学校の外に見える山や木々などの大自然などは、初めて見た人ならば羨む声をあげるかもしれないが、ひとたび生徒としてここで生活してしまえば、新鮮味といったものは、あっという間に消え去ってしまった。

 それどころか、この見た目の心地よさと、学校の実情とのギャップに、嫌気がさしていくだけだ。

 

 ……しかも、寮も第一校舎も同じ学校の敷地内にあるというのに、かなり距離がある。この学校に入学して一年が経つが、未だにこの無駄な広さには辟易してしまう。しかも今日は日差しが強く、足を進めるたびに、体中から汗が湧き出た。


 光一が第一校舎へと向かって走る最中、ふと、この学校の象徴的な存在である金色の門と、そしてその傍らに停まっている黒の高級車が視界の隅に入った。


 ――くそっ、今日は校長が来てやがるのか。


 光一は走りながら大きく舌打ちをすると、門から視線を離し、さらにスピードをあげて、第一校舎へと向かった。そして全力疾走の甲斐があり、ギリギリ間に合う時間になんとか第一校舎に到着した。

 この綺麗な白塗りで清潔感を漂わせる五階建ての校舎は、外観だけならなんとも魅力的に見えるが、この中は生徒にとってはまさに地獄そのものなのである。

 ここ文野学園は土足で校舎に入るシステムなので、靴を履き替えるという煩わしい作業もない。光一は走ってきた勢いそのままで階段をあがろうとすると、ちょうど一人の教官が階段から降りてくるところだった。それを目にすると、反射的に体が強張る。

 ちくしょう、今日もか。

 この教官とは呼ばれる、実質教師の役割を果たす職員こそが、この学校の生徒たちの悩みの種なのだ。今、光一がすれ違おうとしているこの教官は確か三年のどこかのクラスの担任で、昨日の朝もここで出くわしてしまったのだ。

 ……頼む。今日だけは見逃してくれ。

 そんな光一の願いは届かず、その教官は光一を目にするや、すぐに顔を険しくし、大声で怒鳴りつけた。

「おい、貴様! 昨日も遅刻して来ただろう!」

「は、はい! 申し訳ありません!」

 その教官に負けないくらいの声で、光一は口を大きく開けて返事をした。

「気合を入れなおせ!」

 光一は腕を後ろで組み、教官の数歩手前まで寄る。教官は大きく右手を振り上げ、光一の頬をはたいた。

パシンという音と共に、顔が振動し、光一は眩暈を覚えたが、これは寝不足による疲労も原因にあったので、普段ならこの程度は光一にとってたいしたものではない。

「ありがとうございました!」

 深く頭を下げ、許しをもらうと光一はやっとのことで足を進める。しかし、今のやりとりでなお時間を食ってしまったため、もう一時間目開始には間に合わないだろうと、途方に暮れた。光一のクラスの担任教官は、先ほどのように甘くはないのだ。

 急がなければならないのだが、どうしても光一の足取りは重い。昨日も遅刻したばかりだったので、制裁は普段の倍はひどいことになるだろう。この階段が永遠に続けばいいのにと、光一は叶うはずもない奇妙な願いを心で祈った。

 第一校舎の三階が光一たちの学年、二年生の教室があるフロアである。クラスは全部で三つ。光一はその中の一組に所属している。

階段を登りきり、陰鬱な気持ちをなんとか振り払って教室に進もうとすると、階段の下の方から、聞き覚えのある甲高い声が聞こえてきた。

「おーい! まってよ!」

 その声に、光一の耳はピクリと反応する。下を見下ろすと、もう一人の遅刻者が、急ぎ足で階段を駆け上ってくるのが見えた。そして反射的に、光一の胸が音を鳴らす。

 光一もかなりの遅刻常習犯であるが、彼女はその比ではない。両の頬が少し赤くなっていることから、先ほどの教官に光一と同じくはたかれたことが推測できる。しかも両の頬ということは、光一よりもさらに激しい怒りをかった事を意味する。

「いやー、やっぱりきみも遅刻かー。気が合うねー」

 そうやって愉快そうに笑って、溌剌とした雰囲気を発しているのは、光一と同じクラスの女子生徒、横山悠月だ。彼女の大きな瞳が光一のそれをとらえると、肩にギリギリかからないくらいの黒髪を揺らし、明るい笑顔を振りまいてくる。見た目通り、いつも元気なここの女子生徒だ。光一とは、一年生の時から同じクラスである。

 文野学園は女子生徒の数が少ないので、白のセーラー服を着ているだけでも目立つのだが、この悠月はそれとは関係なしに、自然と周囲の目を引くルックスを持っている。

 透き通るような白い肌に、くりっとした大きな目は可憐で、保証書付きで美少女といえるレベルだ。綺麗な黒のショートヘアは白のセーラー服と絶妙なコントラストを演出し、そのグレーのスカートからは、細く長い脚がのぞく。

悠月は間違いなくこの学校で一番有名な生徒だと言えるだろう。それはその秀でたルックスだけが原因でなく、彼女の猪突猛進な性格と、そこから生まれる日頃の行いによるところが大きい。何か問題を起こしたりしては頻繁に教官に叱りつけられているところは、ここの生徒ならば誰でも一度は見たことがあるだろう。

 悠月は、自分の感情に実直というか、思ったことは何でも口にしてしまうタイプなので、この学校のような、規律を重んじる環境には最も適さない人間だろう。しかし光一は、悠月のその人間性は決して嫌いではなかった。それどころか、光一は初対面の時から密かに好意を抱いていた。

「お前と気が合うってのは、この学校ではあまりいい事じゃあないな」

「えー、なんでそんなこと言うかなー?」

「教官のどえらい叫び声が聞こえると、たいていお前が側にいるだろ?」

「あははっ、まあ否定はしないかな」

 悠月はその大きな目を細めながら、照れくさそうに笑った。

 光一は、悠月の屈託のない笑顔を見る度に、なぜこんな最悪ともいえる環境で、いつも明るくいられるのだろうと不思議に思う。光一は悠月の憂鬱そうな、または悲しげな表情を見たことが無かった。

 ……それはさておき、ここで悠月と鉢合わせたのはラッキーだ。光一は心の中で拳を握りしめた。

 悠月がいれば、あの鬼教官の怒りも自分と悠月とで分散できる。この学校の教官はいつも怒ってばかりいるが、人に怒るというのもなかなか体力がいるものだ。二人同時に怒るとなれば、その疲労も倍加し、怒りの火が消えるのも早くなるだろうと光一は踏んだ。

 光一たちのクラス、二年一組の担任の田岡和義は大柄で強面の、ヤクザだと言われてもなんら違和感のないような男で、その太い眉の間には、いつもしわを寄せている。年は四十代半ばくらいで、角刈りに近い短髪が特徴だ。しかも田岡はその見た目に違わず、この異常な学校の中でもひときわ厳格かつ暴力的なことで有名で、その度を過ぎた生徒に対する暴行は、職員たちの間でもたびたび問題になっているという噂を聞くが、改善される予兆は一向に見えない。

 その田岡が待ち受ける教室に少しずつ近づいていく。いつもならそれだけで心が沈むのだが、悠月と出会ったことで、少し有頂天になった光一は、心なしか緊張感が抜けて、足取りも軽くなっていた。

そして教室の扉の前まで着くと、悠月と二人顔を見合わせ、言葉を交えない、目だけでの意思疎通が行われた。それがしばらく続いた後、沈黙を破ったのは光一だった。


「俺が先に行く」

「おっ! さっすが!」


 半ば恰好をつけるようなセリフを吐いたが、その心中には、まず光一が現れ、その直後に自分よりもさらに酷い奴が現れる事によって、自分はまだマシだと思わせようという思惑が光一にはあった。

 とはいっても、田岡が怒り狂っていることは間違いない。いつも以上に気を引き締めて、教室の引き戸を開けた。


「遅れてすいませんでした!」

ザザーっという引き戸の音と同時に、光一は大きく声を張り上げながら、深々と頭を下げる。こういう時は勢いが大事だ。


…………。



 今、光一から見えるのは教室の床だけ。しかし、室内に漂う異質な空気にはすぐに気付いた。

 何かがおかしい。まず、いつもならすぐに田岡の怒声が飛んでくるはずだ。いや、怒声だけではない。チョークや黒板消し、椅子が飛んでくるのが日常茶飯事だ。昨日など、一番前の席の生徒の体が飛んできたのだから、今日は何が飛んできてもおかしくない。そのはずが教室内はやけに静かで、それ故に不気味だった。後ろにいる悠月も異変に気付いているようで、戸惑いながら立ち尽くしているのが気配で分かった。

「あはは、今日はマジにやばそうだね」

 未だに頭を下げて状況を把握できていない光一に言ったのか、単に見たままの感想を述べたのかは定かでないが、その言葉で光一は反射的に顔を上げ、絶句した。

このクラスの委員長を務めている谷口健太が、鬼の形相をしている田岡に首を絞められ、白目をむいている状態だった。周りのクラスメイトたちは顔面蒼白で光一たちと同様に、その様を見つめていたが、次々と光一と悠月に批判的な目を向けた。

そして光一たちに視線を向けるクラスメイトたちの中に、光一のルームメイトである畑の存在も見えた。顔を強張らせ、鬼気迫る様子で必死に何かを伝えようとしている。

 それにより、光一はすぐにこの状況が意味するところを察した。

 おそらく、毎度遅刻する自分と悠月(特に悠月)に対し、ついに田岡がしびれを切らして、このクラスの委員長である谷口に責任があるとし、今に至ったのだろう。

 とりあえず八つ当たりを食らうのが畑でなくてよかったと安堵したが、そんなことを言っていられる状況でもなそうだ。明らかに教室に漂う緊張感はいつもの比ではない。

 そして突然、谷口の首を掴んでいた田岡が手を離し、谷口の体がドサッと、大きな音を立てて教室の床に横たわる。そのまま田岡は光一と悠月の方を振り向き、眉間にこれ以上ないくらいにしわを寄せ、ドスのきいた低い声を発した。

「貴様ら、わかっとるだろうな?」

 ぞっと、光一の背中に冷たい汗が流れた。どうやら今日という今日は本当にまずいらしい。光一は、声のトーンから田岡の怒りが最高潮に達していることを悟った。

「授業は中止だ。お前ら、懲罰室へ来い」

 瞬間、クラスメイト達の表情が一変し、沈黙が保たれていた教室に一気にざわめきが走った。

 懲罰室とは、ここ文野学園にある、「旧校舎」という今はもう使われていない校舎の三階にある部屋で、文字通り問題を起こした生徒に罰を与えるための部屋だ。しかしこの懲罰室が開かれたことは光一が知る限りでは一度もなく、この学校の都市伝説のようなものになっている。

