妖怪さんと幽霊少女

 実に愉快なり。実に美しきものなり。故に世界は素晴らしい。


 私は空を飛びながら町を見下ろす。

 東京の空もなかなかだったが、少々目障りなものが多かった。我々「飛ぶ者」には生きづらくていけない。


 ここはいい。目障りなものはないが、羽を休めるにはちょうど良い高さの建物が充分にある。学校の屋上なんかが好ましい。それなりに広く、そう目立たない。


「妖怪さん妖怪さん。どうしてあなたはそこで眠っているの」


 おっとおかしい。少女の声がする。


「人間の学校の屋上は子供が入ってはいけないと聞くが、君はいいのかい」

「先生には内緒。皆にも内緒。わたしはここで本を読むの」


 確かここは小学校というところだったから、まだ幼いだろう。八つか九つくらいだ。


「皆、庭で走って遊んでおるよ。君も行けば良かろう」

「皆わたしを無視するもの」

「声を掛ければ良い。無視する奴は叩いてしまえ」

「叩けないよ。痛いもの」

「相手がか?」

「自分がよ」


 私は雲一つない空を見ていた。仰向けに寝るのはいいものだ。視界が空色で染まる。


「妖怪さん妖怪さん。お隣いいですか?」


 声が耳許に近づいていた。横を見ると、可愛らしい少女が仰向けになって寝ていた。


「ここ、あたたかいね」

「太陽がか?」

「床が」

「本を読むんじゃなかったのか」

「ひなたぼっこもいいかなって」

「そうかい」


 珍しい子もいたものだ。私を妖怪と知って隣に来ようとは。


「私が怖くないのか」

「怖くなくもないかな」

「どちらだい」

「ちょっと怖い」


 正直者だ。人にしては珍しい。久しく人とも話していなかったが、皆がこうであるなら悪くない。


「何故無視されるのだ? あれらも人間だろう」

「わたし、嫌われてるの」

「何故」

「教室の隅っこで本ばかり読んでいたからかな」

「それで嫌われるのか」

「一緒にトイレに行って、楽しくない話でも笑う、そんな子だけが友達になれるんだよ。それが人なの。他人と違う人は、人間扱いされないの」

「妖怪扱いか」

「違うよ。幽霊扱いされるの」


 少女は本を抱えていた。大きな本だ。図鑑と書かれていた。


「人より本がいいかい」私は皺だらけの指で本をさした。

「本は好き。読みたいなら読めばいいし、読みたくないなら閉じればいいの。だから好き」

「人よりも妖怪がマシかい?」


 少女は「うーん」と唸って、かぶりを振った。


「妖怪さんとお話するのは初めてだから、分からない。……でも、あなたみたいな妖怪さんがいるなら、妖怪さんの方が好き」

「怖い妖怪もたくさんおるよ」

「人にもいる。教室の中にたくさん」

「こんなに綺麗な町でもいるのかい」

「きれい? そうでもないよ」

「綺麗さ。空気がいい。ビルがない。こんなに空が美しく見える場所がある。だが、そうか。地上では、見たくないものまで見えてしまうのだな」

「妖怪さんはその羽で空を飛んでいるのね」

「空はいいぞ。たまに飛行機やヘリが厄介で、東京はビルやタワーが邪魔だがね。人はおらんから、ほどよいよ」

「ふーん」


 少女と二人で空を見る。雲一つない空色。いやに深く、浅い。吸い込まれそうになるのだが、吸い込まれはしないのだ。畏怖もするが、美しいのだ。


「どうだい、君も空に行ってみるかい」

「どうして?」

「違うものが見えるかもしれない」

「どんなもの?」

「行けば分かるさ」


 髪が縦に揺れたのが横目に映ったので、少女は首肯したと見た。


 私は少女を抱えた。図鑑は重たくなるので屋上に置いておいた。そして羽を広げ、あの青い空に飛び込んだ。


「少し寒い。太陽に近づいたのに」

「風があるからだろう。地上とここは違うからな」


 少女は声を張って言った。


「川が見える」跳ねたような声だった。

「海はないがな」

「田んぼしかない」

「田舎だからな」

「おばあちゃんが歩いてる」

「田舎だからな」

「でも、きれい」

「だろう?」


 少女が笑っているのが分かった。声音によるものだ。表情は見えない。


「空はいいね。全部きれい」

「そうだろうそうだろう。地上は、全てが近すぎるのだ」


 あの川も、近くで見れば濁っているだろう。田も目線が同じでは感嘆し難い。老婆はしわくちゃで見られたものじゃない。


 だがしかし。空を飛び、世を俯瞰する私は、人の世も嫌いではない。


「遠くから見れば、世界はこんなに素晴らしい。遠くから見て素晴らしいなら、きっと近くで見ても素晴らしいのだ。見方を変えるのだ。難しいがな。濁りの中を泳ぐ魚がおり、田ではそろそろ米が穫れる。ばあさんのしわくちゃな顔も、長年の生きた証が刻み込まれてなかなかどうしていいもんさ。美しいのだ、世界は。それをここで知ることが出来た君は既に、世界の素晴らしさを知ったも同然なのだ。あとは君次第である。幽霊になるかどうかも、君次第だ」


 羽ばたき、私と少女はさらに広く世界を見る。


 黄金色の稲。線路。瓦屋根。色とりどりの車。人の頭頂部。全てが世界を彩る欠片たちである。自然と、人がつくりしものと、人と。


 私は叫んだ。


「実に愉快なり! 実に美しきものなり! 故に世界は素晴らしい!」

「なあに、それ」

「ほれ、君も叫べ。実に愉快なり! 実に美しきものなり! 故に世界は素晴らしい!」

「ゆかいなり! うつくしいなり! すばらしいなり!」

「よーしよし。良きかな良きかな!」

「よきかなよきかな!」


 私と少女は笑った。大声で笑った。


 愉快痛快。世界はこんなに素晴らしい。


 屋上に降り立ち、少女は図鑑を抱えた。


「じゃあね、妖怪さん。素敵な時間をありがとう。今度会う時までに幽霊卒業するよ」

「無視する奴は叩いてしまえばいい」

「嫌よ。痛いもの」

「相手がか?」

「自分もよ」


 そうかそうかと私は頷いた。


「さらばだ、少女よ」

「さらばだ、妖怪さん。またね」少女は手を振る。


 そして、私と少女は別れた。おかしい。羽を休めるはずが、疲れてしまった。

 不思議だ。でありながら、稀に見る面白き空に、私は満足していた。


 実に愉快なり! 実に美しきものなり! 故に世界は素晴らしい!


 故に私は、この世界が好きなのだ。

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