第3話 落書き

 思い出に現を抜かす暇があるのは案外幸せなことなのかもしれない。

 そして、黒板とチョークが奏でる音で眠くなるのは平和だからだろう。

 特に昼休み抜けの国語の授業、担任の小泉先生のそれは悪魔的だ。クラス三十人中、その半分ほどがノートを取ることを放棄している。まるで鎮魂歌だ。

 授業が折り返しに差し掛かった頃、隣席の彼女が口もとを教科書で隠し、静かに話し始めた。さっきほどまでノートを取ることに精を出していたが、眠気に怠さを覚えやめたらしい。その片隅にはよく分かんない動物の絵が描かれている。

 

「ねぇねぇつまんないよ」

「おとなしくしてなよ。君は元気がありすぎるんだよ」

 

僕も教科書で口もとを隠した。小泉先生は注意しないことで有名な女教師だが、堂々と喋ってしまうのは気がひける。 

 

「だって分かんないだもん」

「分かるために勉強してんじゃないの?」

「‥‥本当は悪い子なのに良い子ぶっちゃて」

 

 彼女が不服そうに息を零すと、そのタイミングで小泉先生は右手に着いたチョークの粉を軽く叩き落とし、教科書を手に取り読み始めた。

 『走れメロス』を朗読する小泉先生の声はあまりにも女子らしく、終始、熱い友情と信念が幾多の困難を打ち破る作品には似つかわしくないと感じた。

 黒板から再び心地よい音が流れ始めると、隣の彼女が噴き出しそうな顔を教科書で隠しているのが目に入った。

 

「ひどい生徒だね、君は」

「え? どいうこと?」

 

 彼女が真顔をこちらに向けて来たので反応に困ってしまう。

 

「‥‥なんでもない」

「なんでもないは、なんでもあるだよ」

 

 ぽりぽり、と彼女は人差し指でこめかみを掻く。それから十秒ほどして自分の中で合点がいったのか、へっへっへと笑う。


「これおもしろいよ」そう囁き彼女は教科書のとあるページを見せてきた。

 そこには僕が一番好きな文豪の‥‥

 

「‥‥君は本当にひどい人だ」

 

 髭をアレンジした落書きがあった。

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