もみじいろ

 両脇を彩る紅葉は、ピークを過ぎたからか少し寂しくなっていた。


 やや黒ずんだ肌が目立つ木々に、それでも残る秋を感じながら、仁王門を目指した。


 平日であることを置いても賑わいのない一本道は、先週終えた秋祭りの余韻もなく閑散としている。


 ビール片手に歓談する老人。仏具店。ツアー客の受け皿となっている飲食店がいくつか。自家用車で来る参拝客はここでは食事をしないのか、多くは静けさに支配されていた。


 紅葉を写真に収める人もちらほらいるが、ちらほら程度だ。一眼レフでこだわり派の彼ら彼女らを横目に、僕もデジタルカメラでグラデーションを写す。


 十分近く歩くと、そこには歴史を感じさせる仁王門が屹立していた。一体何年前に建立されたのか、相当な年月が感じられる。


 西國第三十三番満願霊場。谷汲山、華厳寺けごんじ


 やはり寺というのは背筋が伸びる。灰色の雲が覆う晩秋に、妙に肌がひんやりとした。


 実を言うと、僕は寺が苦手だ。神社よりも宗教色が強くて、異文化感が未だに拭えない。


 それでも、今年こそは名所と呼ばれるここで紅葉が見たくて、このどんよりした空もいとわずに、僕はここを訪れた。


 参道に入ると一転、橙に真紅に黄緑が、僕を出迎えた。


 秋のトンネルのようだ、と言いたいところだが、木々が並ぶのは左側だけ。右は開けていて、ぽつぽつと散見はされるが、なんとも言えない。一応、写真は撮った。



     ◯



 切れ目のたびに躓きそうになる石畳を歩き、ゆるやかな上り坂を行くと、そこには立派な杉が天高く聳え立っていた。目線は自然と上がり、気づけば、一帯を囲む紅葉は決して寂しくないと思うほどだった。


 けれど、せっかくの美しいグラデーションも、曇り空の灰色がキャンパスを暗くする。でも、仕方がない。今日しかなかったのだから。


 ぽつんとある手水舎の目の前に、勾配の急な石階段があった。雨が降っていたのだろう。段の上の落葉は濡れて、まるで転べと言っているかのように敷き詰められている。


 作法も分からないままに手を清め、階段を上った。ゆっくりと、足の裏に力を込めるように。何段あったか、そう多くはないが、運動不足の膝には堪えた。


 てっぺんには、本堂がある。


 薄明かりと、たちこめる線香の匂い。やや息を乱したまま、雰囲気を味わうでもなく賽銭箱に百円玉を入れる。鳥のさえずりもないからか、小銭の跳ねる音がやけに響いた。


 柏手を打とうとして咄嗟に止めたことは、今日一番のファインプレーだったことと思う。



     ◯



 周辺を歩くと、かつての宿坊のような平屋があった。開かれた襖の奥には小さな仏像があって、少し恐怖した。本堂はそれなりに人がいたが、ここには僕一人だ。境内の静謐な空気に、僕は素直に怯えている。


 本堂を横の階段から下りて、そこからさらに往路とは違う石段を下りていると、その脇にある二本の木と、その葉に僕の目は奪われた。


 紅葉の絨毯の上に立って、見上げる。


 決して巨木ではないし、他と比べて際立った美しさがあるわけでもない。けれど、あまり人の寄らないこの場所で雄々しくそして鮮やかに立つこの二本の赤色に、僕の心は掴まれたのだ。


 よくよく見ると、目線の高さで一枚の紅葉もみじが宙に浮いている。念動力の開花か! と思う間もなく、それは一本の蜘蛛の糸が木と葉とを繋いでいるだけであることに気付いた。


 わけもわからず、僕は涙を流した。たった一滴だったけれど、とても重たい涙だ。


 誰もいないからと拭うこともせずに、僕は呟いた。


「そうだね。頑張るよ」


 まるで僕と世界を繋ぐように、そいつは微風に揺れながらもそこにあり続けた。


 写真を撮った。真っ赤な葉を。


 蜘蛛の糸は、デジカメでは写せなかった。一眼レフなら、力強く写ったのだろうか。


 小さく笑って、僕は歩き始めた。


 仁王門をくぐる。

 並木道の緩やかな坂を下りながら、葉の少ない木々を撮った。逆側から見ると印象が違う。こちらから見たほうが、僕は好きだ。


 人の気配の少ない寂しげな通りで、また、蜘蛛の糸と葉を見つけた。今度はカメラを構えなかった。


「ありがと。またね」


 そう言って僕は、小さな覚悟を、決めたのだ。



     ◯



「どう、綺麗に撮れた?」


 駐車場で待っていた母が、僕に訊ねた。


「あんまり。でも来てよかった」

「そっか」母は微笑んだ。


 寺は苦手だ。やけに神聖で、少し宗教色が強くて、背筋に冷たいものがはしって、ちっとも心が落ち着かない。


 けれど。


 この厳かな時間の流れがあって、初めて僕はあの糸と葉に気付くことが出来たんだと思えば、これもまた悪くない。日常の中であれを見つけろと言われても、きっと無理だった。


 母が僕の肩に手を置いた。


「来週の手術、頑張れそう?」


 やけに優しい母の声が、胸の中でじわじわと広がる。


「どうだろう」僕は首を傾ぐ。


 でも、と言葉を継いで、僕は僕の覚悟を口にした。覚悟とするには曖昧で、情けないものかもしれないけれど。


「諦めないでいよう、とは、思ったよ」


 母は、ただただ微笑むばかりで、ただただ、頷くばかりだった。


 今日の、僅か一時間にも満たない一瞬のような時間で僕が得られたものは、きっと言葉に変換することの出来ないもので、けれど、とてつもなく大切な何かは、僕とこの世界とを繋ぐ蜘蛛の糸になるんだと思う。


 確信はない。でも、それでいいんじゃないかと思う。


「なんだか、大きなものを貰ったような気がする」

「気がする?」

「そう。気がするだけ」


 病は気からと言うくらいだし、この「気」は、僕にとってはとてつもなく心強いものにも思えるわけで。


 もしかすると、


「これがお寺の力、だったりしてね」


 なんて、ちょっと思ったりもした。


 お寺の紅葉もみじと蜘蛛の糸。


 この場所で、この瞬間にだけ貰うことの出来た、明日を諦めない勇気。


「ここに来て本当によかった。本当に……よかった」


 明日からも僕は、「今日」を懸命に生きようと思う。


 微風に揺れながらも、必死に。


 空が少し、晴れた気がした。

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