第5話 ありがとうは言わなくて

 みすずさん家の二階には八畳ほどの部屋が二つある。どちらも客室用らしく整頓されているけど、なんとなくそれが殺風景にも感じた。

 その内の一つ。階段を上ってすぐ横にある部屋で、僕と彼女はベッドに座り暇と遊んでいる。カーテンから夕日の色が溢れ、今日ここに泊まっていくことを実感させた。

 

「東雲くん、発狂してもいいんだよ?」

「君が勝手にしてればいいじゃん」

「もうそんなに怒んないでよ。やんっ、くすぐったいなぁ」

「‥‥変な声だすなよ」

「だっていきなり舐められるとくすぐったいんだもん。乙女の肌は繊細なんだよ」

「知らないよ、そんなの」

「東雲くんはペロペロされたい?」

「されたくない」

「じゃあ抱いていいよ。きっと喜ぶから」

「まぁ抱くだけなら」

 

 彼女の両手に囲まれた尻尾の生えたクリーム色を優しく抱きかかえる。

 もともとは彼女の家で飼っていた愛猫らしいが、引っ越し先のマンションがペット禁止だったらしく仲のいいみすずさんに引き取ってもらったらしい。

 

「可愛いでしょ? モフモフでしょ? 食べちゃいたいでしょ? 可愛すぎて発狂しちゃいそうでしょ?」

「確かに可愛いけどさ」

 

 聞くところによると本当に彼女と性格瓜二つな猫である。昼間は堂々と首に付つけた住所のタグを見せびらかし散歩をするらしく、夜になるとお腹を空かせて玄関のドアを叩くらしい。なんともひょうきんで図々しい奴だ。それでも飼い猫としての本分はしっかりやっているらしく、三十分前、玄関で初対面を果たしたとは思えないほど僕に頬を擦り寄せて来る。彼女が風呂場で身体を洗った時も水を恐がらず、泡を恐がらず、挙句の果てにはドライヤーの熱風に自ら当たりに行った。あまりに賢いので中に小人が入ってるんじゃないかと今でも少し疑っている。

 

「もっと気持ちを込めて可愛いって言って欲しいなぁ。私の妹なんだからね!」

「君は猫と人間の年の取り方が違うって考えたことある?」

「ないよ。大切なのは心だからね。それにミミは可愛いのこの世の森羅万象の可愛さを凝縮した生命体なの! だから全世界の妹といっても過言ではない」

 

 なんか、いろいろと論点ずれてる。

 そう思った矢先に僕の膝の上でこいつは丸くなる。その可愛らしさに発狂はしなかったけど心の中がフワッとして、思わずサラサラな背中を撫でてしまい、ハッとして、彼女のニヤニヤしたムカつく顔をちらっと見て反論できくなってしまう。

 

「東雲くん、今とってもいい顔してたよ。写真で収めたいぐらいだったよ」

「‥‥ほんとやめよう。そういうの」

 

 チームプレイは姑息だ。一人と一匹で寄ってたかって心の隙を突くなんて。

 

「それにしても東雲くんによく懐いてるね。ミミにしては珍しいよ」

「普段は人見知りな猫なの?」

 

 少し感心したような表情を向けてきたので便乗するように聞き返した。

 

「人見知りではないよ。どんな人にでも擦り寄ってく人懐っこい性格だよ。けどね、膝の上で目を瞑って丸くなることなんて絶対ないよ。やっぱりある程度は警戒するじゃん」

「ってことは僕に懐いてくれてるの?」

「うん、懐いてるよ。嬉しい?」

「普通」

 

 冗談っぽく彼女は頬を膨らませる。ひまわりの種を欲張るハムスターみたいだ。

 

「素直に『うん』って言えばいいのに。そうすれば東雲くんも可愛いのに」

「だから僕は可愛いなんて言われても嬉しくない。昼休みに言ったでしょ?」

「でもそうやって反発する東雲くんは可愛い時あるよ」

 彼女は僕に右目でウインクするとベッドから勢い良く立ち上がる。

「お風呂入るけど一緒に入る?」

「‥‥バカなの?」

 

 冷静に言ってはみたけど内心は気が気ではない。冗談だとは分かっているが、それに笑って冗談を返す余裕が僕にはない。

 

「あ、ちょっと赤くなった」

「なってない」

 

 慌てて俯いてしまう。考えるよりさきに身体が動いてしまった。こうやって顔を上げられぬまま、彼女の嘲笑を聞かされるのはこれで何度目か。

 

「ねぇ東雲くん。私ね、結構幸せだよ、ありがとね」

 

 僕の返答も聞かぬまま彼女は足早に部屋を出ていった。

 なぜこんな気持ちになったかは分からないけど、僕も彼女に少しだけ感謝していた。

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