 その懲罰室へ来いと、田岡は言ったのだ。クラスメイトたちがざわつくのも無理はない。

 田岡は大きな足音を立てながら教室の戸の方に近づき、唖然としている光一と、未だ顔色一つ変えない悠月の腕を強引に引っぱり、教室を後にした。

ああ。今日は命日かもしれない。光一は神に祈りをささげた。



 田岡は光一と悠月を連れて一度一階の職員室に寄り、懲罰室の鍵を取ると、この広い学校の敷地内を五分ほど歩き、敷地の北側に位置する旧校舎へと移動した。

 旧校舎とは今はもう使われなくなった校舎で、ここで授業が行われることはなく、生徒もほとんど立ち入ることはない。もはや廃校舎と言っていい存在だろう。なぜこんなものが存在するかというと、この文野学園は元々、第一校舎と第二校舎が存在し、その二つの校舎を使っていたらしいのだが、光一たちが入学するちょうど何年か前に大規模な改装工事をしたらしく、その際に第一校舎を現在のような大きな校舎にすることによって、第二校舎が不要になったという。

そして学校が予算をケチったのか、第二校舎は取り壊されることもなく、そのまま放置され、旧校舎という呼称に変わったというわけだ。

そして今、三人はその旧校舎へと到着した。すると真っ先に、旧校舎を見上げた悠月が思わず声をあげる。

「うわー相変わらずぼっろいなあ」

 バカっ! と光一が思った時にはもう遅く、田岡がすかさず悠月の頭へとげんこつを叩きつけた。

「い、痛ったあ」

「黙っとれ! 貴様、今の状況を分かっとるのか?」

「す、すいません……」

 光一は、呆れてため息がでそうになるのをなんとかこらえた。

……だが悠月の言う通り、この旧校舎の外観はお世辞にも魅力的だとは言えないだろう。コンクリート造りの外壁は見るからに老朽化して、いくつもの黒ずんだ染みが広がっており、元のベージュ色を浸食している。一階の入り口のガラス戸も、無数のひびが入っていて、校舎全体にぼろくささが蔓延している。

この旧校舎以外の建物全てが新築に近い分、より一層ここのみすぼらしさが際立っている。中に入ったことはないのでわからないが、おそらく中も外観相応に腐敗しているだろう。



 ……そして光一は、この旧校舎がなんとなく、嫌いだった。



 上手く言葉にすることはできないが、外観の不潔さから生まれる生理的な嫌悪感とは根本的に性質の異なる、言いようのない不気味な雰囲気を、この校舎から感じるのだ。初めてこの文野学園をバスの中から見た時に抱いた、あの、ぞくりとする気持ちの悪さ。それと同質のものを光一は、この旧校舎から、いつも通りすがる度に感じていた。

 田岡が入り口のドアを開けると、立て付けが悪いせいか、ギギギと不快な音がきしむ。そのまま無言で真っ暗な校舎内を田岡が進むと、当然行きたくなどないが、光一と悠月もその背中をついていく。

 旧校舎は現在では清掃も施されていない。歩きながら中を見渡すと、予想通り、外観に劣らずひどい有様だった。いたる所ほこりまみれで、天井にはクモの巣がいくつも張っている。中は木造のようで、歩くたびにギシギシと傷んだ床が悲鳴を上げた。

 階段を登り切り、最上階の三階にたどり着くと、大き目の踊り場のようなスペースがあった。そしてその正面には、どっしりとした無機質な印象を抱かせる、灰色の鉄製の扉がそびえていた。取っ手の部分には南京錠がつけられている。

これが、これこそが、懲罰室の入り口なのだろう。どこか無感情で冷たい印象を受けるその扉を見て、光一の全身に緊張が走った。

「今鍵を開けるから待ってろ」

 ここに来る途中に寄った職員室から持ってきた鍵をポケットから取り出し、田岡は扉を開けようと試みるが、鍵穴がさびついているのか、しばしの時間を要した。

 それを待つ間、光一の顔は青ざめていた。今まで教官に制裁を加えられたことは星の数ほどあったが、懲罰室に連れられたのは初めてだった。そもそも、ここの教官は普段から充分すぎるほどに懲罰を行っているではないか。それなのにわざわざ懲罰のための部屋があるということは、それはよほど恐ろしいことが行われるからに違いない。考えたくもない憶測が、光一をより恐怖に駆り立てた。

 そんな時にふと、隣の悠月を見ると、それと同時に悠月も光一の方を向き、目が合った瞬間、悠月は舌を出して困ったように笑い、光一の方に近寄って耳元でささやいた。

「いやー、やっちゃったね」

 まるで、ゲームで負けたくらいの軽さで悠月は言う。いったいなぜこんな状況でも、このような表情でいられるのだろうか。だが、相変わらずの態度に少し安心したのも事実だった。

「入れ」

 田岡が扉の方から振り向き、冷たい声をかけた。光一たちは田岡の視界に入るぎりぎり寸前でなんとか距離を離し、何事もなかったような顔をして、直立の姿勢を取る。

 そして、懲罰室の扉がギシギシと音をたてながら、中の様子を見せた。

 光一はおそるおそる、悠月は興味津々といった風に、室内を見渡す。

 部屋はホールのようになっていて、中央には大きな木の柱が一本だけ立っている。天井はそこまで高くないが、旧校舎三階の全てのスペースをこの懲罰室に使っているので、それなりの広さだった。

 そしてこの部屋に入って真っ先に視線を奪われるのは間違いなく、入り口から入って正面に見える真向いの壁だろう。なぜならば、そこ以外の壁、天井、床は全て木造で老朽化が進み、染みや汚れまみれなのに対し、奥の壁だけが、まっ白で綺麗なコンクリートだったからだ。それがあまりにも不自然で、光一は怪訝に思った。

 全体を見渡すと、左側の壁にはもう一つ扉があって、それは引き戸のようだった。見た目からして体育館にあるような、ボールなどを収容する倉庫のように見える。その隣には、蛇口と排水溝が取り付けられていた。

 この懲罰室の床もほこりまみれで、長い間使われていないことが見て取れた。

だが、光一は少し拍子抜けした。想定していたよりは、一見普通の部屋だったからだ。部屋に入るまでの光一の予想では、床には乾いた血が惨劇を物語り、ところどころに白骨化した死体でも転がっているのではないかとまで思っていたところだ。しかし安堵の息を漏らす暇もなく、腕を組んで仁王立ちしている田岡の怒声が耳に飛んできた。

「貴様ら、何度遅れれば気が済むんだ? 一応理由は聞いてやろう」

すぐさま光一は頭をフルに回転させ、無駄であろうとは思いつつも、なんとかベストな回答を生み出そうと試みた。しかし、これといって冴えたものは何も思いつかず、古典的な回答を述べるしか手はなかった。

「あの、今日は、体調が優れなく……朝から吐き気がして……」

「あはは、うっそだあ。君は元気だけがとりえじゃん!」

 楽しそうな笑みを浮かべながらつっこむ悠月に、光一は初めて彼女の能天気さに怒りを覚えた。しかも、元気だけがとりえなのはお前だろうがと、思わず口に出かけそうだった。

「おまえは?」

と田岡が今度は悠月に聞く。

「寝坊しました!」

 相変わらず、悪びれる様子もまるでない。こういう態度がここの教官たちの神経を逆なでしてしまうのだ。

「ようしよくわかった。お前ら二人ともなめてるんだな?」

「い、いえ、僕は本当にっ」

光一が反論を言い終える隙も与えず、田岡は拳を固め、光一の顔を横から殴打した。拳の音が豪快に鳴ると、光一はそのままの勢いで埃のたまっている床に倒れ込み、顔を抑えた。


 まずい……今日はいつになく、きれている……。


 田岡から殴られるのは日常茶飯事だが、今日は明らかにいつもよりその力が強い。どうやら悠月とセットで遅刻したことにより、怒りが限界に達してしまったようだ。きっと処罰は軽くなるなどという楽観的な予測がいかに愚かなものであったか、ここでやっと光一は悟った。

「せ、先生! 私じゃないんだから、いきなり殴らなくても……」

「黙れ! 教官と呼べと言っとるだろ!」

制止しようとした悠月に対し、その腹部めがけて強烈な蹴りを田岡は入れた。蹴り飛ばされた悠月も光一同様床に倒れ込み、床に手を着きながら腹部を抑え、せきこんだ。

「お前らそこの柱に背をくっつけて、手を後ろにして正座しろ」

 田岡がそう怒鳴ると、光一たちは逆らうわけにもいかず、大人しく言う通りに従った。

田岡は柱の前で座る二人に背を向けて、入り口から見て左側の壁にある、横開きの戸を開いた。いったい何が始まるのかと、光一は恐る恐るその中を遠くからのぞき込むと、背筋を凍らせた。

 そこは小さな倉庫のようになっていて、懲罰に使用されるであろう道具が置かれていた。こん棒や金属バット、ロープも数本ある。その道具には血のような痕がついているものもあり、それはなおさら光一の恐怖を駆り立てた。

 田岡はそこからこん棒とロープを取り出し、二人が背を預けている柱のもとへと戻ってきた。そして、光一と悠月をぴたりとくっつけさせると、太いロープでその柱に強く巻き付け、光一たちとは反対側の柱の面に結び目を作った。

 田岡はかなり強くロープを結んだので、光一は腹を強く絞めつけられるような痛みを感じた。悠月と隣合わせで巻き付けられたため、光一の右半身が悠月の左半身に常に接する状態になる。彼女の体と触れ合った瞬間、光一は胸の鼓動が高まったが、すぐさま田岡にこん棒で殴られ、甘い下心を壊される。

「貴様らの腐った根性、叩きなおしてやる」

 そこから、地獄の時間が始まった。身動きの取れない光一と悠月は、延々と田岡から暴力を受け続けた。そこで光一が気付いたのは、このぴったりとくっついた状態で片方がダメージを受けると、反動でもう片方にもその衝撃がくるという事である。なんとも効率的な体罰方法だと、思わず感心したほどだった。さらには、縛られている二人が座っている状態であるため、頻繁に田岡の足が飛んできた。

時計が無いのも影響してか、永遠に続くのではないかと思うくらい、この一方的な暴力は長く感じた。

 理不尽に暴力を受けるのはこの学校では常の事ではあるが、ここまで長い時間続くのは光一にとって初めてだった。おそらく、隣で同じように制裁を受けている悠月もそうだろう。何度か本当に死ぬのではないかと思ったが、授業終了のチャイムが遠くから聞こえる事によって、ようやく二人はその地獄から解放された。

