空に向かって落ちていく

 灰色の部屋の中で、俺は天井を見上げながら空の上を想った。


 考えてみれば、なんて薄っぺらな人生だったことか。


 朝の七時に家を出て、電車に乗って職場へ向かい、昨日と同じ作業を今日も繰り返して家に帰る。それなりの給料はもらいつつもそれを使うことのない毎日は、そうして終わっていったのだ。


 昨日の食事はカレーライスだった。美味しかった。まずいカレーなんてカレーとも呼びたくないから、カレーライスが食事だったと言える時点で美味しくて当然だ。そして、美味しいと思えることが何より嬉しかった。何気ないものにも幸せを抱くのだから、質素を極めた生活は人の心を研ぎ澄まし、荒んだ感情を浄化する作用が少なからずあるのかもしれない。


 住み慣れたと言って良いこの空間も、少々飽きが来たと言えばそうなのだろう。視界に入るものが変わらないのだから新鮮みが薄れていくのは当然だ。もう十年になるか、ここも。


 朝の九時だった。来訪者があった。突然のことで、心臓が跳ねた。


 俺は薄ら笑いを浮かべて外に出た。


 何か食べたいものはあるかと訊かれてとっさに、昨日のカレーと答えたが、それは無理だと言われた。だったら訊かないで欲しいものだ。


 時間の流れは皆に平等であるが、しかし感じ方はそれぞれである。俺の十年は、初めの三年は異様に長く、それからの五年は憶えておらず、残りは光陰矢のごとし。


 だが、今日までに長く、短く、奇妙な時間の感じ方は初めてだった。かつても似たようなことがあったが、それの比ではない。


 服を着替えて、男の声が棒のように響く部屋の中で、俺は目を閉じたまま沸騰しそうな脳内を落ち着けようと必死だった。


 さて、今までの日々を思い返してみようか。いや、必要ない。この十年、嫌と言うほど回り灯籠を回しては感傷に浸った。


 社会人時代の単調な日々だとか、学生時代の初恋だとか、幼少期の家族旅行だとか。……あとは、一体何があっただろうか。思い出はもはや遠い彼方でとうに霞んで、まるで色落ちしたシャツのようだった。かと思えば、都合のいい脚色によって虚像と化した鮮やか過ぎる記憶は、もはや記憶ではなく物語だ。どちらもあてにならない。ただ言えることは、あまりにも衝撃的な出来事だけは忘れちゃいないし、忘れようもない。記憶に残っていないということは、そういうことなのだろう。


 菓子を食うか、と勧められて断った。手紙でも書くかと言われて断った。どちらも無意味だ。俺には、無意味だ。


 冷徹だと思っていた彼らが、今日はどうにも暖かく感じる。それもそうか。彼らは敵ではなかった。敵の傀儡ではあったが、敵そのものではなかった。


「時間だ」男が言った。


 この部屋に入って何分経っただろう。五分と言われれば信じるだろうし、半日いたと言われれば首を傾げながらもそんなものかと思ったに違いない。


 自由をなくし、視界をなくし、俺は隣の部屋へと歩き出す。身体に力が入らない。足に乗る体重が、数十キロとは思えないほど重たかった。往生際の悪さがここに来て俺を縛る。


 とは言え抗えるものでもない。抗える力は残っていないし、残っていたとて無力だ。


 不安定な足下で部屋に入った。入った、のだろう。目は見えていない。


 どこか不気味で、冷たくて、そして何だか臭う場所だ。


 皮と骨だけのやせ細った俺は立ち尽くし、彼らが作業を終えるのを待った。待つ以外のことを許されていなかったし、それ以外を行う余力はなかった。


「あっという間だ」


 俺は、既に失った時間感覚でもそう思った。


 せめて昨日言ってくれよ。一昨日なら尚良かった。一ヶ月前だとすると、さすがに気が狂うかもしれないな。でも、今日の今日に迎えに来るなんてあんまりじゃないか。


 そして俺は一人になった。一人きりになったのだろう。何せ見えていない。だが周囲から気配が消えた。きっと一人になったのだ。


 俺は目を閉じた。はなから見えちゃいなかったが、ここで俺は目を閉じた。


 声が聞こえる。男の棒読み。感情も何もない、形式的な、単調な声。抑揚とメロディが欲しいなと思った。これじゃああんまりだ。好きな曲を、そうだ、洋楽のロックなんかがいい。熱くて鼓膜が破れるような爆音でロックを流してくれれば、少しは気分も変わるんじゃないか。


 さあ。時は来た。


 長かったここでの十年と、生まれてから今日までの四十年。長いようで短すぎる人生とのお別れだ。


 最後に聞こえる音がお経ってのは嫌だな。最後の飯がカレー、悪くない。最後に会うのが刑務官の男共、綺麗な女なら良かったのに。


 ここまで歩いて来るにも、もっと良い匂いとかしてさ。線香の臭いってのは、最後にしては田舎臭いじゃないか。最後なんだから、牛肉を焼くような美味そうな匂いが良かったな。


 最後だ。最後。最後に……、そうだ、最後に言わせてくれ。


 我が儘は言わないから、これだけ。



「俺はやってない」



 ガンッと鳴った。


 宙に浮いたと思った。空を飛んだと思った。


 心臓がギュンと固まったようだった。


 そしてその瞬間、俺の首に痛みがはしっ――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る