雨夜に堕つ
1
夜の街。雨の中。ネオン街。一人の少女が傘もささずに歩いていた。中学生だろうか。高校生だろうか。制服姿では、類推は難しいようだった。でもたぶん、もうすぐ十六歳になると思う。
「どうしたの。大丈夫」わたしは親切心と好奇心で、そう訊ねた。
少女は立ち止まりもせず、返事もない。ただ、通り過ぎる瞬間、わたしのほうを一瞥したことだけは分かった。
「ねえ、傘くらい差したらどうなの。手に持っているじゃない」
少女は、学生鞄も持たず、でも傘だけは手にしていた。
すると、少女は立ち止まって、わたしの方へと振り返った。
「たまには雨に打たれたいときもあるの。分かるでしょ。お姉さんにも」
心の欠片も見えない声と、光のない目をした、有り体に言えば、寂しげな少女だった。ネオンの灯りがこれだけ煌煌と光って、それで尚これなんだ。少し、悲しくなった。
「梅雨の冷たい雨に打たれたいなんて、まるで人生に疲れきった人みたいじゃない。あなたにはまだ早いと思う」
少女は口許に微笑を浮かべた。そこにも、心は見えなかった。
「わたし、もう大人だから」
濡れた黒髪。潤んだ唇。涙のような、頬の雨。少女の心は見えないけれど、少女の心を窺い知ることは出来る。
「大変だね、あなたも」
「お姉さんもね」
少女は、なまめかしさすら感じさせるまばたきで、また歩き始めた。
「早く引き返しなよ」少女の背中に声をかける。「戻れなくなる前にね」
少女は少しだけ、顔をこちらに向け、また歩き始めた。表情は、見えなかった。
わたしもずぶ濡れだった。手にした傘もささず、ネオン街を久々に歩く。今日は、なんだか疲れてしまった。
「戻らなきゃだめだよ。絶対に」
夜の街。雨の中。ネオン街。
わたしも一人、雨に打たれて、頬を濡らす。
2
「ねえ、三万でどう?」
汚らしい男が、くたびれたスーツ姿で指を三本突き立てて、少女に迫っていた。少女は動かない。
「じゃあ四」
数秒待って、男は嘆息した。そして、五本指を立ててた。
少女は小さく頷いた。男はニヤつき、少女の肩に手を回した。少女は、男に促される形で歩き出す。
わたしも息を吐いた。
「ちょっとおじさん。まずいんじゃないの」色気たっぷりの声は、わたしの特技でもあった。
「あ? なんだてめえ」
男は立ち止まった。少女は、そもそも歩く気がなかったかのように止まった。
「いくらこの街がなんでもありだからってさ、子供買っちゃ駄目だよ。犯罪。今日日許されないよ」
「あ?」荒々しい声と顔面が、女を見下すこの男の本質を現していた。
この街にいる以上、こんなことには慣れっこだったから、わたしも一々怯みはしない。
「おじさんもこんなところで人生終わりたくないでしょ? あと、五万とか安すぎだから」
「うるっせえな。売女が」
「わたしら買ってんのはあんたたちでしょ?」嘲笑と自嘲に満ちた言い方をしていた。
男が、虚勢を張っているだけの弱虫であることを、わたしは見抜いていた。こんな街で女を買うことしか出来ない男に、本当に強い奴はいない。
「いい? この街で金を落としたいなら、逆らわない方がいい相手ってのは見極めた方がいいよ、おじさん。バックっていうの? ああ、プレイのことじゃないよ。後ろにいる人ね。わたしもこの街長いから、顔と口は利く方なの。スーツなんて着てるんだもの、意味、分かるわよね?」
男が一歩引いた。数センチだけれど、それは恐怖の証だ。
「こっちおいで、お嬢ちゃん」
男は少女を止めない。止められないことに気付いたらしい。
それでも、少女はこちらに来そうもなかったから、わたしは少女の小さくて白くてか細い腕を取って、男から引き剥がした。
今日は晴れだ。ネオン街の夜にあっても、見上げれば月の光を浴びることが出来る。梅雨の晴れ間に、少し酔ってもいいかな、なんて思いながら、わたしと少女は、ホテルに入った。
***
梅雨の夜はジメっとしていて、わたしは嫌いだった。これが湿度のせいなのか、あの街に飛び散る汗のせいなのか、それは分からない。わたしはバスルームに、少女と一緒に入った。厳密には、無理矢理押し込んだ。