「はあっ、はあっ」

 静かな懲罰室の中に、田岡の荒い息遣いだけが聞こえた。光一と悠月は、もう虫の息である。

「お前ら、今日はここまでにしといてやるが、二人とも、飯抜きだ。校長感謝の時間までそこで反省していろ」

さらに息を荒立てながらそう言い残して、田岡は懲罰室を去った。しかし光一の意識は既に半分飛んでいて、田岡の言葉を耳に入れるのがやっとだった。

しばらくは二人とも口を開かず、長い沈黙が流れ、お互いの小さな息遣いだけが懲罰室に聞こえた。意識が朦朧とする中で、空中に舞うほこりと、痛んだ床のかび臭いにおいが、嗅覚を刺激する。二人とも制服はボロボロで、ひどい有様だった。

 そんな中、時間の経過と共に、光一の中にはふつふつと、やり場のない怒りがこみあげ、ついに沈黙を破った。

「くそっ、お前なんかと一緒に来ちまったせいで……」

 これが、ただの八つ当たりであることは光一にも分かっていた。しかし、隣にいる悠月以外に、たまっている怒りをぶつける当てがなかったのだ。

「ちょっと……わたしのせいにするわけ? きみだって遅刻したじゃん!」

 さすがの悠月もあれほど理不尽なリンチによる鬱憤がたまっているのか、その語気は強い。

「だいたいなあ、お前はいつも能天気すぎるんだよ! お前がここまでアホじゃなけりゃなんとかなったかもしんねえのに……」

「は、はあ? 誰がアホだって?」

「この学校で誰が一番アホかってアンケート取ったら、間違いなくお前が一位だぞ」

「ふーん、そういう風に思ってたんだ」

 眉根を寄せながらそう言った悠月は、自分の首を光一がいる方とは反対の方向、つまりは二人から見て右側に動かした。

 なんだ? と光一がその様子を不思議に思っていると、悠月は首の力で頭を右から左に高速で動かし、渾身の力で頭突きをしてきた。

「ぐおっ!」

 頭と頭がぶつかった瞬間、ゴチンと、まるで漫画のような擬音が耳のすぐそばで鳴り、頭の中で大きく響いた。ただでさえ先ほどの田岡からの仕打ちの痛みで意識が朦朧としているのに、そこにとどめを刺すような痛みだった。

「なにすんだよ!」

光一も完全に頭に血が上り、すぐさま同じ要領で頭突きをやり返した。そうするとそれに反発してまた悠月もやり返す。二人の首は音楽室のメトロノームのように一定のリズムで左右に動いた。

頭突きという行為は、得てして攻撃する側も痛みを伴うが、そんなことも気にせず、光一と悠月はしばらく、この無益な紛争を続けた。この懲罰室という殺風景な部屋で、柱に縛られた二人が、罵り合いながら頭突きをし合う光景はあまりに異様で、滑稽だった。

しかし数分も経つと、二人は互いに冷静さを取り戻し、自然と無意味な戦いは終わりを告げる。

「すまん……もうやめよう」

「う、うん、わたしも、ごめん。ちょっとイライラしてた」

「田岡、最後なんて言ってた?」

「ええっと、校長感謝が始まる頃にまた来るって……」

「てことは、そんときまでこの状態って事か……」

 今日は校長感謝の日ということを思い出し、光一はぐっとうなだれた。しかもその後、放課後活動もあると思うと、さらに気は重い。

「ううっ足が痺れてきた……」

 悠月が辛そうに言う。体の痛みで完全に忘れていたが、自分たちは今、正座をしている状態なのだ。光一は今のところまだ大丈夫だが、それも時間の問題だろう。

その後、しばらく他愛もない会話をしてなんとか二人は気を紛らせていたが、いずれは会話の種もつき、どことなく気まずい沈黙がこの奇妙な部屋の中で続いた。

光一は目を伏せ、ついに訪れた足の痺れに耐えていると、隣から、ぐうと腹の鳴る音が聞こえた。そしてまた、気まずい沈黙が降りる。


 光一は一瞬、聞こえなかった振りをしようかとも思ったが、この静かな中、さらにはここまで密着している状態で聞こえなかったというのは、少し厳しい。下手に気遣うよりも、軽くからかってあげる方が悠月も気が楽だろう。

「なんだ? 腹が減ったのか?」

 軽いトーンで、かすかな笑みを見せながら、光一は悠月の方に少しだけ顔を傾けた。

 しかし、彼女の表情を見た瞬間、光一の呼吸が止まる。

 悠月は泣いていた。顔をうつむけ、目を伏せ、必死に隠そうとしているのが分かったが、涙を隠す最大の武器である手は今、封じられている。彼女は、少なくとも光一が知っている中では、決してこのような表情を見せなかった。どんなに理不尽な暴力を受けても、常に明るい能天気な人物なのだと、光一は思っていた。

「わたし……もうやだ……」

 悠月らしくない、消え入りそうな弱弱しい声だった。

「あと数時間の我慢だ」

「違うの。もう、ここが嫌なの……、どうして……親がいないってだけで……こんな生活をしなきゃいけないの?」

 悠月は涙ながらに、堰を切るように声を漏らした。普段、異常なくらいに明るいイメージの反動で、その悲壮さはいっそう増して見えた。当然、光一の胸中には困惑と動揺が渦巻く。

「どうしたんだ? お前らしくないじゃないか。いつもの元気はどこ行ったんだ?」

「……」

 悠月は答えず、うつむくだけ。しかし、それだけで光一にとっては答えだった。

彼女は、光一が今まで思っていたような、何に対しても打たれ強い人間ではなかったのだ。この学校に来たという事は、今まで辛い境遇に置かれてきたに違いない。そうした苦痛を乗り越えるために、どんな時でも無理に明るく振る舞ってきたのだろう。そしてその作り我慢が今、途切れてしまったのだ。根拠は無いし、ただの憶測にすぎないが、光一はなぜか、直観でそうだと確信できた。

「……わたし、捨て子なんだ。小さな時から施設で育って……ずっと貧しくて、でも、この高校に入ったら色々変わるんだろうなって期待してたら、こんな地獄みたいなとこだし……わたし、なんのために生きてるんだろうって……」

 悠月の言葉に、光一は胸が締め付けられそうになる。

「辛いのは……、俺だってそうさ。親が死んだときは、俺も死のうかと思ったよ」

「え、そうなの?」

 窮屈に縛られているため、体を動かせないが、顔と目を相手に寄せながら、光一たちは言葉を交えた。

「ああ。昔死んじまった。俺の家もめちゃくちゃ貧乏でな。一日三食なんて滅多になかった。でもその時は、親が好きだったから、そんなに不幸だとは思ってなかった。でも小学生の時、二人とも自殺した。借金が返せなくてな。まったく、最初から最後まで無責任な親だったよ」

 光一はそう言うと同時に、あの時の苦い記憶を思い出した。

 忘れられるはずもない、忌々しい記憶。

何の変哲もない、ごく普通の日、学校から帰宅し、当時住んでいたアパートの戸を開けると、そこには、首を吊って死んでいる両親がいた。

目を見開いて宙に浮いている両親の顔。部屋に漂う、鼻をつんざくような、嗅いだこともない異臭。あの光景は今もなお、鮮明に脳裏に焼き付いている。

「そうなんだ……君も大変だったんだね……」

悠月はまたも悲しげに顔をうつむかせた。

「でもまあ、この学校にはそういう奴はいっぱいいるだろ」

 この文野学園は、児童養護施設で暮らしているような、親を持たず、経済的事情が原因で普通の公立高校にすら通うことも難しいような孤児たちを無償で受け入れる、十数年前に開校した高等学校である。学年は一年から三年までで、卒業すれば普通の高校と同じ、高卒の資格が与えられる。

 文野学園創設を提唱したのは、当時革望党の党首だった倉知伸太郎で、今は政治家を辞し、この学校の校長を務めながら、様々な事業を行っている。

文野学園は、名目上は私立学校になるのだが、新たな貧困児就学支援制度として、毎年、国からかなりの額の助成金をもらい、それで運営をしているので、実質的には公立に近いという、特殊な学校だ。

 倉知は、恵まれた環境で育たなかった子供たちに平等な教育を与え、社会に大いに貢献できる逸材にするという声明を出し、不幸な孤児たちを救おうとする姿勢から、国民からも賛辞を受け、自分の持つ莫大な資産と、国からの助成金を元に、文野学園を創設させた。

 孤児ならば無償で通えるため、施設で暮らす子供たちにとっては楽園のような学校に見えたが、その実情は教官と呼ばれる職員たちの理不尽なまでの暴力と、過剰に厳しすぎる規則で生徒たちを学校に完全に服従させている状態だ。

そしてこの学校の最も異質たるところは、生徒は卒業するまで、特別な場合を除き、この学校の敷地内を出る事は許されないという鉄則にある。故に卒業までの三年間、この学校の敷地をほとんど出ることなく過ごすことになる。

 さらにここ文野学園は九州某県の辺境地にあり、バスや電車も通っていない。学校内にはテレビも新聞もないため、生徒たちは完全に世俗とは隔離された環境で生活を送っているわけだ。

 光一も、入学するまでは、まさかこんな学校だとは思いもしなかった。

中学を卒業した二年前、施設に残って普通の高校に通うか、手続きを踏んで文野学園へ通い、寮生活をするかの選択を光一は迫られた。文野学園に行くとなると、今まで育った地を去らなければならない。中学生にとっては、人生最大の大きな決断だ。

 かといって、普通の高校に通うとなると、奨学金を借りなければならない。奨学金とは言っても、実質借金のようなものだ。その負担が後になって降りかかることを光一は恐れた。両親の自殺の件もあり、借金を作るという行為は、死に直結するほど恐ろしいものだという強迫観念のようなものがあったからだ。対して文野学園は国からの助成金でまかなわれているため、全寮制にもかかわらず費用が全くかからない。その分、入学基準が厳しく、親戚の当ても全くないような、完全に身寄りのない人間しか入ることを許されないが、光一はこの基準をパスしていた。

なにより、早く独り立ちしたいという強い思いがあった。結果、文野学園への入学を決め、新たな生活に半ば心弾ませて、慣れ親しんだ土地を離れたのだった。

しかし、いざ入学してみると、光一が思い描いていたイメージとは全く違っていた。教官たちからの理不尽な暴力、学校外に出られないなどの異常な校則。入学してすぐに嫌気がさし、ここに来たことを何度も後悔した。

 ……だが、悠月と出会えたことは、ここに来てよかったと思える、数少ない出来事の一つだろう。

 先ほど、悠月の腹が鳴った事で、光一も自分が空腹であることに気付いた。だが田岡は確か、今日、飯抜きだと言っていたはず……。

何ということだ。今日は寝坊してしまったため、食堂で朝食も取れなかった。そして放課後までここに縛られるということは、当然昼食も取ることが出来ない。そして晩飯まで抜きとなると、食べ盛りの自分たちにとっては、地獄以上の苦しみである。今はまだそこまでだが、放課後活動で体を動かせば間違いなく、疲労で空腹は頂点に達するだろう。 


