第6話 みすずさんの願い

 彼女が部屋を出てから五分ほどして、コンコンと部屋のドアをノックされた。

 シャワーだけにしてもいささか早い。彼女ではない。

 人見知り特有の嫌な緊張感がうなじの辺りから湧き始めている。いっそのこと今から目を瞑り寝てしまったということにはできないだろうか。そんなことも思ったけど、勇気を無謀で塗りつぶす術を僕は持ち合わせていなかった。

 

 「はい、大丈夫です」

  

 そっと開かれた扉の向こうからみすずさんは静かに部屋に入る。その両手の上にはジャージとバスタオルがある。

 

 「ミミとまったりしている時にごめんね。うちの兄のなんだけど新品だから使ってね」

 

 膝上のミミを起こせない僕に、みすずさんは優しく微笑みながらそれを渡す。言い方からしてバスタオルに包まれているものが下着だということはすぐに分かった。

 「‥‥ありがとございます」

 「こちらこそ、菜月ちゃんと仲良くしてくれてありがと。良ければ隣いいかな?」

 「どうぞ」

 

 え、どうしよう。みすずさんがすんなり横に座った。着替えだけを置きにきてくれた流れだと安堵していただけに余計に苦しい。

 こうなれば早く僕がつまんない人間だと分かってもらい、早急に話す価値がないという烙印を押してもらおう。それしかない。でないともっと辛いことになる。

 

 「改めてなんて呼べばいいかな?」

  そんなことはどうでもいい、

 「好きに呼んでもらっていいです」

 「じゃあさっきまでの呼び方で、親友くんでいいかな?」

  早く、一刻も早くこの状況を離脱したい。

 「はい、それでいいです」

 

 僕はひどく歪んだ顔をした。人はこれを作り笑いという。

 その視線はミミに安定させ、みすずさんの姿はほとんど見ない。見れない。

 

 「親友くんは菜月ちゃんといると楽しい?」

 「その、退屈しないです」

 「そっか。私もそれ聞けてうれしいな」

 

 気がつくと無意識にミミの背中を撫でていた。今のこいつは僕の御守りだ、みすずさんとの話を紛らわすための術になっている。

 

 「それにしてもミミが初対面の人に懐くなんて意外だね。可愛い?」

 「はい、人馴れしてますね」

 「この子、とっても賢いよ。私が悲しかったり、嬉しかったりすると決まって甘えてくるの。きっと人間の気持ちが分かるのね」

 「‥‥優しいんですね」

 

 「うん」とみすずさんは頷き、「親友くんは菜月ちゃんのことどれくらい知ってる?」と曖昧な言葉でカマをかけてくる。気をはっていたからか、その言葉の意味はすぐに分かった。

 ‥‥どうしよう? いっそ知らないふりをしてやり過ごそうか。

 ほとんど見ないように、瞳を避けて、横目にみすずさんを一瞥する。

 みすずさんの表情はさっきとは違った。顔全体は笑っているのに目だけが妙に強張っていて、つまり僕に耐えられるものではなかった。

 

 「彼女から寿命が短いことなら聞きました」

 「そう。親友くんに伝えたいことあるんだけどいい?」

 

 さっきまでとは違う真摯すぎる声音。重厚感のある空気が辺り一面を覆い、人見知りの緊張とは違ったものを僕に押し付けてくる。

 

 「‥‥なんでしょうか?」

 

 みすずさんから小さく呼吸を整える音が聞こえる。そして、

 

 「これからも菜月ちゃんのわがままにずっと付き合って下さい、お願いします。私が協力できることならなんでもするから」

 

 膝上のミミにうすい影が伸びる。−−なんだろう、と横を見るとみすずさんが深々と頭を下げていた。瞬間、僕は歯切れの悪い罪悪感を感じ、たじろぎながらも三秒ほど考えを摸索する。けど救いのある言葉は咄嗟には出てこず、

 

 「‥‥‥みすずさん、どうしたんですか? 頭上げて下さい」

 

 今の感想をそのまま言うみたいになってしまった。

 

 「親友くんが承諾してくれるまでこのままだから」

 

 みすずさんは未だ頭を上げぬまま。おかげでミミもびっくりして「ぐぅにゃん」と低い鳴き声を聞かせると、膝の上からぴょんと床に降り、そそくさと部屋の隅で丸くなった。


 「承諾もなにも、学校終わって疲れてる中、彼女に流されるまま一時間ぐらいかけてここまで来たんです。今更、彼女のわがままに流されない僕だと思いますか?」

 

 問いかけるとみすずさんはすんなり頭を上げた。この人の頭の中で僕が彼女のわがままに振り回される絵が明確に浮かんでいるのがよく分かった。

 

 「確かに。親友くんは菜月ちゃんに振り回されるのがよく似合っている」

 「‥‥いや、そうですかね」

 

 クスクスと小刻みな笑い声が横から聞こえる。みすずさんに抱いていた『お淑やかでコーヒーを勧めてくれる優しい人』というイメージはここで完全に崩壊した。‥‥いや、でも、よく考えると自分のキャラを保てないぐらい必死だったのかもしれない。懇願したあのときの姿は無理をしていた姿だったのかもしれない。そう思うと辛うじて『彼女のことを思う優しい人』っていう印象に留まった。

 

 「あ、ごめんね。私なんだか舞い上がっちゃって。菜月ちゃんが私の家に友達連れてくるなんて初めてだから」 

 

 すぅーとみすずさんの言葉の熱が引いていく、通常に戻っていく。


 「そうなんですか」

 

 「うん。菜月ちゃんには今のこと内緒にしてね? ほら、あの子の前ではお姉さんでいたいもの。その代わりと言ってはなんだけど、明日の朝、学校まで車で送ってくから」

 「分かりました。どうかそのポジションを守ってください」

 

 「うん」と頷き、みすずさんはべッドからそっと腰を上げる。「さて、私はそろそろ戻るね、現場を押さえられちゃう」そう言いドアに手を掛けると、後ろ姿を横目で見ていた僕に向かって一度振り返る。いきなり目が合い僕は視線を逸らした。

 

 「じゃあ、菜月ちゃんをよろしくね」

 

 静かにドアが閉められると部屋の隅で丸くなっていたミミが僕の膝の上に戻ってくる。よしよし、とクリーム色の背中を撫でてやるとミミはまた眠くなったのか、丸くなって目を閉じた。

 

 「なぁミミ。ほんとぐったりだよ」

 「ぐぅにゃん」

 「お前‥‥ほんとに可愛いい奴だな」

 「‥‥にゃん」

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