あれも、これも。
彼の国で戦うスポーツ選手が、まるで漫画の主人公のようだと持て囃されていた。
本来ならば専門分野に特化して活躍するスポーツの世界で、二つの役割を一人でやってのけるのは想像よりもはるかに難しいことだろう。
人々はそれを二刀流と呼んで讃えていた。
本当に、大変なことだと思う。
私は、母と会社員、その両方に苦慮していた。
三十八歳。不動産会社に務める会社員。そう言えば聞こえは良いが、実際は準社員なんていう肩書きで、ようは契約社員、非正規だ。
社員にならないかという話は過去にあった。けれど、他店舗への転勤の可能性が出てきてしまうことがネックだった。
転勤で遠くに行くとなると、精神的負担に加え、生活拠点を丸々移すことによる経済的負担も大きく、例え近場であっても今より通勤時間が伸びるのは避けたい、と誘いを断った。
給料は時給制。入社時は七百九十円で、一年ごとに十円ずつ上がっていたが、八百八十円まできてそれも止まった。
年収は手取り百五十万円。生活はギリギリだった。食費光熱費の負担は増え続け、最近では通勤に使う車の燃料費も家計を苦しめている。
夜、働きに出ようとも考えた。でも、やっぱりそれは出来なかった。
息子を一人にしておくのが怖かったのだ。
息子は小学生だ。勝手なイメージで、男の子は例外なくやんちゃに育つような気がしていたのだが、うちの子はどうにもおとなしかった。
自己主張が得意ではないが、しかし正義感は強く、クラスで休み時間にドッジボールをした際、女の子に本気でボールを投げた男子を注意した。黙っていられなかったのだと思う。
それが災いしてか、息子はクラスの男子全員からいじめに遭うことになった。息子が注意した男子は、クラスのリーダー的存在だったのだ。皆がそうだとは思わないが、意に沿わない形で加担している子もいるだろう。
息子は一人帰宅して、必ず私に電話を掛けてきた。「帰ったよ」と一言目に口にして、次に続く言葉は、「もう学校に行きたくない」だった。
その言葉を聞く度に、私は胸が詰まる思いだった。
息子は学校で一人だった。話し相手がおらず、声を一度も発することなく帰ってくるのだと言う。それなのに、家に帰ってきても一人。私が帰宅するのは夜の七時や八時。それまで、息子は誰とも話すことが出来ない。
この子には私しかいない。そう思うと、出来る限り、この子を一人にはしたくなかった。
教師には何度も掛け合った。担任はその都度「なんとかします」と口にした。もう半年、問題は解決していない。
転校させることも考えた。だがそれを軽々に判断出来るほどのゆとりはなかった。また、今息子が通っている小学校は生徒数が少なかったこともあって、今以上に大きな学校に行くことで、余計息子がふさぎ込んでしまうのではとの懸念もあった。
なんて駄目な母親だろうと、私は日々自分を責める。
息子の為に何も出来ていない自分が情けなかった。
仕事と両立? そんなもの、まるで出来てなんかいない。
会社員などと言ってはいても稼ぎは男性の半分にも満たない。
子供とも一緒にいてあげられず、助けてもあげられない。
ゴメンねと、何度息子の寝顔に零しただろう。
シングルマザーになったのは、息子が産まれてすぐのことだった。
元夫は、暴力を振るう人だった。
私は逃げた。すぐにでも離れなければと思った。この子だけは、息子だけは守らなければと、必死の思いで逃げた。
その時のことは思い出したくもなかったが、時々息子が、何故うちに父親はいないのかと訊ねてきた。私は、はぐらかすことしか出来なかった。
そう訊かれるのも、きっと私が不甲斐ないからだ。寂しい思いをさせてしまっている。
どちらも中途半端だ。社会人としても、母としても。とてもじゃないが、両立できているとは思えない。
夜の八時のバラエティ番組が始まった頃、漸く夕食の支度が出来た。
狭いアパートの一室で座る息子は、随分とお腹を空かせて待っていたに違いない。
ハンバーグを作った。合い挽き肉が安かったのだ。息子はいつものように勢いよく食べる。私は一個。息子には三個用意した。息子は丼に盛られたご飯を掻き込むように食べる。米は両親が作っており困ることがない。これだけでどれだけ助けられているだろう。
静かな食卓にテレビ番組の賑やかな声が響く。それが少し耳障りに思えるほど、私には余裕というものが欠落していた。
悪いのは会社でもない。当然息子でもない。不甲斐ない自分だ。「それがいけないんだよ」と友人に言われたこともある。背負いすぎだ、と。でもそういう性格なのだ、仕方がない。
幾度も選択を誤った。正社員になるべきだった。安寧にはリスクが伴う。そのリスクを負うことを嫌ったのだ。現状の苦しみも甘んじて受けなければならない。
離婚の時にも、いち早く関係を断ち切りたくて養育費については話し合いもせずに断った。後悔はしていない。けれど、この子にもっとたくさんの選択を与える為ならば、痛みは覚悟の上で協議をするべきだったのかも知れない。
もうどうにもならないことを何度も心の中で繰り返す。
「お母さん」
呼ばれて、はっと意識を取り戻した、そんな感覚だった。
「……ん? どうした?」
息子はソースを口の周りにつけながら、「なんか今日のハンバーグ、美味しい」
「……ホント?」
「ん。成功してる」
「……そっか。よかった」
美味しい、って、言ってもらえた。
その一言は、私をどこまでも救う。
忘れちゃいけないことがある。
私は、過去に生きているのではないということ。
今を生きる為に、懸命であること。
静かな食卓に平和はあった。息子も家の中では柔らかい表情を見せてくれる。
「じゃあまた、ハンバーグ作らないとね」
「うん。お肉が安い時にね」
私は思わず吹き出す。「……そうだね」
家庭と仕事。両立できているとは思わない。
でも、これでいい、とどこかで思ってしまっている。
私の目的は一つ。この子を守る。それだけだ。それさえ出来たら、私はそれ以上を望まない。
これまで私は、何度も間違ったのかも知れない。でも間違った先で、私は今を生きているのだ。
あれも、これも、なんて、誰もが器用にこなせるわけじゃない。
誰かが上手く両輪を回したとしても、私は私だ。一つの車輪を必死に回す。
それで良いと、私は思う。
この子が笑ってくれる場所。
それを守る為ならば。
どんな場所でも、どんな役目でも――。
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