 そして先ほどの悠月の様子。彼女も俺と同様に寝坊して朝食をとっていないはずなので、相当きついはずだ。

 チラッと、横目で悠月の様子を窺う。もう泣き止んではいるようだが、目が少し赤く腫れている。それを目にするだけで、胸が痛んだ。

何とか、彼女の元気を取り戻すことはできないだろうか。長い間光一は頭を悩ませ、一つの、突拍子もない案を思いついた。

リスクは高い。成功するかも分からない……が、やってみる価値はある。

「なあ、悠月。今日の夜、一緒に学校を抜け出して飯を食いに行かないか?」

 横目を向けて悠月に問うと、はっきりと顔は見えないが、やはり驚いた様子だった。

「え? マジで言ってる?」

「マジもマジ。大マジだ」

「な、なんで急に?」

「だって今日一日中、飯、食えないんだぜ?」

「た、確かにそうだけど……」

 悠月はうーんと唸りながら、考える様子を見せた。やはり彼女にとっても、ここを勝手に抜け出すというのは大それたことに思えたらしい。それもそうだ。この学校ではそれが一番重い罪だとされている。もしばれれば、その代償はとても大きいだろう。

 しかし、しばらく悩んだ悠月は、光一の方を向いて小さく微笑んで答えた。

「うん……いいよ。絶対にばれないようにエスコートしてね。あ、でも、ここら辺に食べ物屋さんてあったっけ? 周り山とか田んぼしかなかったような気がしたけど」

「いや、ここを出て一時間くらいのところに、小さな町がある。そこに確か、飯屋も多少あったはずだ。ただ、死ぬほど歩くから覚悟はしとけよ」

 第一校舎の上階の窓から見たことのある景色の記憶を頼りに、光一はだいたいの方角を頭の中に描いた。

「うん! 体力だけは自信あるから大丈夫!」

 悠月は力強くそう言うと、先ほどまでの様子から一転して上機嫌になった。失敗する可能性など、微塵も考えてないようだ。

「いやー楽しみだなー。ねえねえ、何食べる?」

「そうだな……俺はラーメンがいいな。あるかは分からんが」

「ラーメンかあ! いいね!」

 悠月は遠足前の小学生のようにウキウキになって、鼻歌まで歌いだし、光一は静かにそれを聞いていた。

 なんとか、悠月はいつもの調子を取り戻してくれたようだ。やはり、素では明るい奴なのだ。彼女をぬか喜びさせないためにも、なんとしても外の飯を食べさせてあげなければ。

 しばらく、埃臭いこの懲罰室の中に、悠月の陽気な鼻歌だけが聞こえた。

悠月が普段通りの明るい様子に戻ると、光一はなぜだか、生まれ故郷に帰ったかのような、落ち着きを感じた。

しかし突然、その悠月の鼻歌がピタリと止み、それと同時に彼女が「あ」と声を漏らした。

「ど、どうした?」

光一はおそるおそる聞く。どうして人が突然発する「あ」という言葉は、ここまで不安を煽るのだろうか。

「わたし……お金全然ない……」

 悠月が絶望に満ちた声で言う。対して光一は、大きくため息をついて、拍子抜けしたように、そっと胸をなでおろした。

「お前……月の小遣いいくらだ?」

悠月はそっと視線を光一とは反対のほうに向けると、もごもごと口を動かす。

「ご……ごひゃく」

「ご、ごひゃく!?」

 光一は思わず声も裏返る。悠月は恥ずかしさからか、顔が真っ赤になっていた。

「お、お前、そんなにバカなのか……」

「バ、バカって言わないで!」

 この学校では月に一度、生徒たちに給付金、つまりはお小遣いが与えられる。その額は生徒の前回の定期試験の結果によって決められる。つまり、成績のいい人間ほど与えられる金額は高く、悪い方が低い。実にわかりやすい話だ。光一はこの学校が嫌いだが、この制度だけは唯一気に入っていた。

幼少期から貧困のため苦労をしてきた光一は、さまざまな点で世の中の不平等さを嘆いてきた。しかし、この成績で金額が決まるという制度は、誰にでも公平にチャンスがある。それでさらに勉強のモチベーションもあがり、学力向上につながる。合理的な制度だ。

 そのため光一は、入学時から勉学だけは怠らなかった。成績もかなり優秀で、入学してから学年一位の座を誰にも譲ったことは無く、貯金もかなりの額がたまっていた。その光一からすると、五百円という給付金はかなり低い額である。

「おまえちなみに、前のテスト何位だったんだ?」

「え、えーっと、九十くらいだったかな……」

 目をつぶって記憶をたどった。確か学年の総人数は……。

「おまえ、もしかしてドンケツか?」

「ド、ドンケツって言わないで! 伸びしろが、あるって言って!」

 光一は言葉を失った。文野学園の生徒たちは満足に勉強もできない環境で育った人間ばかりなので、学力のレベルは決して高くない。悠月もその例に漏れないが、一番下というのは、相当学力が低いという事になる。

「そ、そういうきみは何位なのさ?」

今度は悠月が反抗的な目で光一を睨む。そこには、どうせ私とそんなに変わらないだろうという自信が含まれていた。それを汲み取った光一は、ふんと鼻をならし、自慢げに答える。

「一位だ。入学してからずっとな」

 悠月はポカンと口を開け、信じられないとばかりに目を丸めた。

「そ、そんな……絶対おんなじくらいバカだと思ってたのに……」

「失礼な、そんな風に見えるか?」

「いや、だってよく遅刻するし、私と同じくらい先生に怒られてるし」

「俺は朝は苦手でな。ここの奴らに怒られるってのは、まあ否定はしないが」

 光一は時々、余りに理不尽な教官たちの行為に反抗することが多々あった。その上、光一は学業が優秀である分、教官たちにとっては面白くないのだろう。

「ふ、ふーん。ち、ちなみにいくらもらってるの?」

 目を寄せて、無関心を装って悠月が聞く。

光一はまた鼻をならし、少し間を作った後、淡々とした口調でその数字を公開した。

「一万だ」

「い、一万!?」

 悠月は丸い目を大きく見開いて、光一の方に大きく首を振った。その勢いで、互いの頭がゴチンとぶつかる。

「い、痛えよ」

「ご、ごめん、でも一万て、ほんと? 樋口さんが写ってるってこと?」

「諭吉さんだがな」

 こういうところからも、学力の低さが窺える。

「だ、だって、一万円札なんて、人生で一度か二度くらいしか見たことないもん!」

 それも実に悲しい理由だ。

「不公平だよ……」

「お前が勉強すりゃいいだけの話だ」

 悠月はがくんとうなだれて、わざとらしく鼻をすすった。

「うう……。私は世界一不幸なんだ。バカで貧乏で、親にも捨てられて、誰にも愛されず、一人でさみしく死んでいくんだ……」

 しくしくと、わざとらしく泣きまねをする悠月を見て、光一は大きなため息をつく。

「わーったよ、おごってやるよ」

「ほんとに!? やったー! ありがとう! 大好き!」

 悠月は俯けていた顔をぱあっと上げて、ただでさえ密着している中、光一の方にさらに擦り寄った。すると光一は彼女の柔らかい感触を感じ、少し動揺した。

「お、おい、よせ」

 おごる事をしぶしぶ承諾したような言い方をしたが、光一は最初から悠月に金を出させるつもりなど、毛頭もなかった。彼女の成績が悪い事など、この学校の生徒なら誰でも知っている。それでもさすがに、最下位とまでは思っていなかったが。

「ま、とりあえず、今日の飯の時間までには明確なプランを練る。俺らは今日食堂で食えねえから、飯の前の時間にはロビーにいてくれ」

「うん。楽しみにしてるよ」

 満面の笑みを浮かべて、悠月は答えた。




「校長感謝だ。とっとといけ」

 全授業が終わった頃に、田岡が懲罰室に戻ってきた。長時間経過したことで頭が冷えたのか、朝よりは柔らかい物腰だった。

 対して光一と悠月はというと、かなり限界に近い状態で、顔には疲労の色が滲み出ていた。二人とも長時間の正座で足の感覚がなくなり、喉も乾ききっていた。

 柱に巻き付けられた縄をほどかれると、光一たちは名状しがたい開放感を得た。こんなにも長く身動きが取れない状態になったのは、さすがに初めての体験だった。しかし体が自由になっても、足が痺れて、立つのにしばらく時間かかり、なによりトイレに行けなかったことが一番の苦痛で、光一も悠月も、すぐには落ち着きが無かった。

 しかも今日は校長挨拶の日だ。校長挨拶とは、月に一度行われる、ここ文野学園創設者である倉知慎太郎に日頃の感謝の念を伝える事と、その倉知から、ありがたいお話を聞くための会であり、生徒は絶対参加義務を負う、この学校独自の行事である。

光一はさらに気がめいった。あの行事は精神面でかなりきついものがある。


 そしてまた田岡から最後の叱咤を食らった後、懲罰室のある旧校舎を出ると、もう夕方で、日が赤く染まっていた。懲罰室には窓がなかったため、やたらその陽が眩しく見える。

光一と悠月はすぐに、外の水道で水を浴びるように飲むと、そのまま用を足し、制服の汚れをなるべく払って、駆け足で体育館に向かった。

 体育館前に着くと、もう既に全生徒が入り口前までぞろぞろと、学年、クラスごとに決められた順番で隊列を作って並んでいた。光一と悠月も割り込んでそれぞれ自分の持ち場につく。

 なんとか間に合ったと安堵する間もなく、すぐに生徒たちの入場が始まった。列が体育館内に入ると、綺麗に左右に分かれ、体育館中央に正面の壇まで続くスペースを作って直立する。この一連の流れはとてもスムーズに行われる。入学して最初に、この儀式での流れを徹底的に叩き込まれるからだ。

 体育館の脇では、いつものように教官たちが、目を尖らせて生徒たちの様子を窺っていた。この校長感謝の時間は、文野学園においてこの上なく神聖な儀式とされている。その儀式の中で少しでも輪を乱したり、間違えた行動をとったりすると、この教官たちが、すぐさま飛んでくるというわけだ。

 生徒全員が定位置につき、中央の開いたスペースに顔を向けて、張ったように姿勢を正すと、しばらくの間、広い体育館に静寂が満ちる。ここでは、私語はもちろん、瞬きの音さえも出すことを許されない。そのとき光一はふと、体育館の窓から射しこむ陽を目でとらえた。

