あの夏がないている
平成の大合併の頃だったか。
母の生まれ育った田舎の、名前が変わった。「村」だった山村が、「町」と呼ばれるようになった。
コンビニまでは車で三十分。市街地までは一時間。これで分かるだろうが、今時にすればずいぶんな田舎だ。
冬にもなればスキー客がそれなりにやっては来るが、昔に比べれば賑々しさの欠片もないという。
蝉の鳴く季節に、俺は母に連れられ、久しぶりにここにやってきた。時期は盆。墓参りだった。
墓への道すがら。視界には、幅の狭い川と、田畑と、木々。昔に比べれば些か走りやすくなったであろう道路。今にも折れそうなガードレール。ぼろぼろのバス停。唯一の集会場である公民館。それ以外に何がある。もはや民家すら見当たらない。あるにはあるが、人が住んでいるのか判然としない。
寂しい町だ――俺は呟いた。
子供時分には、祖父母の家に泊まり、カメムシに悪戦苦闘したあの夜が幾日もあった。今では一晩過ごすのも嫌になる。コンビニどころか、夜になれば街灯もないに等しく、携帯の電波も不安定だ。
夕暮れの中、墓に手を合わせる。
線香の匂いは嫌いではない。菊の花に細い煙が被る。目を閉じて、数秒の後、目を開ける。墓石に刻まれた名を見て顔も浮かばぬ先祖に、別段話すこともなかったからだ。
母は、長々と手を合わせていた。
家に戻る。上がり框を上り、畳に座った。祖父が寝ている。大いびきだった。
テレビを見ていると、田舎暮らしに憧れて移住した若い夫婦の特集が始まった。移住一年目で、自然あふれる風景に癒やされながら子育てをしているという。
数年もすれば、あの子供が田舎を嫌がるか、夫婦のどちらかが不満を持つか。ともかく、あの笑顔が溢れている瞬間はさほど長くはないだろう。
退屈とは日常においては何よりの敵である。紛らすには自力では足りず、何者かの手を借るか、不意にやってくる刺激に一任することになる。
田舎にそれらはない。大層のんびりして、余生を味わうには十分だろうが、若さを発散するだけのポテンシャルはない。退屈と怠惰に塗れた毎日になるのは、必然と言って憚らない。
だから俺も二十歳を過ぎて、墓参りに来るのが精々なのだ。
あの夫婦が持つ若さがこの静閑さと緩慢さに耐えられるか。きっと無理だ。それが、若さというものだ。
○
日が落ちて、夕食の時間になった。本意ではないが、食べていくことにする。
すっかり目の覚めた祖父の前に置かれたホットプレート。焼き肉だった。久しぶりに孫が来たからと祖母が張り切った。だが、祖父は食べられない。神社の世話を任されたとかで、四つ足の肉を一年間食べることが出来ないのだ。と言いつつ、祖父は祖母の目を盗んで、豚肉を一切れ食べた。俺と母は苦笑した。
テレビから流れてくるバラエティ番組を、肉を頬張りながら見る。いつも見ている番組だったが、なぜだか楽しくなかった。
祖父は黙ったまま玉葱を食べている。祖母は母と談笑。近所の人の孫が最近結婚しただのと、興味の一つもそそられない話題が続く。俺はテレビを見ていることしか出来なかった。退屈だからとコンビニに出掛けることも出来ない。携帯の電波も満足にない。実に不便だ。
町と呼ばれるようになっても、所詮ここは村なのだ。家の中であっても、耳をすませば川のせせらぎが聞こえるような、そんな村なのだ。
観光客にも期待できず、数少ない若者は皆街へ下り、そしてこの村は数十年と経たずに人陰一つ見えなくなるだろう。
子供の頃過ごした夏は、遠い記憶の彼方にのみ息づく過去になっていく。
墓に眠る先人が過ごしたこの村が、家が、土地が、時間が、現在を刻まなくなるのは近い将来必ず訪れることだ。そうはさせまいと動く者もいないのだから、仕方のないことだった。
○
座卓の上が寂しくなって、帰宅の頃合いだ。とっとと帰りたいとの意思表示に、外へ出た。
何気なく、空を見上げた。いや、何気なくではない。昔よく空を見ていたことを思い出したのだ。
そこには、満天の星があった。
飲み込まれそうになるほど綺麗だった。
青、白、黄色、赤。まるで星々に色があるかのように、深い紺色の空に鮮やかさがあった。
今も変わらない星空。かつてと変わらない景色。
変革なき土地に未来はない。
だが、この村が、集落が、果てになくなってしまうとしても、この空はきっと、輝き続けながら毎夜光を届けてくれるのだろう。そこに人の姿が、あろうと、なかろうと。
怠惰と退屈と無音を照らす星々に見惚れながら、俺は不意に流れそうになった涙を堪えた。
――まるで、あの夏が。
退屈でありながら刺激的だった、幼き日のあの夏が、泣いている。
昼間、川では魚を釣り、スイカを冷やし、夜は、街灯なんてなくとも、手持ち花火とこの星空で笑顔になれた。静夜に響く川の
消えていくのだ。あの夏が。
時を経るごとに、現在を刻むことを諦め、次第に過去のものになっていく。
そして、あの夏を後生と大事に抱える者がこの世を去るその時、歴史となり、どこかしらにその存在を綴られ、終える。まるで墓に刻まれた名だけが、その人がこの地に生きた証となるかのようだ。
俺が、先祖の名すら知らなかったように。
人の一生と変わらない。記憶の死は、本当の意味での「死」なのだ。
名残り惜しさを少々携えて、俺は俺が生きる町へと帰っていく。
この地へ来ることもそう多くはないだろう。
車に乗る。エンジンをかけ、アクセルを踏めば、懐かしい景色は遠退いていく。暗闇をハイビームが照らす。街灯が増え、暗闇は徐々に薄れていった。
――あの夏がないている。
思えばこそ、帰り際、俺はこう言わずにいられなかった。
かつて生きた先人に。
いつか消えていく老いた村に。
いつまでも輝き続ける、この美しき星空に。
「じゃあ、また」
あの夏よ、もう一度。
あなたが過去になってしまう、その前に――。
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