「あんたいくつ?」
わたしは少女の黒髪にシャンプーを付けながら訊いた。柔らかな香りが充満する。安いホテルのくせに、それなりに値の張るシャンプーを置くようになったから、わたしはここが気に入っていた。
「……十五」
「若いねえ。そりゃあ、こんなに小さい身体なんだから、そんなもんか。ってか、そんな歳で自分売るとか何考えてるわけ? 詮索しないから教えてよ」
「それを詮索って言うんじゃないの」
「まあね。ごめん。勉強してないから分かんないや」
視界がぼやけるバスルームで、彼女の肢体に水が滴る様を見た。小さいのに、妙に色っぽかった。
「何回したの」
「……まだ、何回かだけ」
「ふうん。いくつから?」
「今年」
「あっそ。じゃあまだ最近だね。戻るなら今だわ」
少女は首を回して、わたしの方を見た。
「何? 変なこと言った?」
「いや。前にもそんなこと言われたから」
「そりゃ、皆言うよ。あんたと同じ道歩いてきた奴なんて、この街には山ほどいるからね」
髪にシャワーを当ててやると、少女の肩が少しだけ上がった。びくっと反応する姿に、わたしはつい、興奮を覚えた。背徳感が凄まじい。
こういう時、結局わたしも、あの男たちと同じ腐った生き物なんだな、って、実感するのだ。
***
バスローブを着て、少女は濡れた髪を乾かさずにベッドに座った。小さく丸まって、幼さに拍車をかけるようで、とても可愛らしい。それでも艶めかしいのは、やっぱり、そこらの同世代とは違うところだ。
「お姉さん、わたしをおかすの?」
「子供がそんなこと言わないの」
わたしは隣に座り、煙草に火を点けた。少女は咳をした。
「ごめん。煙草嫌い?」
「嫌い」
「吸わないの?」
「未成年だし」
「どの口が言うんだか。まあ、わたしも十七くらいからだったから、まだ早いか」
わたしはそれでも遠慮せずに煙を吐いた。
「なんでそんなの吸うわけ」少女が訊ねてきた。
「嫌なこと忘れるから。んー、いや、そこまででもないな。ちょっと気を紛らわす程度だよね。あ、それに、わたしも他人に吸われるのは嫌い。十五の時に隣でおじさんに吸われて、嫌いになった」
「でも吸うんだ」
「自分の臭いってあまり気にならないの」
「卑怯」
「はは。だよね」
たかだか十センチ前後の短い煙草は、あっという間に消えていく。灰皿に押し付ける度に、
「女ふたりでこんなところ、ちょっといやらしくていいね。入り口のカメラで見てた従業員、今夜寝られないよ、興奮して」
「は?」
「冗談だって。襲わないから安心しな」
男に言い寄られていたときにくらべれば、随分人間味のある反応をするようになった。バスルームで何度も抱きついたのが良かったのかもしれない。
ピンク色の照明と、安っぽいベッドと、避妊具。本来なら、こんなところに来てはいけない年頃の子を入れてしまっているなんて、とんでもないことをしている自覚はあった。
「早くやめなよ。こんなこと」わたしは二本目の煙草に火を点けた。
らしくないことをしてるなあ、なんて思いながら、わたしは白い煙に酔い痴れる。
少女は、絨毯の繊維を凝視するかのように俯いていた。
「やりたくてやってんならいいよ、別に。他人の人生だし、どうでもいい。でも、そんな生きてるか死んでるか分かんないような目してさ、街を歩いているようじゃ、いつか本当に死ぬよ。命も、心も。さすがに見捨てらんないよね」
「お姉さんは死んでないじゃない」
「あー、まあ、それはさ。乗り越えちゃったのよ。なんか、平気になっちゃったの、こんな汚らしい毎日が。髪の毛茶色に染めてさ、小奇麗な服来て、男に媚びて、金を貰って、昼間はずっと寝て、普通の女の子がするようなこと、何もせずに。またこの夜を歩くの。たまにとてつもなく死にたくなるけど、でも、またネオンの中に呑み込まれていくの。そんな風にしか生きられなくなったっていうか、これがわたしになっちゃったんだよね」
少女は微動だにしない。感情の機微も見せない。絨毯の繊維なんて見ても面白くないだろうに、真っ黒で可愛らしい瞳は足下しか見ちゃいない。