この不自然な静けさに対し、窓から射しこむ夕陽は、あまりにも眩しすぎる。そしてこれから始まる茶番への憂鬱に、心が陰った。

静寂をかき消すように、体育館の扉がギギギと不愉快な音を立てながら、ゆっくりと開かれ、ついに奴が現れた。文野学園校長、倉知慎太郎だ。その足音が体育館に響く度、場の緊張感が加速する。

……決して、上背がある方ではない。白が多く混ざった頭髪と顔のしわからは、老いを感じさせるが、その堂々とした目つきと佇まいは、間違いなく確かな貫録を見せていた。 

その倉知を見ると、光一は心の中で大きく舌打ちをした。

「敬礼!」

 三年生の生徒代表が大声で合図を出すと、生徒全員が、すばやく手を額の前に置く。その様子はさながら、訓練されつくした兵士のようだ。

 敬礼をしている全生徒が空けている中央のスペースを、この学校の創設者にして、校長である倉知慎太郎が、堂々と歩を進めて、壇上に上がった。

「礼!」

 高らかな声が響き渡ると、今度は、生徒全員が深々と素早く礼をする。その角度はかなり深く、頭が膝にくっつくのではないかという程だ。この角度が少しでも甘いと、見張っている教官が飛んできて、体育館の外に連れ出され、罰を食らうという仕組みになっている。

「校長のお言葉!」

 またも生徒代表の合図がこだますると同時に、さっと顔を上げ、全生徒が両手を腰の後ろで交差させる。 

 それを体育館前方の壇上から見守る倉知は満足げな顔で、ゆっくりと口を開いた。

「生徒諸君、また君らのたくましい顔が見られてなによりだ。何度も言うように、君らはこの国の希望だ。ここ栄光の文野学園において、正の心を磨くことのできる諸君らは実に幸運な存在である。人間の魂というものは、聖なる無償の活動によってのみ、磨かれるものなのである。今日も、皆の個性と可能性を広げるため、活動に勤しみなさい」

 そこで倉知は、言葉を切った。

 ……まるで、どこぞの教祖様のようだ。光一はいつも、倉知の言葉を聞く度に、口の中が苦くなる思いになる。

 そこで突然、壇上に近い前列の生徒が、大きく声を挙げた。

「校長! 私は以前、窃盗を犯したことがあります! そんな私でも、心を浄化させることはできるでしょうか!?」

 倉知は目を閉じて少し間を置き、ゆっくり息を吸った。

「無論だ。ここでの生活で、邪気を捨て、ひたすら鍛錬に励みさえすれば、過去の罪も洗われるだろう」

 そのまま倉知は壇上から降りてきて、その生徒の手を握った。その後も何かその生徒に向かって呟いていたが、壇上から降りてはマイクもないので、後ろの方までは聞こえなかった。

 そして数秒後、その生徒が泣きじゃくりながら大声で、「ありがとうございます!」と連呼するのが聞こえた。それと同時に、前方にいた三年生たちの中から何十人もが、倉知のもとに駆け寄りって、頭を下げながら、目に涙を浮かべ、何事かを口にしていた。

 哀れみのこもった目で、光一はその光景を見つめていた。

 彼らはもう、とっくに洗脳された生徒たちだ。

光一はここに入学した当初から察していた。倉知慎太郎。あいつは人間ではない。言葉通りの意味ではなく、人間の心、普通の血が通っていないという意味でだ。

 俗に言うサイコパス。間違いなくそれだと光一は確信していた。そしてそれはこの世で最も危険な人種であるとも。

光一の父親がまだ生きていた頃、父はいわゆる裏の世界にも関りを持っていたので、光一は幼いながらも危険な人間を何人も見てきた。しかしその中でも、光一が最も恐怖を覚えたのは、倉知のような人種だった。あいつは間違いなく、人の上に立ち、服従させることに快感を覚えている。

 ここの生徒の何割か、特に長くここにいる三年生の多くは、完全に彼の信者となっている。おそらく倉知の命令ならどんなこともするだろう。

 しかも倉知はいわゆる、カリスマ性があると言われるタイプだ。それはこの学校のみならず、世間一般でもそうだったらしく、政治家時代から世間には彼の信者のようなものは多くいたという。例えるならば、ナチスのヒトラーに最も近いだろう。とにかく奴は普通の人間ではない。何があっても、奴にだけは洗脳されてはいけないという危機意識を光一は入学当初から抱いていた。


 しばらくして倉知と洗脳された生徒たちのパフォーマンスが一段落すると、今度は、感謝歌の合唱が始まる。これはその名の通り、恵まれない自分たちを救って下さった倉知校長への感謝をささげる歌というもので、倉知を賞賛する歌詞がぎっしりと詰まっている。

 これを合唱するとき、光一は心を閉ざす。歌詞を聞くだけでも、あまりの気持ちの悪さに鳥肌が立ってしまう程だからだ。

 感謝歌が終わると次に、集団行動という、これまた実に気味の悪い行動に移る。これは全校生徒一丸となって、大声をだし、奇妙に激しく体をうねらせる作業だ。これの大変なところは、全く意味のないように見える動きにも、きちんと順序があり、周囲と調和しなければならないところだ。少しでも乱れると、例によって教官に目を付けられる。もちろんこの際の体の動きも、徹底的に叩き込まれている。

「集団行動、始め!」

 生徒代表の合図と同時に、光一も含め、体育館にいる全生徒が大声を張り上げ、不気味に体をうねらせ始めた。

「もっと声をだせ! 集団行動の美徳こそ、心を清らかにするのだ。学友と心を合わせ、汗をかくことによって、真の意味での豊かさというものがわかる!」

くそっ! またも倉知がたわごとをほざいている。こんな意味のない行動に美徳もなにもあるか。

 ああいう人間はただ、支配欲に駆られているだけだ。自分の言葉一つで多くの人間が動き、命令に従うことに、悦びを覚えているに違いない。

 この学校には規則が多くあるが、その中でも最も重要とされているのが、校長倉知への絶対的忠誠と服従である。もしあいつの悪口を教官に聞かれようものなら、どうなるのか本当に分かったものではない。

 さらに異常なのは、生徒は月に一度、倉知に対する感謝の気持ちと、文野学園での生活目標を綴った、感謝状と呼ばれる手記を学校に提出しなければならない。毎回言葉を代えて書かなければならないため、ほんとうにうんざりするが、内容次第では、優秀な文野学園生として特別給付金をもらえたりもするので、光一は自分の心を偽って、倉知への憧憬、賛美、崇拝を巧みな文で表し、何度かそれをもらったことがあった。

 逆に、ここで学校側の意志に反する文章を書いたりすると、罰則と称して、とんでもない仕打ちを受けるという噂を耳にしたことがある。あくまで噂で実例を聞いたわけではないが、それが事実だとしても、この学校ならなんら不思議なことはない。

 とにかく、ここ文野学園は何もかもが狂っている。世間では未だにここが、全国の貧しく身寄りのない哀れな青少年を救うために作られたという幻想にとらわれているのだろう。しかし光一も、入学するまでは同じように思っていたので、非難することはできない。

ただ一つ決定的に言えることは、この文野学園は、何もかもが異常であるということだけだ。



集団行動が終わると、この校長挨拶もやっとのことで終わりを告げる。

しかし生徒たちには息をつく暇も与えられず、また業務が課せられる。これが放課後活動だ。この放課後活動こそ、文野学園の生徒たちを最も苦しめる日課なのだ。

これは文字通り放課後に行われる、校長挨拶同様、生徒は必ず取り組まなければならない活動の事で、校長挨拶と異なるのは、校長挨拶は月に一回ほどの頻度で行われるのに対し、放課後活動は週に六日、休日である日曜日以外は、雨が降ろうとも槍が降ろうとも、必ず休みなく行われるということである。

放課後活動の内容は、体磨業、心磨業、雑務活動の三つに分けられ、体磨業は学校の校庭をランニング、体育館での筋トレなど、一見、普通の運動のように思われるが、とてつもないスパルタで、少しでも休むとこを見られれば拳が飛んでくるという、まるで軍隊のようなもの。心磨業は体育館で、座禅などの精神統一を行うもので、これも集中を乱せば教官の拳が飛んでくる。雑務活動は、女子は校内の清掃と内職、男子は外の清掃などで、唯一、下手な事をしなければ殴られることがほとんどない、放課後活動の中では、最も楽な作業だ。

放課後活動は男女別に別れ、男子はその中で週ごとにランダムで二つのグループに分けられ活動に勤しむ。今日は運よく雑務活動の日で、今回、光一が属する班は、学校敷地内の草むしりだった。雑務活動は時間制ではなく完全出来高制なので、与えられた範囲を終えるまでは原則として、仕事を終えることが出来ない。しかしそれは逆に言えば、早く仕事が終われば早く終えられるということなので、活動する側にとっては、モチベーションになるとも言える。

 特に今日の光一にとっては、脱走の作戦を考えるために、なるべく早く終えたかったので、この制度はありがたかった。

 今回の振り分けではルームメイトの畑は光一とは別の班になり、そのことが少し気がかりだった。今日は雑務活動だから、身体的にそこまできついことはないと思うが……。

 そして、何の因果か、光一たちの班の活動場所は、今日まさに光一と悠月が閉じ込められた懲罰室のある旧校舎のすぐ近くだった。

光一たちの班十人が旧校舎付近に着くと、早々に田岡が顔を見せる。

「今日はここの草むしりと掃除が仕事だ。さぼったらただじゃおかんからな」

 眉間にしわを寄せ、生徒たちを威嚇するように見まわして、田岡は去った。雑務活動中、担任はそれぞれ三つの班を回って監督するという形になるので、他の班に指示を出しに行ったのだろう。

 田岡の指示を聞いた班員たちの表情は緩んでいる。光一もその一人だった。そして、班の一人である谷口がガッツポーズをして喜びを露にした。

「よし! あたりだ!」

 班員が皆、谷口に同意するように頷く。今日の仕事は普段に比べ、圧倒的に楽なものだったからである。光一はその谷口の元に寄った。

「おい谷口、お前、大丈夫だったか?」

 この谷口という男、今朝、田岡に殺されかけたあの学級委員なのである。谷口は、光一の言葉を聞くや、すぐに顔をしかめた。

「大丈夫なわけあるか! 本当に死ぬかと思ったぜ! なんでお前らのせいで俺があんな目にあわにゃならんのだ!」

 大声で喚く谷口に対して、他の班員たちが笑い声をあげた。谷口はこのクラスのムードメーカーであり、皆から好かれる存在でもあるのだ。

そしてやはり、今朝のあの田岡の怒りは、光一と悠月の遅刻が原因だったようだ。

「すまんすまん。今度、売店でなんか奢ってやるからよ」

「ほんとか? なら許してやるよ」

 先ほどはああ怒鳴ったものの、本心から怒っていたわけではなさそうだ。器の大きいところも、彼が好かれる所以だろう。

 その後も班員たちで少し雑談を交えた後、皆、黙々と課された作業に取り掛かる。その途中、誰に言うでもなく、谷口が愚痴をこぼした。

「だがよお。遅刻であんなにきれるか普通? あいつは絶対、頭いかれてるぜ」




 旧校舎付近の地面に生い茂っている草をある程度処理し終えると、班員たちはどこか緩んだ雰囲気になり、皆で田岡が現れないか周囲をうかがいながら、地べたに座って休憩を取り始めた。

 そこで雑談を交える中、光一は何気なく、今日閉じ込められた懲罰室のある旧校舎を見渡してみた。改めて見ても、やはりここからは、どこかおぞましい、狂気じみたものを感じる。

 ……ん?

 旧校舎を何気なく見つめる中、不意に、とある疑問が浮かんだ。それと同時に、近くで腰を休めていた谷口が光一に心配そうな顔で尋ねる。

「そういえばお前こそ大丈夫だったのか? 懲罰室に連れてかれたんだろ?」

「まあなんとかな」

「どんなんだった?」

 谷口につられて他の班員たちも寄ってきて、光一の側で聞き耳を立てた。

「武器があったくらいで、他に変わったもんは無かったな」

「まじか」

 武器という単語で、聴衆はざわめく。

しかし光一はそれらを気にも留めず、先ほどからずっと、ある一点をじっと見つめていた。それは今日入った懲罰室のある、旧校舎の三階の辺りだった。

――懲罰室は、こんなに奥行があっただろうか?

外から校舎を見てみると、懲罰室の中にいた時に感じた広さより、なんとなく奥行きが広く見えた。外から建物を見た時、中で実感する広さより狭く見えるのはよくあるが、外から見た時の方が広く感じるというのは経験上あまりない。部屋に入るまでに階段と、階段から扉までのスペースがあることを考慮に入れても、寸法が合わないと光一は思った。

 今朝初めて懲罰室に入った時は何も感じなかったが、あの時は見る者すべてが新しかったため、あまり気にならなかったのだろう。

「制服は汚れてるが、見たところ大けがはなさそうだな」

 谷口の言葉で、光一は我に返る。

「まあいつもどおりだな。いや、いつもよりはきつめだったが……。七時間近く柱に拘束されてたからな。流石に体がいてえ」

「ひえっ、し、七時間!? 全然帰って来ねえなとは思ってたが……」

 谷口だけではなく、周囲で光一の話を聞くために集まっていた他の生徒たちも、顔をしかめて驚嘆の声を挙げた。

「おいおい、そんなに集まってっと、またさぼってるってどやされるぞ」

「……確かに、そろそろ戻ってきそうだな」

 そうして、光一たちが所属する班は手分けして旧校舎付近の掃除を始めた。そしてその時、光一は旧校舎とその周辺を見回して、ふとあることを思いつく。

「……俺は校舎裏の掃除をしてくる」

 そう言って返事を待つ間もなく、光一は一人駆け足で旧校舎の裏に回る。

するとそこは予想通り何もなく、外との境界をなしているフェンスとの間に三メートルばかりの空間があるだけだ。

光一は、このフェンスと旧校舎の壁を交互に見つめた。

……ここからなら、旧校舎が目隠しとなり、誰からも見られずにフェンスをよじ登ることができそうだ。

無論、今日脱出をするための経路についてである。作業中も、ずっとそのことばかり考えていた。

「おいっ来たぞ」

 一人思索していた光一に、走って後ろからやってきた谷口が声をかけた。来たとはもちろん、田岡の事である。



 放課後活動が終わると、食事の時間までは各自、自由時間となる。この時間を利用して、光一は今、脱走の道筋を考えるため、旧校舎の裏とフェンスとの間のスペースに座り、思案を巡らせていた。

 九州某県、近くの町まで行くのに一時間ほども歩かなくてはならない辺境の地に位置する文野学園は、かなり広大な敷地を持っていて、学校の裏には多くの山が聳える。

外からこの学校の門にたどり着くまでには、緩やかな上り坂があり、そこを登り切ると、派手で大きな金色の門がある。ここが方位でいうと、南側になる。

 その門をくぐって敷地内に入ると、左側、つまりは西側にかなり広い校庭が見られる。サッカーコートを二面は作れる広さだろう。ここの生徒からすると、放課後活動の体磨業などで頻繫にここを走らされるので、決して喜ばしいものではないが。そしてその校庭の北側に、体育館が位置する。

 門がある南側の東寄りには、生徒たちが寝食を共にする寮が、その大きな存在感を放っている。この文野学園で一番大きな建物がこの寮だ。一般的な学校だと、寮は男女別に分けられていることが多いが、文野学園では一つの建物にまとめられ、西側が女子、東側が男子の領域となっている。

だが初めてこの建物を見た時に、ここが学校の寮であると思う人間はそうはいないだろう。一番の理由はその大きさだ。なんと十階建てなのである。横幅もかなり広く、外から見るとかなり壮観だ。生徒たちだけでなく、教官や食堂の職員たちもここに部屋を取って生活をしているので、このように大きな造りになっている。八、九階と最上階である十階が教官と職員たちの部屋となっていて、生徒たちは立ち入り禁止となっている。

数年前の大規模工事のおかげか、寮は外観も内側もかなり綺麗になっている。一階には売店も付随している食堂があり、生徒、教官ともに、決められた時刻になるとここで食事をする。その他の設備も整っていて、エレベーターまで設置されている。しかしそれは教官、職員専用なので、生徒たちは利用することはできない。

敷地の東側には、生徒たちが授業を行う第一校舎がある。取り立てて変わったところはないが、五階建てで、一般の学校に比べれば大きい方だろう。寮からそれなりに距離が離れているため、今朝の光一のように寝坊すると、ダッシュで向かわなければならない。

北西側には、今日光一と悠月が閉じ込められた懲罰室のある旧校舎が位置する。この旧校舎だけ数年前の工事の際になんの改装も施されず、壊されることもなく、みすぼらしい姿のままで取り残されている。

 以上がこの学校の敷地内にある建造物の全てだ。俯瞰してみるとなお分かりやすい。光一は地面に指をなぞって、この学校の見取り図を描いてみた。

四角形の広大な敷地の右上に第一校舎、右下に寮、真下には門、左に校庭と体育館、左上に旧校舎がある。そして敷地内を覆うように、外側には全てフェンスが張られて、敷地の外との境界の役割を果たしているが、高さはさほどなく、登ろうと思えば簡単に登り切れるようなものだ。

 この学校は厳しい規則と教官たちの理不尽な暴力ゆえに脱走を試みる生徒が多そうだが、意外にも、そういった類の話を聞いたことがない。それはおそらく、ここの生徒たちの生い立ちに原因があるのだろう。彼らは皆、家族を持たない故の偏見や孤独、劣等感を痛いほど味わってきたはずだ。それはとても辛く、苦しいものであることは、光一も経験上よく知っている。

しかしここ文野学園では、周りにいるのは自分と似たような境遇に晒されてきた人間たちだ。これが何よりも大きいと思う。それによる居心地の良さは、光一も入学時から実感していた。施設で生きてきた子供たちの一番の苦しみは、自分だけが辛い思いをしているという孤独と、周りと感じる明確な格差からくる劣等感なのだ。施設内には同じ境遇の人間がいただろうが、学校に行けばそうではない。そこでは確実に、持たずして生まれた者のハンデや劣等感を、嫌という程に味わう。しかし文野学園では、ここが生活の場であり、学校でもある。それゆえ、周りとの格差というものを感じる場面など訪れない。

 文野学園の生徒は皆、ここでの理不尽な暴力に不満を抱いているのは間違いないが、この環境自体には、ある種の居心地の良さも感じているのは事実だろう。

 それに、もし脱走に成功したとして、ここの生徒たちには行く当ても金もない。何しろ頼れる身寄りがない人間ばかりが集められた学校なのだ。

 まあ、脱走が失敗した時に受ける仕打ちの恐怖もあるだろう。とにかく、それらの理由で脱走を試みる者は意外にも少ないのだ。

 ……だが、自分たち二年生の代が入学するもっと前、ここを脱走し、失踪した人間がいるという噂を耳にした、いや、目にしたことが光一にはあった。

あれは確か中学校に入学して間もない頃だったろうか。まだ文野学園に進学するなど夢にも思っていなかった頃、偶然読んだ週刊誌にその旨の記事が載っていたのだ。しかし見出しは小さく、テレビなどでも全く取り上げられていなかった。クラスメイトや畑に聞いても、誰も聞いたことがないと言う。光一も、偶然その記事を見つけなければ、おそらく知ることは無かっただろう。

果たしてあの記事は本当だったのだろうか?

もしそれが真実だった場合、もっと有名になっていただろうし、ここの生徒たちが一人も知らないということもないはずだ。

ネタに困った週刊誌がでっち上げたのだろうか。当時は文野学園が今よりも世間の注目を集めていたため、その可能性は高い。個人的な意見としては、そんな嘘か本当かわからないような事よりも、ここの理不尽なスパルタ教育の方をもっと大々的に取り上げてほしいものだ……。

 それはさておき、頭を脱走の件に戻す。

 文野学園は基本的にセキュリティが甘く、寮の入り口の鍵は一日中開いている。さらには敷地内のどこにも監視カメラが取り付けられていない。まあこんな辺境の地にある学校に泥棒に来るような物好きもいないだろう。それらを考慮すると、たった一日、飯を食べに行って帰ってくるくらい容易なはず。光一はそう踏んでいた。

しかし油断はならない。脱走するにあたって、やはり一番の肝はどこから外に出るかだろう。だがそれはもう目処がついていた。例の懲罰室がある旧校舎である。正確に言うと、旧校舎裏。つまりは今、光一がいる場所である。

 この学校の敷地の端側には外の舗装道路と敷地内を区切るフェンスがずらっと張られていて、それは敷地全体を覆っている。先ほども述べたように、このフェンスは防犯用とは思えない程低く、登ろうと思えば簡単に登れるようになっている。ここからも、どうせ抜け出す奴などいないだろうという、学校側の油断が見て取れた。

 しかしこの学校は敷地の異常なまでの広さに対し、建物の数が少ないため、中からの見通しが非常に良い。そのため抜け出そうとフェンスをよじ登れば、誰かに見られる恐れがある。だが旧校舎の裏のフェンスからなら、旧校舎に隠れて、人にも見つからない。抜け出すには絶好の場所だ。

しかし問題はその後にある。町に行くには、外へ出てから南側、つまりは、門がある側に進まなければならない。その際日が明るいと、南側へ歩いていくのを、フェンス越しに、中にいる人間から見られる危険性がある。