「わたしも、十五からだったかな。親が酷くてさ。無関心っていうの? こっちに見向きもしない訳。それに、わたしの周囲の人間が軒並みまともじゃなかったわけよ。そうなるとさ、自然と、こんなとこに来るしかなくなってさ。なんだ、金ってチョー楽に稼げんじゃん、とか思って。いつの間にか、戻れなくなってた」
「じゃあ、わたしも慣れるかもしれない」
「簡単に言うじゃん。でもそれってさ、もう終わりなのよ、色々。金は稼げるよ。でも虚しいの。煙草と酒と服に金使って、ほんと、虚しいだけ。今わたしが十五の自分にアドバイスするなら、どんなに苦しくても、まっとうな道を歩けって言うよ。ま、だから今あんたにこんなこと話してるんだけどさ」
言っていて気付かされた。わたしは今この子に、十五歳のわたしを重ねているんだ。過去には戻れない。わたしはもう、戻れない。けれど、この子はまだ、未来がある。戻れなくても、正しい未来に進むことは出来る。自分を救えなかったわたしが、この子を救おうとしている。恥ずかしいことをしているとは思ったけれど、それらを通り越して少し痛々しいくらいだとも思った。でも、十五歳のわたしは、きっと――
「お節介」
「はは。だろうね。わたしでもそう思ったと思うよ。でも、お節介もありがたいもんでしょ。あんたぐらいの歳だとさ」
「うざいだけ」
「それがいいんだよ。説教もお節介もない人生って、大抵くそみたいなものになっていくから。ああ、これ受け売りね。贔屓にしてくれてる金持ちのボンボンの言葉。然もありなん、みたいな感じの奴」
「……偉そうに」
「まあ、一応人生の先輩だし」
三本目の煙草を吸った。四本。五本。黙ったままの時間を、煙草の煙だけが埋めていく。人生の先輩なのかもしれないが、所詮は「一応」程度でしかない。男相手になら法螺でも何でも吹けるのに、なんて、無力なわたしを真っ白な吐息に思う。
「わたし、死にたいの」
少女は、さっきまでと変わらないトーンでそう言った。わたしは、驚きもしなかった。それこそ、こんなセリフは腐るほど聞いてきた。まともな人間がいないこの街じゃあ、むしろ聞かない日の方が少ない。
「へえ、死にたいんだ」
「そう。死にたいの」
「死にたくないんだね」
「なんでそう思うの」
「死にたいって言ってる奴の八割は本気じゃないから、っていう、わたしの経験を踏まえて」
「あっそ」
少しだけ笑ったりしながら、わたしは六本目の煙草を吹かす。今日は一箱空けてしまいそうなペースだった。
「早死にするよ」
「そのつもり」
ちょっと高い煙草の煙。おいしくなんてない。そうそうすっきりもしない。嫌なことを忘れるようなものでもない。でも、なんだか今日は良い気分だった。
「今日は良い夜だよね。月も見えたし」
わたしは立ちあがって、小さな窓から外を見た。すこしだけ雲がかかっていた。星は、ネオンが邪魔して、よく見えなかった。
「明け方までに雨降るって言ってた」
「それも含めていいんじゃん。めまぐるしく変わる天気とか、わたし好きだよ。晴れっぱなしとかつまんない。まあ、雨ばっかってよりはマシだけどね」
わたしはバスローブを脱いだ。
「おかすの?」
「おかしてもいいの?」
「……いやだ」
わたしは笑う。「だよね」
下着も付けずに、わたしは服を着た。シャワーを浴びた後は、何にも締め付けられたくないからだ。着替えは、常備している。それなりに、可愛い服。
「あんたもわたしの着る?」
「サイズが違う」
「そんなこと気にしないの。帰るだけなんだから。それに、すぐ大きくなるよ」
「なんで分かんの」
「女の勘? 当たる自信あるよ」
そして、わたしたちはホテルを出た。
夜の一時は、この街にとっては最も活気のある時間だった。うるさい人ごみ。わたしが生きていく街。引き返すべきだった、街。
「もう来ちゃだめだよ」
「いつかは来るよ」
「あっそ。せいぜい、飲み会で使うくらいにしなよ。この街は金を払うところ。稼ごうなんて思っちゃいけない」
「お姉さんもね」
「そうね。ほどほどにしとく」