 そこで光一が思いついたのが、日が暮れるまでこの旧校舎で隠れながら待機するというものだった。幸い旧校舎は普段から人が寄り付かないため、潜伏にはもってこいの場所だ。おそらく、これが最上の手だろう。

そうなると、ルームメイトの畑に事情を話さなければならないし、同じことをするように、なるべく早く悠月にも伝えなればならない。たった一晩抜け出すのにとんだ大仕事だ。しかし約束した以上、今さら反故にするわけにはいかない。

なにより光一は、悠月の喜ぶ顔が見たかった。

さあ、早く悠月を見つけなければ。

 どこにいるだろうか。さすがに女子たちの班ももう放課後活動は終わっているだろうから、おそらく別れ際に指示した通り、食堂前のロビーにいる可能性が高い。光一は一目散に寮へと向かった。



 寮の入り口は大きなガラス戸になっている。入るとすぐに広いロビーがあり、さらに突き進み、廊下を曲がると、食堂がある。ロビーの東西どちら側にも階段があり、東側が男子寮、西側が女子寮となっている、男女共に、異性側の領域には絶対立ち入り禁止で、破った場合はとてつもなく重い罰が下されるらしい。想像するだけでも身の毛がよだつ。

 光一がロビーを見渡すと、自由時間ということもあって、それなりに人でにぎわっていた。そんな中、数少ないセーラー服姿の女子生徒を探すと、中央の休憩スペースのソファで寝ている悠月を見つけた。汚れた制服のまま、両手を枕にして、横になりながらすやすやと気持よよさそうに眠っている。

 ……まったく。懸命に今日の作戦を考えていた俺の気も知らないで、呑気なものだと思わず呆れたが、静かに近づいてその寝顔を見つめると、そんなことも気にならなくなってしまった。

それほどまでに、その顔は安らぎを与えるものだった。あどけなさの残る、まるで子供のような無邪気な顔で、いつもの陽気で明るい性格を、光一に思い出させた。

……だが、俺は今日、初めて悠月の涙を見てしまった。あれは、あの時受けた仕打ちが特に大きかったからというわけではない。今までずっと耐えて、苦しみを押し殺していた我慢が、あの瞬間ぷっつりと切れてしまったのだ。あれは、そういう涙だった。思い出すだけで、胸が疼く。

悠月とて、芯から強いわけではないのだ。それを今日、身をもって理解することが出来た。

もう、決して悠月に涙を流させてはならない。

光一は、悠月を守らなければという、謎の使命感を感じていた。それは実は、今日の懲罰室での涙がきっかけではない。一年以上前、初めて彼女を見た瞬間から、なぜかそのような思いをずっと抱いていた。

――あの時の衝撃を、光一は未だに忘れられない。

クラスが決まって、席が決められた時、偶然にも悠月と隣だった。

そして、彼女と目が合った瞬間、体に何かを打ちつけられたような激震が走り、同時に運命を確信した。

まるで自分と彼女は、生まれた時から出会う事を約束されていたような、そんな錯覚さえも覚えた。

これが、これが一目ぼれというやつなのだろうか。しばらく我を忘れて見つめていると、悠月の方も、シンパシーを感じているように、自分を見つめていることに気づいた。

目を通して、悠月の心を読めたような気がした。彼女も、俺との出会いに、何か特別なものを感じている。光一は直感でそう感じ取った。

はっと、そこで光一の意識は現実に戻る。今は過去の思い出に浸っている場合ではない。

光一は寝ている悠月にそっと近づき、やさしくその肩をゆすると、悠月は眠たげな目と声で反応した。

「んん。もうご飯の時間?」

 相変わらず能天気な返答だ。しかし、いつもの悠月の様子に光一は内心ほっとした。

「俺たちは飯抜きって言われただろ。それで、今日抜け出すっつったろ」

 身をかがめて、声をひそめて話した。ロビーにはまばらに人がいたので、もし聞かれたら一大事だ。悠月もそれを汲み取ったようで、声のボリュームを落とした。

「あ、そうだそうだ。それで、どうするの?」

「いいか、抜け出すには、旧校舎裏からだ。あそこなら人目につかない。でも夜中に寮を抜けてからあそこに向かうのは難しい。だから、今から旧校舎に行って日が暮れるまで待つ。だがその前にやらなきゃいけない事がある。お前のルームメイトにその事を伝えてきてくれ。さすがにいつまでたっても部屋に戻って来なかったら、不審に思って教官に言う可能性があるからな」

「なるほどね。りょうかーい。言ったらまたここにくればいいの?」

「いや、俺ら二人で遅くに寮の外を歩いていたら目立つからな。伝え終わったら、一人で旧校舎の裏まで来てくれ。この時間は外にいても問題ないが、なるべくばれないようにな」

 悠月はうんうんと頷いて、微笑みながら大きく手をあげた。

「はーい! りょうかい!」

「ばか! 声がでけえ」

「あ、ごめんごめん」 

 そうして二人はそれぞれ事情をルームメイトに伝えるため、いったん別れた。

 食事開始前はほとんどの生徒が自分の室内にいる。光一は自室である、四階の408号室へ向かった。

 ここの寮はとにかく大きく、一つのフロアに十部屋以上もあり、それぞれ相部屋で、一部屋に生徒二人が割り当てられる。

 当の光一のルームメイトは、同じクラスであり、親友の畑祐介だ。彼は実に穏やかで優しい人間であり、光一のよき理解者でもある。そして彼も光一同様、悲惨な人生を送ってきたようだ。幼少期に親から日常的に虐待を受け続け、本当に殺されかけたこともあったらしい。そして小学生の時、当時担任だった教師が、彼の体の傷を見て不審に思い、紆余曲折を経て、施設に預けられ、現在に至る。

 そして今では、彼の親ももうこの世を去ってしまったようだ。こう言っては不謹慎かもしれないが、彼の親のような人物の場合は、そうなることの方が、彼のためにはよかったことなのかもしれない。

 しかし、せっかくそんな親から解放されたというのに、今この学校でも畑が理不尽に暴力を受けるというのは、何とも許しがたいことだった。畑は非常に体が弱く、放課後活動で体を動かす時などによく、教官から気合が足りないなどと言われて殴られる。そのたび光一は彼をかばい、同様に殴られた。

 畑は親友だ。おそらく向こうもそう思っていると思う。光一にとって、親友と呼べる存在は彼が初めてだった。

 四階まで登ると、左右に廊下が続く。左側の一番奥の408号室が、光一と畑の部屋だった。

 408号室に着き、ノックもなく扉を開ける。生徒に割り当てられる相部屋は六畳ほどの広さで、扉から見て左側の壁際に二段ベットが置かれている。そしてその反対側の壁に机が二つ。扉から見て奥の机が畑のものだ。

そして今、その机に、畑は静かに向かっていた。その横顔は幼い少年のような顔で、どこか儚げな雰囲気を纏っていた。その消え入りそうな存在感に、光一は時折、心配になる。彼はもう部屋着に着替えていて、今日の授業の復習でもしているのだろうか。机の上でノートを広げ、何かを書いていた。そして光一の存在に気付くと同時に、それをぱたんと閉じ、こちらを向いて微笑んだ。

「やあ、おかえり。いつになったらノックを覚えるのかな?」

「あ、わるいわるい」

 光一は苦笑いで謝りながら畑の姿を眺め、今日の放課後活動でひどい暴力を加えられていないかをこっそり確認したが、どうやら今日はそういったことはなかったようだ。

 逆に畑の方が、光一に心配そうな声をかけた。

「そういえば、光一くん、今日大丈夫だったの? 田岡先生にこっぴどくやられたんでしょ?」

「ああ。まあな。そんなことよりも今日さ、朝までこの部屋に帰って来ないから、そのことを頭に入れといて欲しいんだ」

「え、なんで?」

「いや実はな、今日、外に抜け出して飯を食いに行こうと思ってな」

「また君は大胆なことを……」

 畑は目を大きく見開いて驚きを露にした後、呆れた声で呟いた。が、その反応も無理はない。それほど脱走という行為は、この学校では大事なのだ。

「ちなみに、誰と行くの?」

 畑は、見透かしたような目で光一に問いかけた。

「え、えっと……」

 思わず答えに窮したが、畑の目を見るに、お見通しのようだ。

「横山さんかな?」

 畑はまたふふっと笑って、光一をからかった。

「な、なんでわかった?」

「そりゃわかるよ。君が自分のためだけにそんな危険を冒すとは思えないし。そこまでして外に行くとなると、彼女以外あり得ないからね。それに、さっきから、なんかそわそわしてるし」

「そ、そうか?」

「うん、何かを楽しみにしてる感じ」

 確かに光一は、作戦を練っている途中からずっと、密かに胸を躍らせていた。こんなところまで見抜いてしまうとは、まったく、彼にはかなわないな。光一はそう思った。

「俺、そんなに露骨か?」

「うーん。露骨ではないけどね。なんとなく分かるよ。似た者同士だし、お似合いだと思うけど?」

「似た者同士? 初めて言われたぜそんなこと」

「うーん、どことなく雰囲気がね」

「ま、とりあえずそういうわけだから」

 照れくささから半ば強引に畑を振り切ると、部屋のシャワールームで光一はシャワーを急いで浴びて、制服からスポーツウェアに着替えて、ポケットに財布と小型のライト、そしてもう一つ、昔売店で買って、そのまま忘れて放置してしまったパンを詰め込んだ。

こんな時、携帯電話でもあれば便利なのだろうが、この学校では携帯電話を持つことは許されていない。そもそも光一はここに来る以前から、そんな高価なものを所持したことが無かった。

「じゃ、行ってきます」

「うん。気をつけて。くれぐれも、先生たちには見つからないようにね」

 笑顔で畑は見送ってくれた。

いつもの畑だ。

彼とのここでの生活は、卒業までずっと続くのだろう。光一は、疑いもなくそう思った。




部屋を出ると廊下や階段あたりには、食事前というだけあって、それなりの人でにぎわっていた。こっそり抜け出すにはもってこいの状況だ。

文野学園では、通常の授業と放課後活動が終ると、私服の着用が許される。といってもほとんどが寝間着も兼ねたスポーツウェアなどで、冬場だとジャージ姿でいるのがデフォとなっている。ちゃんとした私服を着る学生はほとんどいないと言っていい。

夕食は八時から始まり、その日支給されたものを食べる。自分でカウンターまで取りに行くシステムになっているので、九時までに食べ終えれば時間内のいつ食事を取ってもいいのだが、光一と悠月の分が抜きということは、食堂の職員にも行き届いているはずなので、やはり光一たちが食堂で夕食を取るのは無理だろう。

食事の時間が終わると、全生徒は寮の外から出ることを許されなくなり、さらに十時を迎えると完全消灯時間となって、自室から出ることも許されなくなる。

光一は、時間ぎりぎりに抜け出すのはリスクが高いと感じたため、この食事が始まる少し前の時間帯で寮を抜け出すことを選んだ。

階段から一階ロビーに降りると、ロビーと、そして玄関のガラス越しに見える寮の外にも、ちらほらと人が見えたので、抜け出すにはもってこいの状況だった。

 周りを窺いながら、さも自然な顔で玄関から第一校舎を抜ける。そのまま落ち着いた足取りで、まだ外に残っている生徒たちからも特に注目を浴びることなく、目的地の旧校舎へと難なく到着できた。

 周囲に人がいない事を確認して、旧校舎の裏へと回る。まだ悠月は来ていないようだ。

悠月を待つ間、特にすることもないので、光一はなんとなく、旧校舎の姿を見上げた。

裏から見ても相変わらず、おんぼろで、不気味な雰囲気を纏っている。こんなもの早く取り壊してしまえばいいのにと思うが、今日に限っては、この旧校舎の存在がありがたかった。

そう一人で思っていた矢先、こちら側に近づいてくる足音を光一の耳はとらえた。素早く壁の方に寄り、そっと顔を少しだけ出して窺うと、その正体は悠月だったので、安堵の息を漏らしながら身を乗り出し、手を振って合図をした。

悠月もこちらに気付くと顔を明るくし、小走りで光一の元へと駆け寄った。

その悠月の姿を見て、光一は唖然とした。

悠月は私服に着替えており、ショートパンツに軽そうなシャツを着て、頭にはキャップを被っていた。その女の子らしい恰好はいつも制服姿とのギャップもあり、より可憐に見えた。しかし、今そんなことは問題ではない。

「ばか! 何やってんだ!」

「え、な、なにが?」

「自分の恰好を見てみろ!」

そう言うと、悠月は両手を広げて自分の姿を見つめ、ぽっと顔を赤くした。

「に、似合うかな? 持ってる服の中では、いちおう、一番のお気に入りなんだけど」

「そんな恰好じゃ目立つだろ! なんでスポーツウェアで来なかった?」

「あ、ご、ごめん。でも、先生には誰にも見られなかったから、た、多分、大丈夫だよ」

 自分の勘違いに気付いた悠月は、さらに顔を真っ赤にし、胸の前で両手を振りながら弁明した。

光一は、思わずため息が出そうになったが、ここまで来たら仕方がない。教官たちに見られなかったというのは本当だろう。教官が今の悠月の姿を見たら間違いなく怪しんで、声をかけたはずだからである。

「ルームメイトにはちゃんと話をつけたか」

「うん。大丈夫だよ」

「そうか、それに……ちゃんと似合ってるぞ」

 気恥ずかしさから、光一は視線を泳がせながら言った。

「う、うん。ありがと」

 悠月も、照れくさくなったのか、顔を朱に染めたまま、ゆっくりとうつむいた。

 とりあえずこれで準備は整った。今フェンスを乗り越えて、外へ抜ける事は可能だと思うが、外にはまだ幾人かの人がいて、日もまだ少し明るい。この状態だと学校内からはフェンス越しでも外がよく見えるので、今出ると、誰かに見られる危険性が高い。日が暮れれば、必然的に見えにくくなるし、寮の外に出る人間もほとんどいなくなる。暗くなるまで、そのまま旧校舎の裏で待つことにした。

悠月と二人、地面にぺたんと座り込む。

この時間になると、日差しも弱くなり、気温も快適な部類だった。涼しい風がそっと光一の頬をなでると、少し爽やかな気持ちになる。

隣を見ると、悠月はまっすぐと、フェンスの先にある景色を見つめており、その髪が少しなびいていた。

それを見て、ドキリと、光一の胸が高鳴る。

よくよく考えてみれば、自分は今、かなり大胆な事をしようとしているのではないか。光一は今更ながらそう思い始めていた。言うまでもないが、外出禁止の掟を破って、女の子と二人で学校を抜け出そうとしている。見つかったら間違いなくただでは済まないだろう。

しかし、何をいまさら怖気づくことがある。自分には、失うものなど何も無いではないか。

もし見つかったら、自分が脅迫して無理に連れ出したとでも言って、悠月の事は絶対にかばう。ここまで来て引き返すつもりは無い。なんとか悠月を喜ばせてあげたい。それを叶えるためなら、冒す価値のあるリスクだ。

一人で自問自答する光一を横目に、隣に座る悠月が聞いた。

「ちょっと思ったんだけどさ」

「なんだ?」

「寮に戻るときはどうするの?」

「どうするって、またここのフェンスから登ってこっそり戻るだけだが」

「戻るときは、寮の近くのフェンスからでいいんじゃない? どうせ戻ってくる時にはみんな寝てるだろうから」

 意外と鋭いな。と光一は少し驚いた。

「ああ。だがな、寮の近くのフェンスから戻るとなると、音が怖い。もし起きてる奴がいたら、窓から覗かれる可能性があるからな。いいか、寮の窓は南側と西側の方を向いてる。ここ旧校舎は敷地の北西側にあるから、ここから戻れば、窓から見られずに寮にたどり着けるって寸法だ」 

「なるほど! 天才だ!」

 悠月は惜しむことなく賛辞の拍手をぱちぱちと送った。光一はそれに乗せられ、鼻が高くなる。

「ふふん。まあな。だが、拍手はやめとけ、大丈夫だとは思うが、音は立てない方がいい」

 その後も、時間を潰すため他愛もない話をした。

「そういえば、君のルームメイトって誰なの?」

 悠月が体育座りをしたまま、光一に聞く。

「畑だ」

「ん? んん、そんな人いたっけ?」

「いるだろ、お前の斜め前の席だろ」

「ああっ、あのさえない地味な子……」

 光一の眉がぴくりと吊り上がる。

「なんだと?」

反射的に、光一は、棘のある声音になってしまった。目つきも思わず鋭くなる。その普段見ない光一の表情に、悠月も自分の過失に気付いたようだった。

「あ、ご、ごめん。そっか、仲いいんだったね」

 申し訳なさそうにうつむく悠月を見て、光一もしまったと思った。

「いや……すまん」

「ううん。ほんとにごめん」

「あいつもな、相当苦労してきたんだ。生まれつき体が弱いうえに、親の虐待を受けて育ったからな。精神的にも色々傷を負っているだろうから、この学校は相当きついと思う」

 放課後活動の際も、畑は、皆平等にきつい仕事や運動をさせられる。そしてやはり他の生徒に後れを取ってしまうから、教官からしごかれる。光一は、常にそのことで心を痛めていた。

「そっか、やっぱみんな、苦労してるんだね……」

 どこか気まずい空気が流れたので、お互いの話にしようと、光一は新たな話題を振った。

「そう言えば、お前はどこの出身なんだ?」

 ここ文野学園は、全国の児童養護施設から、条件をクリアし、入学を希望したものが集められる。必然、この質問はどこの県の施設出身かという意味合いになってくる。

「ん、千葉だよ」

「千葉か。施設に入る前だが、俺も小さい時は千葉に住んでたぞ」

「え、そうなの?」

「ああ。そんなに記憶はないんだがな。物心ついたときには、東京に引っ越してた。理由は多分、借金取りから逃げるためだろうな。東京に行ってからも、何回かそういう事があった」

 悠月は光一の話を聞きながら視線を下に向け、地面に指をなぞっていた。

「そうなんだ。でも、東京いいなあ。大都会じゃん。私も行ってみたいなあ」

 千葉に住んでいたのなら東京など容易に行けそうなものだが、悠月の境遇を考えると実はそうでもないのだろう。施設で暮らす子供がもらえるお小遣いは決して多くない。東京まで行って、何かしら買い物などをして帰ってくるとなれば、その日だけで、財布の中身は全て飛んでしまう。

 そこで光一は、勇気を振り絞って、今まで胸に秘めていた思いを、口にした。

「じゃ、じゃあ、ここを卒業したら、一緒に、東京の大学に行かないか?」

 我ながら、大胆な発言だったと思う。これでは遠まわしに告白しているようなものではないか。

段々と顔が紅潮していくのが自分でもわかった。夕日がなんとかごまかしてくれることを心の中で祈りながら、おそるおそる悠月の反応を見ると、幸か不幸か光一が思った風にはとらえなかったようで、きょとんとした顔で一度こちらを向いた後、目を伏せると、どこか悲しげな声で言った。

「……そうしたいのは山々だけど、そんなお金ないし、私バカだから、入れる大学なんてないよ。君は頭いいから、大学にもいけるだろうし、奨学金とかももらえるかもしれないけどさ」

 うつむきながらそう答える悠月に、光一は顔を近づけ、説得するように声を荒立てた。

「昔だったらそうかも知れないが、今はな、バカでも奨学金がもらえるんだ! 勉強なら俺が教えてやるし、それに卒業するときには、金がもらえるだろ」

 我ながら何という言い方だろう。しかし、本当に無理な話ではないのだ。

 ここ文野学園を卒業して進学をする生徒には、国からいくらの支援金が出ることになっている。決して大きな額ではないが、卒業後に今後の生活資金として与えられるものだ。しかも、在学時の成績が優秀だった場合、その額も増える。これと奨学金、光一の貯金とを合わせ、大学入学後もバイトにはげめば、厳しい生活にはなるだろうが、東京の大学に通う事も不可能ではないだろう。光一が試験で好成績を取り続けて金を貯めているのも、実はこのためだった。

 光一の必死の説得に、悠月は戸惑うような表情を見せ

「うーん。じゃあ、考えてみるよ」

ボソリと、自信なさげに答えた。

 この様子だと、まだそこまで乗り気ではなさそうだが、いずれ必ず説得してみせる。光一は固く胸に刻んだ。

 光一が密かに描いている将来のプランは、このまま文野学園を卒業して、悠月と二人で上京し、同棲して大学に通うというものだった。最悪、大学は別々でもいい。

そのためには、まず悠月と恋人になるというのが前提条件だが、卒業まで、まだあと一年以上もある。ゆっくり仲を深めて、いずれ告白しようという魂胆だった。

 そして光一は、誰よりも大学への進学を熱望していた。死んだ両親と同じ末路を辿らないためには、少しでも学をつけることが必要だと思っていたからだ。奨学金を借りるのが嫌でここへ進学したが、大学進学の際は仕方ないと腹をくくっていた。

 その後もしばらく悠月と話をして、気がつくと、もうだいぶ辺りも暗くなっていた。旧校舎のコンクリートの壁から、顔を少し出すと、寮から出ている明かりだけが学校内を照らしており、校庭や寮の外などにも、人の姿は見られなかった。

 第一校舎の外壁に取りつけられている時計を見ると、もう食事の時間が終ろうかという頃だった。どうやら、思っていたよりも長く話しこんでしまったらしい。

「よし。いこう」

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