少女は、下着もつけないまま、ワンサイズ大きいシャツと、制服のスカート姿で歩き出した。
「送ろうか?」わたしは背中に問いかける。
「いい。迷わないから」
生意気な。なんて思いながら、わたしはお腹を抱えて笑った。
少女の姿が見えなくなって、わたしは、わたしの頬が濡れていることに気がついた。
おかしいな。まだ雨は、降っていないのに。
3
夜の街。雨の中。ネオン街。わたしは、短めのヒールで歩きながら、小さな影を見つけた。
「また会ったね。お姉さん」
今度は、少女の方から声を掛けて来てくれた。今日の彼女は、傘をさしていた。
「急に降り出したね」そんなわたしも今日は、傘の下にいる。
「持ってなかったから、コンビニで買った」
「そっか」
少女は、あの日よりも少しだけ、表情に「らしさ」のようなものがあった気がした。透明なビニール傘に落ちた雨粒の影が、ぽつぽつと表情に映るけれど、ネオンの灯りが煌煌と光る中で、等身大の彼女がそこにはあったように思えた。
「また来ちゃったんだね、この街に」
「お姉さんもね」
わたしは情けなく笑った。
「前回は、上司からの説教大会で、今日は同僚からの慰め会、ってところかな」
ネオン街を抜けると、風景は一転、いわゆる飲み屋街がある。その界隈にわたしが勤める会社があり、男性たちに混じって、よく利用する。悪い涙をそこで流して、わたしはネオン街を通って、家に帰る。頬を濡らすのは、雨だけとは限らない。
「ところで、どうしたの、その格好」わたしは淡々と訊いた。
少女は、大きめのシャツに、制服のスカートを穿いていた。何かあったのだろうか、と、普通の人ならば良くない想像をしてしまうものだろう。そうわたしは思った。
「茶髪のお姉さんとホテル行って、シャワー浴びて帰った。あ、説教もされた」
「へえ。どんな人」
「エロい娼婦」
「それは凄そうだね」
「……怪しまないの?」
少女は怪訝な目をしてわたしを見つめる。睨む、に近いだろうか。それでもわたしには、少女の人間味のある感情が窺えて、少しだけ嬉かった。
「怪しむ必要がないだけだよ。あなたを見れば、嘘じゃないって分かるもの」
わたしの言葉に、少女は合点がいったように微笑んだ。「なるほどね」なんて言いながら。
急に、雨が強くなった。アスファルトに跳ねて、足下はどんどん濡れていく。
傘を叩く雨粒の音。湿気を纏った嫌な臭い。下品なひとびとの声は、人種の坩堝ともなった街だけあって、片言の日本語もあちこち飛び交う。
そこに佇む、純粋な少女。本当ならば知るべきじゃなかった世界に足を踏み入れた、かつての少女。
「じゃあ、帰ろうかな」わたしはわたしの道を歩き始めた。「じゃあね」
すると、今回は少女の方がわたしを呼び止めた。
「ねえ、お姉さん」
わたしは立ち止まって、少しだけ振り返る。少女の姿は、視界の端にしか映らない。けれど、彼女が浮かべているその表情が、不思議とわたしには分かった。
「後悔してる?」
「何に?」
「その道を選んだこと」
わたしは首を振った。
「わたしに訊くことじゃないよ。それは、あなたの生き方次第。答えは、そこにしかないの」
少女は、きっと強く傘の柄を掴んでいる。
わたしは、「それに」と、言葉を継いだ。
「迷わないって、言ったんでしょ」
そう言い残して、わたしは帰路に付いた。
ネオンの海を抜けて、わたしは空を見上げる。少女はどちらの道を選ぶのだろう。そんなことを考えながら。
どちらを選んでも、楽な道なんてありはしない。青空の下を歩く日もあれば、雨に紛れて涙を流すこともある。抱える悩みに、そうたいした違いはない。
それでも、わたしはこの道を選んだ。彼女がどうするかは、彼女次第だ。
雨が弱まった。服にこびりついた煙草の臭いが、湿気に混じってより悪臭になっていたことに気付いた。居酒屋という場所は、こういうところが好きになれない。何よりわたしは、煙草の臭いが、この上なく嫌いだった。
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